増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める -33ページ目

有効打という認識と視点〜その2

 

長いので、昨日と本日の2回に分けて掲載しました。

興味がある方はデジタル空手武道通信・第61号の巻頭コラムで全文閲覧可能です。

 

 

 


【「作りと掛け」という概念】

 随分と脱線が長くなりました。これから、「攻撃法(術)のみならず防御法(術)の両面から修練を行わなければ技能は身に付かない」という私の考えについて説明します。

 まず「攻撃することしか知らない」、そのような認識と視点では、身体的に強く、あるいは技能に優れた相手には勝てません。身体的に自分より劣る相手、あるいは技能に劣る相手なら可能かもしれません。そのような戦いばかりを繰り返していてが、攻撃技を真に生かすための技能という発想・意識の萌芽はあり得ません。

 

 ここで想像して欲しいことは、攻撃技が有効になるためには、有効となる情況(状態)が条件として必要だということです。そのことが想像できるならば、いついかなる時も、自己の攻撃技を有効とするには、情況を瞬時に捉える感覚と技能と自己の技を活かす技能が必要なのです。もう一つ、自己の技を活かす技能の発揮には、精度の高い攻撃技と攻撃を有効とする「作り」のための防御技が必要なことです。しかしながら、私のいう「作り」の認識と視点を有する者は少ないと思います。

 私は、「作りと掛け」に視点が武道修練には重要だと考えています。この「作りと掛け」という概念は、柔道を創始した嘉納治五郎先生の著書から学びました。

 

 ただし、不遜ながら、柔道の理合を空手武道に適したものとして定義に変更を加えています。柔道関係者にはお叱りを受けるかもしれませんが嘉納師範の「柔よく剛を制す」というスローガンと「作りと掛け」という概念用語は、幼い私の心に強いインスピレーションを与え続けています。

  私は幼い頃の柔道経験から、その感覚と視点を学びました。私の柔道修行は未熟で終わりましたが、実は空手武道を修練する間も、心の中にいつも柔道が生きています。言い換えれば、柔道の「作りと掛け」という概念が残っているのです。

 

 柔道の「作りと掛け」という概念については、柔道十段の故三船久蔵先生が著書の中で以下のように記しています。

「相手の中心点を奪い変化に乏しい不安定の姿勢に至らしめるの作りと言い、その作った姿勢に技を施す事を掛けと言うのである。そして自分を作るとは、崩し作った相手に技を施しために都合の良いように構えることを言うのである」

 現在は、「崩し→作り→掛け」というように教えているようです。私が初めて「作りと掛け」という教えに接した時、インスピレーションを感じたのを覚えています。

 繰り返しますが、私のいう「作りと掛け」という概念は若干、拓心武術流に応用しているので柔道関係者は「間違っている」と非難するかもしれません。然しながら、打撃系武術にその概念を活用できると考え、かつ活用するために考えた上のことです。

 私が拓心武術の修練のために仮に定義したものは、「作りと掛け」とは、『拓心武術における「作り」とは、相手を防御困難な情況に陥らせることをいう。さらに、その機・情況を瞬時に捉え、自己の心身を最善に活用した技を繰り出すことを「掛け」という』となります。

 

【既存の競技に足りないところ】

 私は柔道でいうような「作り」の修練が重要だと思っています。それ以来、私の意識下には「崩しー作りー掛け」といった理法がいつも見えています。技能の修練とは「崩しー作りー掛け」の原理(理法)を習得する修練に他ならなかったのです。そう私は確信しています。しかし、確信すればするほど、自己の技能と未熟と既存の空手修練法の貧困を感じていたのも事実です。

 一方、柔道には、そのような「作りと掛け」の概念(思想)を学ぶ構造があります。しかしながら、競技が勝負偏重になったことで、柔道も変質した面もあるようです。例えば、相手の技を恐れ腰を引き、また組手争いを繰り広げて、頑なに護りを固めます。それは勝負の中では必要なことかもしれません。しかし、柔道修練、武道修練の真髄とはかけ離れていると思います。私は相手の技と自分の技を自由に交流させ、その原理を学び、かつ、その原理を活用する技能を体得する。

 言い換えれば、自他の崩れを知り、かつ、その情況を捉えるために「作り」を施す。その状況を「機」として捉えて、決定的な技を表現する。そこには、絶えず新たな技と高い技能が生み出されます。しかも、その境地には敵はいません。

