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2012年01月12日 masuda-blogの投稿

2012年 年末年始に考える

テーマ:報告
「2012年 年末年始に考える」

昨年の12月8日以来、ブログの更新である。
私は、昨年11月のフリースタイルカラテの大会後、休む間もなく、フリースタイルカラテのセミナーのためイタリアを訪問した。

帰国後は、フリースタイルカラテ・プロジェクトの修正をしていた。修正内容は、ルールや審判方法の改善点の確認や来年のプロジェクトの実施に関する準備である。また、その合間に自分の道場のシステム改善の準備をしていた。

そのような中、私の身体の変化が顕著になってきてしまった。その変化とは、私の両足にかゆみが出てきたことだった。

その「かゆみ」の原因は、足の静脈の弁の機能不全による、血液の滞留、すなわち血行不良によるものだった。かかりつけの医院に紹介してもらった大学病院の血管外科での診断結果である。

私は、大学病院の先生との相談し、下肢静脈の手術を決めた。

その内容を簡単に記述すれば、動脈によって送られた血液を心臓に戻すという静脈本来の機能が低下、或は停止し、静脈瘤ができている血管を手術によって、抜き取るというものだ。

手術を決断したのは、この先、状態が悪くなることはあっても、良くなることはないということ。そして、簡単な手術なので心配はいらないということだったからだ。

しかし、一瞬、頭をフル回転させなければならなかった。それは、手術可能な日時は、年始の4日が最短で、その日以外の場合、しばらく調整をしなければならないということだったからだ。


年末年始は、フリースタイルプロジェクトの事後処理や自分の道場のシステム改善など、仕事が山積していた。

しかし、手術を先送りすれば、更に仕事に支障をきたす恐れがあると私は判断したのだ。

急遽、予定を組み入れたことで、年末は各種検査などや入院のための準備が必要になり、大変だった。私は、年始の3日から入院し、翌日の4日に手術を受けた。

入院は5日間と短期であった。今回で4回目の入院体験である。百人組手後の急性腎不全の時の1ヶ月の長期入院から比べれば、短期入院でストレスはほとんど無いに等しい。

しかし、短期間ではあったが、4回目の入院からは、様々なことが学べた。

正月の病棟には、私と72歳のSさんという男性がいるだけであった。
その男性は、動脈の手術を18時間かけて行なったという。

原因は糖尿病によるものだという。70針の足の縫合痕を見せてくれた。糖尿病は50台前半の頃から、さらに58歳の時に心筋梗塞もあったという。

しかし、見た目は元気がありそうで,とても大病をされている方には見えなかった。また、とても気さくな方で、色々と話しかけてきてくれた。大病にも関わらず、暗い表情は見せない。

最近、私は年寄りの話を聞くのが好きになっている。昔の話や、様々な経験談が興味深いからだ。

その方の話から、ストレスとタバコが血管を悪くするということ。暴飲暴食が良くないことなどを確信した。

もう少し詳しく書けば、Sさんは、若い頃、陸上の選手で、50歳までは走ることは得意で筋肉質だったらしい。また、下戸で酒は飲まないらしい。そして、若いとき肥満だったという訳ではないそうだ。ただ、酒席のみならず普段からコカコーラを愛飲し、タバコが好きだったらしい。

つまり、ストレス、喫煙、糖分の過剰摂取が良くないということだと語っていた。私は、そこに遺伝という要素が加わることもあると思う。

おそらく、ある程度の年齢になれば、誰もが健康に関して考えることだろう。私は考えない方だったかもしれない。徹夜などの無理を最近までしていた。

私は、Sさんの話を聞きながら、人間はどんなに強靭だと考えていても、加齢と共に衰えていく。そして、病気になれば、その克服は並大抵ではないと思った。私は、明るく大病の話をされるSさんの気力に感服しつつ、同じ境遇になったら耐えられないかもしれないと病院のベット上で考えていた。

