****  VOL.274  AIと向き合う   ****

                                          2023年11月

 

 先月、アメリカのフェニックスというところに初めて訪れた。アリゾナ州というと、なんだか砂漠のまんなかのようなイメージを持っていたが、よくあることで、行ってみると、広い空港、6車線の高速道路、超高層ではないけど貫禄のある幅広のビル、とてもきれいな立派な病院、大きな公園や木々と、とても住みやすそうな都会だった。

 一方、この街は、今年の夏、19日連続で気温43度を記録したことでも知られ、現地の方に伺うと、いくら湿気がないとはいえ、とても外は歩けなかったとのこと。

(もっとも、日本の湿気のある38度よりはまし、ともおっしゃっていた・・・)

 

 さて、ここからが本題です。

 

 夕方、街中を歩いていると、上にサイレンのようなランプをつけた白い車をよく見かけた。タクシーの台数よりは少ないが、パトカーよりは、はるかに多い。ほかの車のスピード同様に走り、右からも左からも、ほかの車と同様に走る。

何が違うかというと、車のなかに誰も乗っていないことだ。

無人運転車のテストを一般車道で行っているのである。聞くと、もうすでに3年ほど前から始まっているし、アメリカでは、他の数都市で走っているという。もう珍しくない風景なのだ。

 中国では、すでに市内でテスト走行をしていると聞いていたが、あそこはああいう国家だからと思っていた自分の無知無学を深く恥じた。

 

とはいえ、しばらく走っているのを見ていて、あれだったら乗ってみたい、タクシーも最近、どの街でもつかまりにくいけど、あんなタクシーだったら、乗ってみたいとも思った。

 もちろん、安全の確保や、万が一のときの補償や法律問題などの整備はいるのであろうが、

少なくても海外では、無人タクシーが早晩登場するだろう。乗り方は、みな、UBERですでに慣れている。海外で人相の悪い運転手のタクシー(意外といい人だったりすることもあるけど、やはり少し怖い)に乗るよりずっと安心な気がする。

 

 そして、同じようにAIを搭載し、会話し、人間同様に「自律的に」動き、働くロボットも近いうちに現れるのだろう。古代から、いい悪い、好き嫌いは別として、文明は前にしか進まないし、新しい文明を早く身につけた者たちが、力を得ることは歴史が示している。

そして、とても残念なことがら、それは戦争の場で試されることが多い。

 

鉄砲が入ってきたときに、それを研究して、作り、使った人と、そんなものは、と見向きもせずに、弓矢や刀剣に磨きをかけた人がどうなったか、私たちは知っている。

インターネットが広がりはじめたときに、あれは人間を愚かにする!、といって抵抗した人は、もしかしたら正しかったかもしれないが、時代を止めることはできなかった。

 

 そして人工知能が、自分が知らないこと、考えつかないこと。わからないことを教えてくれる時代は、すでに来ているのだ。

 

 先ほど、「自律的に」としたが、先の未来は別として、当面、AI人工知能は、膨大なデータをもとに、発言、行動を決定するようになっているらしい。AIの答えには、正しい、正しくない、善い悪いは無い。

AIは、過去の人たちの発言、行動による多数決なのだ。

 

多くの人が善意で行動すれば、AIも善意の行動を起こすが、多くの人が悪意とはまではいかなくても自我で動けば、AIもそのような行動をすることになる。そこには、良識の判断は存在しない。鉄腕アトム*や人造人間キカイダー**のような良心回路は、まだ開発されていない。

 

<鉄腕アトム*や人造人間キカイダー*  興味のある方は、ぜひ検索。出来たら原作を読んでいただきたいです。今こそ、そして大人が読むマンガかもしれません>

 

AIに限らず、あらゆる文明を率先して開発し、使う人は止まることがない。できたら、自分も便利に使う方になれたらいいが、いつのまにか、自分の人生がコンピュータによって支配されるような目にはあいたくない。

 

それでは、フェニックスで自動運転にびっくりしているような、小市民の自分はどうすればいいのだろうか。

 

まずは、目を背けずに、AIを知ること。

どのような仕組みになっていて、誰がどのように使っていて、どのように使うのか。
 

そして、(大多数の意見にかかわらず)、何が善いことなのか、人を助け、しあわせにするのか、世の中をよくするのかを判断できる知識と心と、それを行う志を持つことだろう。

それを怠る人が増えると、自分では考えずに、身近な不満を誰かのせいにすることが多数決となり、恐ろしい結末を招くリーダーを生む恐れがあることは、第二次世界大戦前のドイツと、そして今の世界を見ての通りだ。

