深谷のもやし屋(有)飯塚商店創業者であり、初代代表取締役社長飯塚英夫(平成22年没 享年八十八歳)は第二次大戦において凄惨を極めた【インパール作戦】の生還兵であった。日本陸軍参加将兵8万6千のうち戦死者3万2千あまり。その大半が病死もしくは餓死だったと言う。生き延びた英夫は帰国後、その体験あって食に絡んだ仕事に従事、農業、青果卸と営みそして昭和34年に地元でも珍しいもやし生産業(有)飯塚商店を立ち上げた。

 

 父が亡くなって14年。そのくらい経てば忘れてもいいころだが、そうでもない。俺がもやし屋をやってるかぎり、忘れようがない。飯塚商設備には父が遺したものが沢山あるから。軍隊あがりの素人工事故、もう使わないもの、改良したものが大半になってきたが、それでも水槽、栽培容器、仕込みの容器はそのままだ。北風吹きすさぶ中、父と二人で配管工事やら、栽培容器の補修などをずっとやってきた。苦しかったが今となっては良い思い出だ。

 

 今年は特に暑かった。早朝からひとりでもやしを洗って、もやし詰めしてるときに、滝のような汗をかいたら、突然寒気がして、足ががくがくと震え出した。「あ、いわゆる熱中症の前兆かもしれないな」と思って、詰めたもやしの配達や発送は妻にお願いした。そして俺はヨタヨタと自宅に戻り、張ってあった水風呂に飛び込んだ。水風呂で火照った身体を冷やしながら、父のことを思い出した。父が体験したのはこんなものじゃなかっただろう。まさしく「その場で倒れたら詰み」だったはずだ。

 

 父はもやしの事は一切教えなかった。おそらく父はもやしのことは分からなかったのだろう。でも多くの事を俺に遺してくれた。借金もふくめて(笑)。そして俺が父から得た一番のものは、どんなことがあっても生きて行く力だ。

 

 妥協はしない。媚ない。それは持続可能な生き様じゃないから。

 

 これが正しいと信じた道を歩んでいく。そして多くの共感者の中で生きて行く。この道を指してくれたのは戦争経験をした父からであった。

 

 

 

 

 久しぶりのブログ更新です。

 

 どん底の中、怒りと何かに突き動かされてこのブログを始めたのが2008年だからもう16年も前のことになります。その頃はいつ潰れても不思議じゃない小さなもやし屋でしたが、お客様、理解者に助けられ、なんとか今も続けています。全然裕福ではありませんが(笑)、堂々と豊かなもやし屋です。

 

 自分の長男が結婚することになり、相手は昔っからよく知る近所に住むご家庭の次女であり、長男とは幼稚園の時からの幼馴染です。そしてその頃は私も幼稚園のPTA会長をやっていたので、もう他人という感じではないです。さらに相手の母親は10年以上深谷のもやし屋でパートとして働いています。目的のために真面目によく働く人です。

 

 私自身は、昨年60歳になり、体力的にもみるみる衰えが感じられ、さらにスタミナの低下、膝の故障、そして16年前から進んできた活動にも限界がきた感覚にとらわれ(コロナ禍という外的要因もあったかもしれません)、気持ち的に沈んでいました。ただ長男がよく知っている人と結婚することをきっかけに沈んでいた心が一気に晴れやかになりました。限界が見えてきたこれまでの道に新しい道が開けたような。その見えた新たな道はこれからの人生の指針と言っても過言ではないです。

 

 大きな目的はただ一つ。「幸せに豊かに末永く一族が暮らしていける」ことです。父が遺してくれたもやし栽培の施設、そしてもやし屋として生き残ったこれまでの経験、人脈が活かせそうです。その目的に向かって開拓し、使えるものは何でも使います。

 深谷のもやし屋(有)飯塚商店創業者であり、初代代表取締役社長飯塚英夫(平成22年没 享年八十八歳)は第二次大戦において凄惨を極めた【インパール作戦】の生還兵であった。日本陸軍参加将兵8万6千のうち戦死者3万2千あまり。その大半が病死もしくは餓死だったと言う。生き延びた英夫は帰国後、その体験あって食に絡んだ仕事に従事、農業、青果卸と営みそして昭和34年に地元でも珍しいもやし生産業(有)飯塚商店を立ち上げた。

 

 令和5年、吹き荒れたコロナの禍が終わりつつあり、人々は急速に以前の日常を求めだした気がする。両親はとうに亡くなったが両親が遺した(有)飯塚商店は今もしぶとく生きている。