私の病気とその手術は、Sさんに比べれば、軽いものだ。しかし、私も16カ所を切開し、血管を抜いたり、縫合したりしたようだ。

私は1月4日に手術をした。術後、麻酔により、下半身が動かなかった。脚が動かないというのは大変だった。私の体重からすると、脚の重さはかなりある。下半身が動かず、寝返りが打てないということは、とてもつらかった。術後の夜は、寝返りを打つために看護師さんに大変お世話になった。

腎不全の時もそうだったが、大学病院の看護師さんは大変な仕事である。特に夜勤は大変である。入院するたびに看護師さんになる人は立派だなと思う。

看護師さんのみならず、時に18時間以上もの手術をこなす医者というのも凄い仕事だと思った。私の執刀医は、Sさんの18時間にも及ぶ手術の執刀医であった。

その物腰や雰囲気からは、一人前の医師になるための長期にわたる勉学を経てきこと、そして多くの経験等から来ると思われる、見せかけではない真の自信を感じた。

術後、75歳のKさんが入室してきた。それで私の病室は3名になった。Kさんは、上半身の動脈瘤の手術だそうだ。Kさんも心筋梗塞があり、ペースメーカーが入っている。

Kさんは、若い頃証券マンで、かなり無理をされたらしい。Kさんも若い頃は、柔道とボートの選手だったそうだ。Kさんは現役時代、ヘビースモーカーで、一日に3箱から3箱半程、吸っていたらしい。

Kさんも重病にも関わらず、明るく、若々しい感じがした。おそらく、子育ても立派に終え、奥様も元気だからであろう。

子育てを立派に終えというのには理由がある。Kさんの息子は、慶応大学を卒業し、早稲田の理工学部で博士号を取得した秀才のようだ。現在は、某大手製薬会社の研究所で新薬を開発しているそうだ。また、最近インフルエンザの新薬を開発されたらしい。

私は、後学のためにと、息子さんについて、色々お聞きした。自慢の息子さんのようだ。私は、家族の自慢(笑い)を聞くことが好きだ。

中には、自慢話は嫌いだという方もいるかもしれないが、私は微笑ましく思う。何より、心が温かくなるのだ。
無論、過度の脚色がある場合など、例外もあるかもしれない。しかし、Kさんのご子息は、本当に優秀なのだと思った。

私は、Sさん、Kさんのお話を聞きながら、少々焦りを感じてきた。せっかちは、私の悪弊だと自覚しているが、自分の頑張りが足りないというように思えた。同時に、自分の分際をまだ知り得ていないという反省が頭をよぎる。

そして、「人間は必ず死ぬ」「大事に生きても7~80年」「無理して生きても7~80年」「後、何年生きるか解らないが、必死に戦うしかない」などと考えていた。

少し弱気になっていたかもしれないが、身体を大事にしながらも挑戦し続けるべきだと、私は考え直した。確かに身体も衰え、知力の不足を感じてはいる。しかし、もう少し頑張るしかないと思う。

そのようにベットの上で考えていたら、段々気が重くなってきた。また、術後の感じも、すぐに練習できるというものではないようだ。

同じ姿勢、イスに座り続けるのも良くないようだ。ゆえにデスクワークも気をつけなければならない。

再発すれば、何のために手術したのか解らなくなる。それでも、少しずつ身体を動かしていかなければ仕事ができない。「えい」と気合いを入れ、「可能な限りやるぞ」と自らを鼓舞する。

新年早々、真面目過ぎる話だが、私は、再度自分に焼きを入れ、叩く作業をするつもりだ。ただ、折れてしまうかもしれない自分も覚悟しなければならないと考えている。

これまで言い表せない程、我が脚を酷使してきた。片一方の半月板は、既になく、もう一方の半月板は35年以上も前から損傷したままで具合が悪い。

我が脚は、よくぞ酷使に堪えたものだと思う。あらためてお礼を言いたい。

同時に、もう一度我が身体に御願いしている。「私は是が非でも人間と社会により貢献することのできる"空手道"を創りたい」「もうしばらく付き合ってもらえないか」「あなたが最大の協力者であったことをあらためて自覚した」と。

今度は、大切に扱わなければと、そんなことを考えた年末年始であった。
2011年12月08日 masuda-blogの投稿

フリースタイルカラテ・オープン2011

テーマ:FKプロジェクト
「フリースタイルカラテ・オープン2011」はTSルールの実験である。
Freestyle Karate Open 2011 was an experimental tournament.