 

*** VOL.273 つまらない大人にはなりたくない ***

 

昨今、「コスパ」がわがまま顔で世界を練り歩いている。

多くの人が、どれでけ得をするか、損しないか、を気にして時を過ごす時代なのだ。

 

タイパというのもある。

こちらは、タイムパフォーマンス、かけた時間に対して、得したか。損したか。

そして、二つとも、比較対象は他人。

他の人より得したらイエーイ!で、損したら、嫌なのだ。

自分だけが知っていると得で嬉しく、

自分だけ知らないことで損していないか、不安になる。

 

そうして得して手に入れたものを別に大切にするでもない。

浮いたお金で、また何か得することがないかを探す。

その探している時間(たいていはスマホで検索している時間)は、別にもったいなくない。

 

だから30秒以内のSNSがタイパのいい情報源となり、「10分で読める名作」なんて本屋に並んだりする。

しまいには、音楽ですらタイパが大事なので、曲の前奏や間奏は。飛ばして聞かない、だから前奏のない曲が増えたりする。

前奏が始まったときのわくわく感などは、損なのであろう。

そもそも音楽なんて、コンサートでもない限り、移動中や作業中のBGMで、録音した音源を聴くなんて、損する行為なのだ。

 

だから、若い時に聞いていたアルバムのCDをもう一度買い集めて、他に何もせずに聞き入る、なんていう僕の趣味は、そんな価値観の方々には、非効率でコスパもタイパも悪い、前世紀の遺物といわれるのかもしれない。

 

So what!?

若い時に繰り返し聴きこんだ音楽の前奏が始まり、歌い出すまでの、ゆっくりとした、この豊かな時間。

目をつぶって、スピーカーの向こうの風景を思い浮かべる楽しさ。

他の人がどういおうと、どう思おうと、自分の好きな音楽と過ごす自分の好きな時間を持つ幸せ。

「好き」に他人は関係もなおし、損も得もあるものか。

 

そういうわけで、今、青春時代の佐野元春を聴いている。

「つまらない大人にはなりたくない」(ガラスのジェネレーション)

この曲を何度聴き、歌ったろう。

そして、周りにいた「つまらない大人」を見上げて、こんな大人になりたくない、と強く思ったものだ。

 

つまらない大人にならずに済んだかどうかは、わからない。

つまらない大人だと思われることもあるだろう。

でも、当時、僕が嫌だった、いつも人の目ばかり気にして、悪口や愚痴ばかりいっていた大人にはならずに、

今という時間を大切して楽しみ、自分の好きなことや時間を持てているから、それでいい気がする。

「若すぎて何だかわからなったことがリアルに感じてしま」って、

Somedayの前奏を聴くたびに、泣きそうになっても恥ずかしくない。

 

いつも自分の損得ばかりを気にしている、

つまらない大人だけにはなりたくない。

 

 

 

 

 

 

 

***    VOL.272  インドの山奥で  ***

 

 これは、おそらく40代以上の方にしかわからないネタかもしれなくて恐縮だが、昔、変身ヒーローもの

で、レインボーマンというのがあって、今や還暦近いおじさんの僕が50年近い年月を経ても

結構覚えているほど、好きだった。

アノクタラ サンミャク サンボダイ」という呪文や、

ダッシュ1から7まで、曜日の月から日をもじった月、火、水、木、金、土、日と忍者の術ばりの変身をしながら、それぞれの得意技で敵と戦う(お察しの通り、火は火の術、水は水の術、木か土は、森のなかに隠れる術。一番強かったのは日。月は・・・思い出せない)。

ちなみに敵は、「死ね死ね団」という恐ろしい軍団だ。

このレインボーマン、インドの山奥で、ダイババッタのもとで修業して技を身につけた。

なぜ、ここまで覚えているかというと、きちんと主題歌に歌われているからである。

 

そして、これが僕のインドとの出会いであった。

それから長い間、インドは僕にとって、レインボーマンが厳しい修行した謎の国だったのだ。

後に世界史でインドが登場しても、西遊記で三蔵法師が目指しても(正確にはガンダーラはアフガニスタン)

ガンジーがイギリスの植民地からの独立を果たしても、

僕の中では、インドの山奥では、誰かが修行を続ける神秘の国だった。

 