 

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「なあ親父、人が来ると勇ましい戦争の時の話ばかりしてるけどさあ、やっぱり親父は戦争がまた始まった方が良いと思ってんの?」

 

 ともかく生前の父の戦争話は長かった。苦しい辛いことばかりだったと思うのだが、なぜか人が来ると武勇伝ばかり楽しそうに語るのだ。たまりかねて、とうとう俺が夕食時に親父に聞いた。本当に戦争の時が好きだったのかと。そして親父は一言こう答えた。

 

「ああ?あー、やっぱり平和がいいなぁ」

 

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 私はしばらく(死んでからも)父の言葉の意味がわからなかった。

 

 ただ今回のコロナ禍を体験して、国が狂うことの恐ろしさがなんとなく見えてきた。国が狂えば一般の本来は穏やかな国民も様々な情報操作に狂わされていく。父がインパールで味わったのは「戦争」というおおざっぱな記号でなく「狂った人間に殺されそうになる恐ろしさ」を体験したからじゃないだろうか。だからやはり「平和が良い」と。

 

 私はそうだと確信している。

 深谷のもやし屋、飯塚商店はミャンマー産のブラックマッペをもやしの原料にしていますが、今年の1月の半ばごろでしょうか、もやしが成長、品質が安定しなくなりました。それはミャンマー産の新豆を使いだした頃とほぼ一致しています。しかし常に品質の良いミャンマー産ブラックマッペ、これまで豆が新豆に代わったくらいでここまで変わってくることはありませんでした。

 

 そこから日々試行錯誤の連続、ようやく今回の豆の適正温度がつかめました。それは、昨年までと比べて栽培室の温度が3℃違うということです。もっとはっきり言うと昨年までは26℃設定温度でもやしが良く出来たのが、今年は29℃にしないとできない、ということです。

 

 適正温度の発見に半年も費やしたのは、これまでの経験から「この時期、そんな高いはずはない」と思い込んでいたことでした。基本「もやしの栽培にこれ、というマニュアルはない」のです。それぞれの生産者がその地に合った栽培法を見つけなければなりません。収穫年度が代われば当然豆の性質も変わるのです。私はこれまで「もやしの生育を見て栽培を変える」、と話してきました。

 

ならばこれまでの経験なんてなんの意味もなかったのです。その時、その時のもやしに答えはあったのですから。

 久しぶりのブログです。コロナ禍に入ってから朝ドラを観るようになって、現在放映中の「カムカムエヴリバディ」で美味しい餡子をつくるおまじないで「小豆の声を聴け」というフレーズがありました。確かにどんなものでも、そういうのってあると思いました。

 

 今年、令和4年の1月10日あたりからそれまで問題なかったもやしの生育が安定しなくなってきました。確かに毎年の冬から春への変わりかけの頃は気を遣う時期でもあるのですが、今年は特に難しかったと思っています。まだ進行形ですが。いつも思うのですが、もやしの栽培に関しては寒いのはずっと寒い方が、またはずっと暑いほうが生産者としては楽なのです。が、日本は四季の変化がある国、今年は早くから暖かくなったり、でも朝は妙に寒かったり、なんともつかみどころのない日々が続き、生産者も、もやしも、迷ったのでしょう。

 

 ただこんな時…トライ&エラー連続の日々でも、見えたことはあります。それは人間が先走って温度やらやり水やらを調整してはいけないのです。あくまでも、もやしの生育の観察→考察→必要とあらば調整、の流れで行うことが大事です。今回はもう暖かくなる頃だろう、と勝手に思い込んで、もやしより先に人間が動いて、2か月もの袋小路に入ってしまった感があります。私は「もやしの声」を聴く前に動いてしまったのでしょう。これは親として失格です。

 これは昨日(3月11日収穫)のもやし。どれも同じ栽培コンテナで育ったものです。

このもやしからもやしの声を聴いてみます。

 

まずひとつの箱の中でも温度にムラがあります。それはここ最近の大きな寒暖差によるものかもしれないです。

きれいな根から、室温、水温、やり水の回数は今のままで良い感じです。

ただ、種子の大きさから判断して、まだまだ収穫するには早い、あと半日くらい寝かしておきたいです。

 

以上が私が聴いたもやしの声。これがちゃんと聴けてたかどうかは一週間後のもやしを見てわかるわけです。