また、TSシステムの問題点はすぐに修正した。
(詳細はhttps://www.facebook.com/takushindo?ref=tn_tnmnを参照のこと)
Right after the tournament, TS rule’s disadvantage points were reviewed and revised.
(see following ; https://www.facebook.com/takushindo?ref=tn_tnmn)

証明したかった仮説は、「フルコンタクトカラテ競技のポイント化」と「打撃技と組み技の融合」が可能だということだ。
We wanted to prove the viability of using a “point system” and combined striking and grappling for a full contact karate fighting system.

TSシステムとは、多様なアプリケーションソフト(格闘技術)を交換し合うためのOS(ルール)のようなものだ。
TS system is just like a computer OS, exchanging many types of martial arts like applications software.

今後は、世界中から選手(格闘家)を募集し、技術交流を行ないたい。
We will call on many competitors from all over the world for a technical exchange in the future.

2011年12月06日 masuda-blogの投稿

攻撃と防御は一体〜その1

テーマ:武道論
今回は、イタリアセミナーでリクエストされた「肘受け」などの防御技術について考えてみたい。

イタリアのストッパ先生は、肘受けの有効性を理解していた。
今後、私の防御に関する理論を説明するために考えをまとめたい。今回は、メモをベースにした乱文だが、お許し頂きたい。

フリースタイルカラテプロジェクトは、新しい武道スポーツの創出と同時に武道競技理論の確立を目論んでいる。帰国後も雑務が山積しているが、万難を排して武道スポーツとその理論を完成させたい。

【攻撃と防御は一体~その1】

私が観るところ、フルコンタクトカラテ競技は、試合に勝つことばかりを優先し、防御技術を疎かにしている。「防御技術よりうたれ強さ」と言わんばかりに・・・。

ここで「防御とは何か」を考えてみたい。

私は、「防御」とは打撃技によるダメージを防ぐだけのものではないと考えている。「防御技術」があればこそ、相手への攻撃の機会(チャンス)を窺え、かつ掴むことを可能とするのだ。

例えば、バレーボールの「時間差攻撃」を考えてみる。
時間差攻撃とは、囮の選手がスパイク(アタック・攻撃)すると見せかけて、別の選手が「スパイク(攻撃)」する戦術(連携攻撃)のことだ。

このような攻撃を可能とするのは、「セッター」という、「アタッカー」に正確な「トス」を上げる優秀な「セッター」が必要なのだ。

ということは、その「セッター」にボールを回すための優秀な「レシーブ」と「レシーバー」が必要だということである。

つまり、有効な攻撃を生み出すためには、バレーボールのように防御技術が必要なのだ。

言い換えれば、確固たる防御技術があるからこそ、有効な攻撃を生み出せるということだ。

古典武道の教えには、そのような防御技術の極意に「見切り」を挙げている。

本来、日本武道には、スポーツ以上に人間の能力を最大限に鍛え上げる教育的効果があった。

しかし、現在の頭部打撃無しのフルコンタクトカラテに、そのような効果があるだろうか。

フリースタイルカラテ・拓真道で言うところの「防御」とは、バレーボールでいう相手攻撃をしつかり受け止める「レシーブ」と「トス」をいう。

具体的に言えば、「レシーブ」に当たる技が「受け技」、そして「トス」に当たる技が「転じ技」である。そして、受け技と転じ技の連携を「転じ」という。

また、そのような連携技、すなわち「転じ」を可能とするのがポジショニング(位置取り)を含む「体さばき」なのだ。

これまでのフルコンタクトカラテにおいては、「相手に打たせながら自分も打つ」というような戦い方が多かった。それは、競技ルールにより仕方のない面もある。しかし、バレーボール競技では、攻撃が先に相手に当たった時点で点が入っている。