1999年、20世紀が終わろうとする時、僕は念願のインドを観光で訪れた。

ニューデリーから入って、アグラ(タージマハル)、ジャイプール、ムンバイと観光入門ツアーだったが、それでも

毎日、強烈な異次元体験が出来て、忘れられない旅となった。

詳しく書くと、今からでも一冊の本になりそうなぐらいの思い出があるが、印象をまとめていうなら、

「カオスとたくましさ」だ。

そういえば、本格的なアユールヴェーダ施術を受けて、気絶したあと、

「もっとリラックスして生きなさい」と言われて、その後も自分の人生も変わっていったことを、これを書きながら、今、思い出した。

あれから、もう20年以上も経って、インドが変わったのか変わっていないのかの見当もつかないが、

体力のあるうちに、もう一度行ってみたいと思う。

 

そして、今。

ついにインドの時代がやってきた。

 

世界の富を積み上げたGAFAMのうち、グーグル、マイクロソフトのトップはインド人。
メタのメタバース開発トップもインド人。

ツイッター、IBM、AdobeのCEOもインド人。

シャネルのトップもインド人。

 

そして、イギリスの首相もインド人。

世界銀行の総裁もインド人。

それから、なんとハッピーターンの亀田製菓のトップもインド人なのである。

 

これはもちろん、インド人の方々が勉強熱心で優秀だからとか、幼いときから英語を使う機会が多いとか、ゼロを発明した民族で数字に強いとか、世界一人口が多くて、さらに当分増え続けていくこととか、いろいろ理由はあるだろうが、実は、やはりこうしたすごい人は皆、インドの山奥で修業をして、ダイババッタの魂を宿し、世界中に虹をかけていっているのに違いない。

 

日本も今からカオスな時代に入りつつあるので、インド人のたくましさを見習いたいものである。

 

 

 

 

 

 

 

        VOL.271 はじまりとおわり

 

最後に、このブログを更新してから、一年半が過ぎている。

 

いろいろいいわけはあるけど、中断するなら、せめてしばらくお休みします、と書いてからお休みすればよかったと

少し悔やんでいる。まあ、いろいろあったんですけどね。でも、ごめんなさい。

 

さて、心を入れ替えて再開するからには、頑張ってつづけるし、万万が一、ギブアップするようなことがあったら、これでおわりです、ときちんとお伝えしようと思う。

 

はじまりとおわりは大事だから。

 

どんなスポーツでも、開始の合図はある。

それはピストルのこともあるし、審判のかけ声だったり、笛だったりいろいろあるけど、必ずある。

 

ゲームの終わりも、必ずある。

それは最終の選手がゴールするときや、演技が終わるときや、審判が勝敗宣言をするなど、いろいろあるけど、必ずある。そして競技が終わると、ラグビーのノーサイドのように、ここからは敵味方無し、というのがスポーツの良さだ。

 

学校の授業だって、はじまりとおわりがある。

一年にだって、正月と大晦日がある。

お店でも、24時間営業が始まるまでは、開店時間と閉店時間があった。

会社だって会議だって、一応、就業と終業時間がある(かなりあいまいになってきたが)。

 

人にとって、はじまりとおわりの節目をしっかりつけるのって結構大事だと思うのだ。

よし、今からはじめるぞ! 

今日は頑張った!

何にせよ、はじめと終わりの節目をつけた方が、より丁寧にできるのではないだろうか。

 

残念なことに、最近、このはじまりとおわりがあいまいになってきている気がしている。

 

自宅でリモートワークができるようになったことは、いいことでもあるが、仕事と生活の境界線があいまいなことは、長い目で見てどうなのだろう。

一人で生活をする人が増えて、いただきます、や、ごちそうさま、をいう習慣がなくなると、いつのまにか、他の人と食事をするときも、いわなくなってくるのではなかろうか。

食べ物や自然やつくってくれた人に対する感謝をするでもなく、なんとなく食べ始め、最後の一口がいつ終わったのかもわからないほど、何かしながら食べていることが増えている気がするのは、僕だけだろうか。

おやすみなさい、もいわずに、何かをしながら寝落ちするような毎日でいい睡眠が取れているのだろうか。
(ついでにいうけど、24時間営業って、そんなにどこもかしこも必要だろうか)

 

食事は、何を食べるにせよ、「いただきます」の感謝ではじめ、しっかり味わい、「ごちそうさま」で終わる。

ケンカをしたらきちんと仲直りをする(ごめんね、僕も悪かった)。

何かをしてもらったらお礼をいう(ありがとう)。

洋服を捨てるときは、感謝をこめ、お別れする(さようなら、長い間おつかれさま、ありがとう)

会議をはじめるときは、議長が開会し、終わるときには閉会する(「始めます」でも、「よろしくお願いします」でもいいけど、今からはじめるのに、おつかれさまです、はやめてほしい)

