八戸と南部氏の関わりは、南北朝時代、甲斐国(現在の山梨県)の南部師行が
根城を拠点として、根城南部氏を開いたことに始まると言われています
以来、根城南部氏は八戸地方を統治するとともに、南部氏の総領である
三戸(盛岡)南部氏の重臣として重要な役割を果たしてきました
14世紀中頃には青森県一帯を支配下に治めた南部氏ですが、多くの一族からなる
南部氏にも力の差が生まれ、三戸と根城の「二つの南部」が台頭してきます
16世紀になると、根城南部氏は当主の早世などで勢力が後退し、
三戸南部氏の力が強くなってきました
時の当主・晴政は巧みな外交と戦略で現在の盛岡市周辺まで支配地を拡大し
その実力を見せつけましたが、家臣の反発により本拠が焼失しました
その後、晴政は新しく現在の三戸町に三戸城を築きました
三戸城跡の重要な出入り口付近には石垣がありますが、中でも鍛冶屋御門跡の
野面積の石垣は東北地方最古のものとして知られているそうです
八戸市と三戸町はなぜ合併しないのかという疑問を抱く人も少なからず
いるようですが、昔は三戸郡八戸町だったこともあることからもわかるように
八戸は三戸郡の一地域だったわけです
南部の本流は三戸だという意識から、八戸に吸収などされてたまるか!という
思いもあるのかもしれません
2000年頃から三戸・南部・名川・田子の4町で合併に向けた話し合いもありましたが
2002年までに名川・南部・田子の3町が八戸地域との合併に方向転換
八戸地域との合併を希望せず、残された三戸町は三戸地域での合併を希望していた
ものの、3町が八戸地域の協議会に加入したため、三戸地域の話し合いは途絶えて
しまった経緯もあるそうです
複雑な歴史的背景があってのことなんですね
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