勿論、ルールの異なるものを一緒にはできないことは解っている。
また、コートを分けず、ボール或はゴールに当たるものがひとつではない、複雑な徒手格闘(いずれ再考します)では、多少の打撃をもらいながら攻撃するというのはやむを得ないかもしれない。

しかし、カラテが武道というのであれば、真剣を扱う剣術から学び、あり方を検討しても良いのではないかと私は考えている。

そして、防御とは何かを研究するべきだと私は考えている。なぜなら、「防御を考えること」がすなわち「攻撃を考えること」であると考えるからである。

その上で、相手攻撃を防御しないということもあるかもしれないが、その次元と相手攻撃をまともにもらっても気にしないような組手や試合を行なうことと同じだとは考えない。

それは、本質的に見れば、当たっても効かないと考えているか、多少ダメージが残っても勝てれば良いというか考えがあるからであろう。

私は、そのような考え方を武道的とは考えない。では、どのような考え方が武道的かについては、続編で述べたい。
2011年12月02日 masuda-blogの投稿

フリースタイルカラテ・オープン2011を終えて

テーマ:FKプロジェクト
【フリースタイルカラテ・オープン2011を終えて】

フリースタイルカラテ・オープン2011を終了した。
大会前、場所の変更、フリースタイルカラテの実施等、初めての試みが含まれた。また、イタリアセミナーの準備等が重なった。
正直言うと、体調がすこぶる悪い。(ここ何ヶ月か、休む間もない)
10数年前、初めて大会を主催した時は血尿がでた。

どのような事でも、高い理想を追い求めれば、大変な作業になる。大会も然りである。

最近は、人に自分の理想を強制しないようにしている。身内には、もう少し生活の足しになるような努力をして欲しいと言われる。(人から見ると誇大妄想的な理想を追い求めているからであろう)

さて、フリースタイルカラテ・オープン2011は、TSルールのプレゼンのようなものである。

TS ルールとは、競技判定にポイント制を導入した。ポイント制と云ってもフルコンタクトが前提であり、打撃技によるノックダウンもある。

TSルールについてはこれまでブログやサイトで多く述べてきたので書かない。

今回、TSルールによる「クラシックスタイル」と「フリースタイル」のクラスを実施した。結果はルールとして機能したと考えている。

しかし、それが観客の理解を得られたかどうかは、意見を聞かなければならないところだ。

ここで数名の人達の意見を報告する。まず、カラテをやっていない人に聞いた場合、フリースタイルが面白かったという意見がほとんどだった。
また、「投げが決まっているのにポイントが決まらないのは不自然だ」という意見があった。

次にカラテをやっている人に聞いた場合、カラテへの取り組み方の違いでまちまちだった。

例えば、カラテを指導するような立場の人の意見として、「掴みは無い方が良い」というのがあった。
また、「旗判定なら本戦で勝っているのに、ポイント制だと延長戦になる」というものもあった。

前者の意見に関しては、確かに倒し技を決めても、残心がなければ無効というのは、格闘競技として納得がいかない向きもあると思う。ゆえに早急に審判委員会の意見をまとめ上げた。

その結果、相手を倒した場合、残心があれば「3点(有効)」、残心が無ければ「1点(効果)」とすることとした。最終決定には、しばらくの間は意見を集め、会議で決めることになるだろう。

後者の、掴みに関しては、関係者の中でも意見が割れている。しばらく、検討が続きそうだ。

また、ポイント制に関しての意見については、私の意図を理解していないので後で説明したい。

ここで、皆さんにも意見を伺いたいところだ。
フルコンタクトカラテ競技に掴みが認められないのは、乱暴な言い方を許してもらえば、「見栄えが良くなくなるからである」
それは私にも解っている。

しかし、なるべく制約を無くし、多様な状況にカラテ家を対応させることと多様な格闘技術を生み出すこと。また、多様な格闘技者を参加可能とすることなどがフリースタイルカラテの目標でもあった。ゆえに、時間制限などを設けて許可したのだ。