寝るときも、今日あったいいこと(見つからなければ、「もっと悪いこと」が起きなかったこと)に感謝して、「おやすみなさい」。

 

はじまりとおわりがきちんとしている、節目のある人生の方が豊かになるはずだ。

 

僕が、最近考えるのは、人生のはじまりとおわり。

私たちは皆「おぎゃー」と泣きながら生まれてきたのだけど、おわりはどうなるのだろう。

できたら笑顔で「ありがとう。いい人生だった」といって、その時を迎えたいものだ。

 

 

 

 

ANDの才能

 

先日、嫌な話を聞いた。

うろ覚えで、細かいニュアンスは違うかもしれないけど、

ある学校で、先生が生徒に

「生活のために働くことと、世の中のために働くことのどちらを選ぶか」

というようなことをテーマで作文をさせたということ。

かわいそうに、多くの子供たちは、

「生きていくためには、お金が必要」という選択を強いられ、そういう作文を発表したという話だ。

 

この先生にとって、生きていくために働くことと世の中にために何かすることは、両立しないものになっているようだ。

もしかしたら、普通の生活をすることと幸せになることも両立しないのかもしれない。

 

思えば、子供の頃、お金持ちというのは、ひげをはやして、葉巻をくゆらせ、おなかもでっぷりしている人だと想像していた。

そして、だいたい、ずる賢く、ケチで、強欲で、いじわるで、無慈悲で、孤独だと思いこんでいた気がする。  

 

一方で、心優しく、まじめに働き、正直な人は、皆、貧しく、いつも金持ちから搾取されている印象があった。

ディケンズの小説「クリスマス・キャロル」や、映画「メリー・ポピンズ」に出てくるお金持ちは、どちらもそういう典型的な悪い金持ち

が改心して、いい人になりました、というお話だ。

水滸伝や八犬伝にも、金持ちでひどいことをする悪人が出てきて、これを正義の義士がやっつける話だ。

そんな話ばかり、子供の頃に見聞きしてきたら、そういうイメージが出来あがるのも不思議ではない。

 

もちろん、そういう人もいるだろう。

でも、世の中には、裕福でも心豊かないい人も、貧しくて心もねじけて、いじわるな悪い人もいるはずだ。

 

世の中には、他にも、二者択一で物事を考えさせることが多い。

正しいか、正しくないか。

優しいか、優しくないか。

上か、下か。

白か、黒か。

勝ちか、負けか。

敵か、味方か。

 

子供に、決めつけの二者択一を迫るのは、教える方が、そのような人生観を信じているか、あるいは、そちらの方が子供を管理しやすいからなのだろうか。

 

勉強かスポーツか。

理系か文系か。

進学か就職か。

成功か失敗か。

まじめか不良か。

 

 

一方で、嬉しいことに、こんな先生のもとでは、育たないだろう、新しいスーパーヒーローも生まれてきている。

例えば、大谷翔平も(ピッチャーとバッター)、福岡堅樹(ラグビーと医学の道)。

二人とも、ものすごい量のトレーニングや努力をしていることで知られているが、それでも、望めば両方の道が開けることを示してくれたことは、素晴らしいし、ありがたいことだ。

 

今や古典といえる経営の本で「ビジョナリーカンパニー」(ジェ―ムス・C・コリンズ/ジェリー・I・ポラス)日経BP出版センター という名著があるが、その本に「ANDの才能」という挿話がある。()内は、僕が加筆した。

 

「ビジョナリー・カンパニー(いい会社)は、「ORの抑圧」に屈することはない。」

「ORの抑圧」に屈していると、ものごとはAかBnoどちらかでなければならず、AtoBの両方というわけではいかないと考える。

たとえば、こう考える。

「変化か、安定かのどちらかだ」

「慎重か、大胆のどちらかだ」

(中略)

「創造的な自主性か、徹底した管理のどちらかだ」

 

(中略)

 

「『ANDの才能』とは、さまざまな側面の両極にあるものを同時に追求する能力である」

(中略)

F・スコット・フィッツジェラルドによれば、「一流の知性といえるかどうかは、二つの相反する考え方を同時に受け入れながら、それぞれの機能を発揮させる能力があるかどうかで判断される」。

 

そう、2つのことは、その気にさえなれば、両立できるのだ。

誰もが、心掛け次第で、自分の「ANDの才能」を花咲かせ、豊かな暮らしをしながら、心も豊かに、人にも優しく、友人も多く、幸せに暮らすことができるのだ。

 

簡単ではないだろうが、

おそらく、大谷翔平の偉業ほど難しくはないだろう。