 なぜなら、その境地における価値は、対立的な争いによる勝利とは一線を画するからです。そして、その境地における価値とは、新たな技と未開の技能を切り拓くという価値です。また自己を解放し、かつ、新たな自己を創造するという、新しい武道の価値と言っても良いでしょう。また、その価値観をもって行う闘いは、自と他が競争する行為を乗り越えた、共創する行為となり、空手武道のみならず、格闘競技に新たな意味と価値をもたらすと思います。

 要するに、どんな技が有効、かつ優れているのかという認識がより高まれば、すなわち有効打の認識と視点を持てば、さらに空手武道の価値は高まる、と私は考えています。これは柔道の話ではありません。空手愛好者に伝えたいことです。空手は柔道のような構造を有していません。なぜなら、空手には柔道のような柔術の理法がないからだと思います。また、空手には嘉納治五郎師範のような発明者がいないからです。しかし、空手のルーツを辿っていけば、共通性はあると思います。ただ、組手法が未熟なのです。もちろん、柔道の乱取り法も完全無欠だというわけではありません。

 

【実際の戦いは流れの中にいるようなもの】
 

 もう一つ、実際の戦いにおいては、自己は流れの中にあると考えてください。言い換えれば、情況が刻々と変化している中にある。さらに言えば、自己は過去ー現在ー未来へと流れている、そのように理解してください。戦いを制するには、そのような流れの中で、相手を防御困難な情況に陥らせ、さらに、その機・情況を瞬時に捉え、かつ、自己の心身を最善に活用した技を繰り出すことが必要です。つまり、流れの中で相手の崩れを知り、かつ、自己を活かすこと。それが拓心武術で目指す「作りと掛け」の意識です。同時に、そのような「作りと掛け」の視点が、流れを捉える視点なのです。

 さらに、口はばったい事を述べるようで恥ずかしいのですが、武道とは、相手の技をまともに被弾すれば、絶命にもつながるという武術の精神を核にした修練だと思います。もしそうならば、組手においては、相手の技を見下さず、その技を明確に読み取り、自分の技を最も善く活かす道(理法)を目指すのが武道の思想に合致します。

 是非とも、増田道場の門下生には、拓心武術で言うところの「技能」が重要だという〈認識〉をもっていただきたいと思います。一言で言えば、「攻撃と防御を表裏一体として修練する」ことです。しかし、この「表裏一体」という意味が理解できないかもしれません。 私のいう「表裏一体」とは、より効果的な攻撃技はより効果的な防御技と同時に誕生する、という原理のことです。言い換えれば、より善い攻撃に内在する「原理」は、そのまま自分を護るための「原理」を知るための理法(道)となると言うことです。つまり、攻撃することと護ること、この両方の原理は互いに相生じたものなのです。その根本を理解できなければ、自己をより善く活かし、自己をより善く進化させることはできないでしょう。

 

【不敗の境地】


 先述した「攻撃と防御を表裏一体」として修練を行うには、組手修練に対し「有効打という認識・視点」がなければ成し得ないと思います。現在のような、相手より手数、ダメージを与えれば良いという視点、そして、技を当てない、また顔面を含めた急所を打たないという組手修練では認識が困難です。しかしながら、絶対に不可能なわけではありません。 しかし、それを可能とするには、厚い壁があるのも事実です。そして、その壁の本質を多くの人が理解していない。しかし、その壁を自覚し、乗り越えなければ、極めて不明瞭な心理的反応に弄ばれる人間を多く作り出し続けるでしょう。
 もう一つ述べれば、「攻撃は最大の防御なり」は、日本人(他の民族にもみられる)に好まれる価値観だと思います。私は、その価値観を全否定はしませんが、ケースバイケースに改善しなければ、良くないと考えています。また、その価値観では不敗の境地には立てないでしょう。なぜなら、武術では「攻撃は最大の防御なり」の思想が生きるかもしれません。またスポーツでもそのように教えるようです。しかしながら、私なら「防御の心は攻撃の心と一致する」と教えます。さらに言えば、武道の境地においては不敗を目指すことが重要なのです。ただし、決して不敗の人間を育成するのではなく、敗けを恐れず、敗けの経験からそれを乗り越える知恵を生み出す人間の育成が武道の目的です。少なくとも私が考える武道修練とはそのようなものです。補足すれば、矛盾すると思うかもしれませんが、武術の目標は何が何でも勝つことかもしれません。しかし、私が考える武道の目指すものは不敗の境地なのです。要するに、武道とは、相手との生死を賭けた戦いを乗り越え、そこに新たな境地を切り拓くものなのです。

 

 

終わり

その1もあり