しかし、選手のみならず審判も慣れていないので、掴みを制限することが上手くできなかった。それが、見る人に違和感を与えたのかもしれないと思っている。

しかし、それも映像を見直したり、あらゆる角度から検討したいと思う。
検討のポイントは、「見栄え」と「格闘技性」のどちらを取るかである。
共通の目標は、より多くの人にフリースタイルカラテを楽しんでもらいたいということである。

最後に、「旗判定なら本戦で勝っているのに、ポイント制だと延長戦になる」
という見方について説明したい。

私が考案したTSルールとは、ボールゲームを参考にしている。
つまり、有効な攻撃技術(戦闘技術)の数値による判定である。

そのことにより、選手のみならず観客も戦闘状況の把握を試合の最中にできるようになる。そして、それが選手の行為(試合)を主体的かつ能動的なものにする。言い換えれば、本当の意味で自分の判断と考えで選手が試合を行なうことができるようになるということだ。

これまで方式(試合ルール)では、選手のみならず観客も、最後の最後まで審判の判断基準を念頭におかなければならなかったし、それが選手や観客の印象と食い違うこともあった。最近は、そのようなことが少なくなったみたいだが、本質的には変わってはいない。

実際の戦いは、相手の戦闘力を如何に喪失させるかである。百歩譲れば、誰の眼にも明らかに優位に立つことが勝利といえるだろう。

TSルールにおいても戦闘技術の判定に関して完璧ではないかもしれない。しかし、戦闘技術の優劣を判断する「物差し(基準)」をあらかじめ選手のみならず観客に与えている。その理由は、審判が印象ではなく「物差し」を使い、なるべく正確に試合を計る(判定する)ようにするためである。

そこに、間違いがあれば「物差し」「を元に検証すれば良い。一方、これまでの審判の印象で決まるような判定方法では、判定に納得いかなかった場合に問題が解消できない。

つまり、これまでは「物差し(判断基準)」が不十分、否、なかったので、審判による判定の相違は、主観の相違としてしか検討できなかった。(また、うやむやにされてきた)

そのようなことが、これまでのフルコンタクトカラテ競技方式の本質的問題点だった。そして、そのことが選手の格闘技術を向上させない原因だとも思う。
ここまでしつこく云っても解らなければ更にいたい。


野球でもサッカーでも良いが、サッカーを思い浮かべて欲しい。
サッカーの試合で、一方のチームが10回シュートをした。もう一方のチームは2回だとしよう。どちらも得点には繋がらず引き分けとなった。

先述の意見は、これを旗判定だったら、10回シュートした方の勝ちとなると云っているのだ。

私は、こう思う。これが2回しかシュートをしていないチームが1点入れて勝ったとする。そうなれば、文句をつけられないのだが、これまでのフルコンタクトカラテの試合では、点が入らず引き分けの試合では、10点シュートした方を勝ちとしてきた。

その方法は、打撃力のない少年部などの試合を行なう際には有効かもしれない。
しかし問題は、空手競技のエキスパートを養成する成人のクラスの試合でもそうであることだ。

ここで、なぜ従来のフルコン・ルールは試合の印象によって優劣を判定せざるを得なかったのか考えてみたい。

答えは簡単である。従来のフルコンタクトルールは、寸止め方式に比べれば、優劣が判断し易いと考えられたが、選手が試合になれ、タフになると、打撃技が決定打とはならなかった。丁寧に言えば、本来、格闘技が目指すべき相手戦闘力を奪う、ノックアウトが生まれにくかったのだ。

