今日は一緒に仕事をしている人のことを書きましょう。
その人と出会って3年くらいになります。現在、うちの仕事をしながら、ベーチェット病の治療中。
その彼が、以前、私にこういいました。
「自分がベーチェットになったのも、罰が当たったんです。自業自得ですね。」
その言葉を聞いて、私は少し怒ったように言いました。
「それは絶対にありません。神様が罰など与えるわけがありません。罪など、存在しないんです。」
以前、ベーチェット病のニュースで日記を書いたときに「ベーチェット病は治せる」と書いて、その日記を読んだ人たちに総攻撃されました。
「そんな治療法があるなら学会で発表しろ」
「おまえは医者か?」
「事実誤認も甚だしい」
素人の日記に対して、全然おおらかじゃないコメントの嵐に思わず、削除してしまうくらい、嫌悪しました。
と同時に、いまだにそんな集合体意識を持っている人が多いと言うことに驚きを隠せませんでした。
「治らない」と思っている人は絶対に治らないでしょう。
「罰が当たった」と思っている人はずっと救われないでしょう。
もちろん、そう思わなければやってられないというのも無理はありません。
事実、私もそうだった。痛いほど、その気持ちは分かります。
そして、そんな風に考えている人は、そんな気持ちを抱えていれば、救われないことも、分かっています。
でも、どうしようもないんです。。。
だからこそ、我々は、もっと意識のレベルを高めていく時期に来ている。
痛みや苦しみが存在するのは、自分自身の道を歩むようになっているからです。
自分の中では、こうありたいと願っているのに、現実を見ると、まったくかけ離れている場合。そのギャップに苦しみ、人によっては鬱や、病気になってしまう。
しかし、本当の自分の姿を、魂は求めている。
その魂からのSOS。
「おまえは本当はこうなりたいはずじゃなかったのか!?いつまで自分の気持ちを偽っているんだ!?」という心の叫び。
そういうシグナルとしての気づきが、私の様に借金で来る場合もあるし、病気や、人間関係でやってくる場合もある。
痛みや苦しみは、自分自身を傷つけようとして存在しているのではなく、むしろ、自分自身を大切な存在として扱いなさいと言う、天からのメッセージなのだ。
これを、達観した人たちは「ギフト」と称している。
だが、苦しんで渦中にいる人たちに、苦しみをギフトだと諭しても、反発をくらい、そのギフトを、別のものとして受け取ってしまうことも多くあります。
人によっては、その苦しみから、世間を恨むようになり、犯罪を犯してしまうこともあるでしょう。あるいは、子供たちに
「世の中は辛いことでいっぱいや。ええことなんか、これっぽっちもあらへん。苦しみこそ人生や。」
と屈折した世界観を伝えてしまう人もいるでしょう(大半の大人がこういうタイプじゃないでしょうか)
さらにやっかいなのは、世間体や周りの評価など、内なる心に従うのではなく、外的な要因から自分の道を外れようとしたときに、まさにそのタイミングで痛みや苦しみが与えられれば、
道を外れそうになっていることに気がつきますが、まったく関係ないと思われるタイミングで痛みや苦しみが与えられることが多く、そのため、我々は混乱を起こしてしまいます。
その混乱こそが、「治らない」「罰が当たった」という妄言になってしまい、それが人々に伝搬してしまう。
そして、過去の経験をさかのぼって、ありもしない原因を追及する。合理的な考えの一つとして、「カルマ」や「過去世では罪人だった」などと痛みや苦しみを説明しようとする。
私自身、過去世を何人にも見てもらったことがありますが、私の過去世に関して、全員が全員、違うことを言いました。
「なんで、みんな違うことを言うのか?」と尋ねたところ、「過去は何度もあるから」と言いはなった。
すごい理屈だ。
これならみんな好き放題言える。なんとでも言える。
その人たちは、過去世を見ることで、飯の種にしているのだから、批判はしない。
大事なことは、もし仮に、過去世があったとしても、今の私に、なんの影響も及ぼさないのだ。
私の場合、23歳の時に、突然、苦しみを与えられ、意味も分からず、ずっともがいて何とか生きてこれました。
そう考えると、なぜ、私は誰も恨むこともなく、大病もすることなく、自分本来の道を歩めているのか。
自分が頑張ったからではありません。
周りの人々の、存在のおかげなのだと、気がついたのです。
ややもすると、心がすさみ、死んだらどれくらい楽だろうかと考えることも多々あったのに、そのたびに、支えてくれる人たちが、そこにいました。
大学院の友達、カトウは、僕の当時の現状を知って、
「マツモト、ごめん。オレ、なんて言ったらいいか分からへん。ごめん。。。」
と言いました。でも、私には、カトウの気持ちが十分に伝わってきました。
塾講師時代の教え子、ミナコは僕の仮設住宅の生活を知って、泣いてくれました。その当時、ミナコはまだ15歳でした。
「"人"という字は、支え合っている様に書きます」と、いままでにさんざん教えられてきました。
その真意が分かってきたんです。
その人が、自分本来の道を歩もうとして、突然、痛みや苦しみが与えられたとき、その人が「道」を踏み外さないために、その時こそ、周りが支えてやるのだと。
決して、いつも依存し合うのではなく、字を見ても分かるように、その人が倒れそうになり、別の道へ行こうとしてしまうときにだけ、支えるのが「人」そのものなのだと。
痛みや苦しみは、自分本来の道を歩むための、羅針盤。
そして、周りの人の愛は、あなたを目的地に運ぶための、風そのもの。
我々がするべきことは、ただ一つ。
心の舵を握りしめ、旅を続けること。
そして、魂の言葉は次のようにささやき続ける。
「いつも自分自身でいなさい」と。
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