その理由には、「選手の打撃に破壊力がないこと」や「突きによる頭部打撃を禁止したこと」等が考えられる。一番は、突きによる頭部打撃を禁じたルールにあるであろう。

しかし、従来のフルコン・ルールが頭部打撃を禁じたことの意義は理解できるが、判定方法の工夫を怠ったことは否めないと私は考える。

話を戻すと、サッカーでは、どんなにシュートを多く打とうが、また、野球でもどんなにヒットを打とうが、点が入らなければ意味がない。

一方、シュート数が少なく、また、ヒット数が少なくても確実に得点できれば、試合は勝利となる。

私は、そのような価値観の方がより人生の真実に近いと思う。
例えば、私の好きな野球で考えてみる。

「野球は人生そのもの」と野球の達人が言う。野球では、明らかに実力が上でも負ける時がある。そのような現象を掘り下げると、偶然の1球、一発が、必然の一球、一発になる。そのようなことが先述の「野球は人生そのもの」そして、「野球は面白い」という言葉の例であろう。

それは、そのように競技をより深く反省し、その中に人生に繋がる普遍性を掴むことが、野球の場合、可能となるということでもある。

それが、競技を神聖なものとする。

つまり、どんなにヒットやシュートを打とうが、点が入らなければ駄目だというように競技の判断基準を設けなければ、厳しい反省が生まれ無くなる可能性があるのだ。

もし、選手に点を入れる力がないというのなら、それは競技をするレベルではないのかもしれない。また、少年部などダメージによって相手の戦闘力を奪う力のない人達には、これまでのルールでも良いかもしれない。
しかし、それは格闘技の実力を測る方法ではない。

そして、一番良いのは、空手競技を点が明確に入る競技にすることなのだ。
それがフリースタイルカラテ・プロジェクトである。

説明に疲れてきたので、これ以上は論文にしたい。
要するに、「従来のフルコンタクトルール」の判定方法では、どうしても理不尽な判定になる可能性が高いと思う。理不尽というのは合理的ではないということだ。
人生は合理的ではない。非合理だという方にはこう言いたい。確かに人間は非合理な面がある。また、人間社会や人生も非合理に見えるかもしれない。

しかし、自然が生み出す非合理性と人間が生み出す非合理性を分けなければならない。私は、人間が生み出す非合理性は、なるべく改善するように努力すべきだと思う。
そして、自然が生み出す非合理性も、よくよく考究すれば、合理的なものである可能性が高いと私は考えている。つまり、人生は合理的なのだ。私はそのように看取している。

最後に乱暴な言い方をすれば、これまでのフルコン・ルールでは、競技が「美人コンテスト」と同じになる。
美人コンテストは、どんなに基準を設けても、結局は人間の好みの問題となるのだ。私は、美人コンテスト程、時代錯誤なものはないと思っている。そんなものはしなくて良い。好みは一人ひとり違って良いのだ。

また、美人コンテスト程、人間性の疎外を感じるものはないと私は考えている。おそらく反論はあるだろう。

なぜ、そこまで言うかというと、それを行なう人間のこころに、物事をシンボル化する習性が見て取れる。また、シンボルを持ちたいという習性を見て取るからだ。

それを完全になくすことはできないかもしれない。しかし、それが物事の本質を掴めなくすると考えている。言い換えれば、思考能力を奪っていると考えている。

僕は、サッカーや野球等のスポーツには、人間の思考力を開発する働きがあると思う。また、本来は無意味とも思える人生により善い意味を与える。言い換えれば、人生の意味の開拓になると思っている。

私は、残り少ない人生を生ききるにあたり、人生の価値や意味を見直さなければならないと考えている。

それは、競技と言う価値や勝負という価値も含めてである。

そのようなことには、矛盾点がつきものだ。しかし、私は競技と言うものの目的は優劣を決めることではなく、自他と真正面から向き合い、その関係性の中から、真の自分を掴み取ること。また真の人生を掴み取ることだと考えている。

フリースタイルカラテ・プロジェクトでも再三云ったが、そこに敗者は存在しない。

私は、人生とは、意味の生成のゲーム(遊び)のようなものだと考えている。そして、自他ともにそれを楽しんでいくことが、これからの社会をより善くする鍵だと考えている。


かなり、長文になった。現在、フリースタイルカラテセミナーのため、イタリアを訪れている。ジェットラグ(時差ぼけ)のため、朝方早く目が覚めたので一気に書き上げた。これからは、普通のブログに挑戦しようと思っている。(イタリア紀行みたいな感じで)

イタリアの空手家のフリースタイル・カラテプロジェクトに関する、想像以上の理解に、体調が良くなって来ている。食べ物もおいしい。(少々、塩味がきついが)
2011年11月26日 masuda-blogの投稿

感謝〜フリースタイルカラテ・オープン2011

テーマ:FKプロジェクト
【感謝~フリースタイルカラテ・オープン2011】

明日、「フリ-スタイルカラテ・オープン2011」が開催される。
選手の皆さん、参加申込みありがとう。

増田道場プロスタッフの桜井、秋吉、協力ありがとう。

いつも僕の誇大妄想的な夢に付き合ってくれて感謝する。

いつも僕は、「絶対に空を飛べるんだ」「なぜ、空を飛べることを信じない」
というような感じで人に接する。(うっとうしい男だ。みんな逃げていく)

そのような生き方は、一般的には誇大妄想的と観られても仕方あるまい。
また、詐欺師といわれないだけでもマシかもしれない。
(詐欺師の方がマシだと言われる位、うっとしい)

しかし問題は、詐欺師のように人を騙せない処かもしれない。例えが悪いが、その意味は人の心をフックできないということだ。

不器用過ぎると思われるだろうが、私は何度も繰り返す。

フリースタイルカラテプロジェクトの意義とは何か。それは、「自分の眼で物事を観ること」そして、「自分の言葉と頭で物事を考えること」だ。それが「身体で考える」ということである。私がいう「身体」とは、一人ひとりの宇宙観(世界観)と言い換えても良い。

僕は、人から与えられた情報に影響されて物事を考えるのではなく、本当に自分自身が能動的に世界と関わって生きたいと願ってきた。

そんな生き方を目指してきた。しかし、現実は矛盾することが多々あったかもしれない。

そのような時は、葛藤で息をすることもできないくらいだった。

フリースタイルカラテ拓真道とは、枠組みとしてのルールがあるだけで、あとは、一人ひとりが自由に技を駆使し、かつ創造して行けるように企図されている。

言語におけるルールとは、言語(技)を駆使し、意味の交換と意味の創造ができるようになっている。

TSルール(フリースタイルルール)による試合も、言語による議論のように、その戦略(あたらしい価値)と最後の最後まで、技を駆使し、新しい戦術(意味)を創造していけるように考えた。

そこに審判の価値観は介入しない。TSルールにおける審判の眼目は、技術を正確に評価することと卑怯な行いを選手にさせないようにすることだ。

そのような競技環境の創出がフリースタイルカラテプロジェクトの眼目だ。
そのような競技環境の創出により格闘競技が変わる。

「人から与えられた情報に影響されて物事を考えるのではなく、自分自身が能動的に世界と関わって生きていくということ」の演習(訓練)へと。

「すべての人に創造力がある」

僕は、そう考えている。その創造力を奪っているのは何か。

その問いかけを皆さんにしたい。

そして、すべて過去の結果(先例)と同じになると考えているのなら、それは間違いだと言いたい。
振り返って欲しい。人間は、その手段、条件さえ整えられれば、空を飛ぶことだって可能だったじゃないか。

私は普段、「普遍性を追求する」というような難しい言葉を唱えている。断っておくが、それは単純な「一般化」や「単純化」とは異なる。

世界はもっと多様で、無限の可能性に開かれている。その多様性の中に通底する何か、それが私の言うところの普遍性だ。そして、その普遍性を掴むことが、自分自身を掴むことなのだ。


いつものように熱くなってしまった。でも、フリースタイルカラテを明日、産み落としたい。

正直言って未熟児ではある。母体が弱いから・・・。しかし大事に育てれば、大きく育てることだってできるはずだ。

充分なミルクを買うこともできない親だが、生み落とした赤子は、大切にしたい。


まだ、何が起こるか解らないという不安感もあるが、みんなの協力で産み落とせることを信じている。













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