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2016年09月15日

青嵐の志〜民進党代表戦を見て

テーマ:コラム

以下のブログは、一度は会員限定にした。しかし、政治家に対しては、一定の批評や批判は申し上げても良いと思ったので限定を解除したい。ついでに、辛辣なことを付け加えておいた。

 

蓮舫氏を代表に据える民進党の復権は、困難だと思う。

なぜなら、蓮舫氏を支持する人たちの判断基準が選挙優先かつ浅はかな人気取りだと思うからだ。なぜ、政治家と言われる人たちは、こんなにも選挙優先の考えをするのだろうか?

 

一方の前原氏や玉木氏は、政治家としてまともだと思う。確かに前原氏には欠点があるかもしれない。しかし、磨かれれば、もっと輝く人だと思う(随分上からの物言いだが…)。また玉木氏は、私が感じたように、かなり良い筋の政治家のようだ。

 

乱暴な言い方をすると、前原氏や玉木氏は自民党に入党した方が良いと思う。もちろん、それが困難なことは言うまでもない。

 

ならば、我が国の政治のバランスをとるための野党は、新しい党が担うに違いない。新しい党は、まだ出現していないが、そのうち出てくる可能性が高い。なぜなら、盤石に見える与党、自民党も足元から腐ってきているように見受けられるからだ。早くしないと…。世界の流れが変わりそうな気配がある。実際は、何が起こるかなどわかる訳はないのだが、だからこそ怖い。あくまで私の考えだが、リーダーは最悪の状況を想定しなければならないと思う。ゆえに我が国の首相も最悪の状況を想定し、それを回避して欲しい。

 

年老いてから国の混乱を目の当たりにするのはごめんだ。これからは、日本も40代から50代の政治家がもっと活躍するようにならなければダメだ。また、そのようなことが可能な国にシステム自体を変えていかなければ。かくいう私は、安部総理支持者である。是非とも安部総理に、若い政治家の育成とその(仕組み)システム作りをお願いしたい。もちろん、経験豊富な年配者の扱いも大切にするのは当然のことだ。しかし、現在のような縦の序列が強固なシステムは、機能的ではないと思う。これ以上は語らないが、必ず良い方法があると、私は信じている。

 

 

 

 

【青嵐の志〜民進党代表戦を見て】

 

民進党の代表戦をTVで見ている。

こんな事をしている場合ではないが、思わず見ている。

 

投票に先立ち、先ず蓮舫氏が演説をした。私は蓮舫氏が嫌いではない。物怖じしないスタイルが気持ち良いからだろうか?私自身にもよく分からない・・・。彼女のテーマは、平和と安心であろう。しかし、その学芸会的な説法スタイルがどうも引っかかる。

 

一方の前原氏は、自身が代表を努めていた時の失策の反省を前面に出している。そして、その失敗があるからこそ、それを活かし、民進党の再生に尽力したいと、訴えている。その考えには、一定の理解と賛意をもてる。しかし、選挙前の演説で前原氏は、「オール(ALL)フォー(FOR)オール(ALL)」という造語を訴えていた。正直言って、簡単そうで、結構難しい言葉だ。さらに言えば、個を埋没させる、悪しき全体主義へと繋がって行かないだろうかとの思いが、湧いた。勿論、前原氏の言葉は、全体主義を意識しての言葉ではないと思う。ゆえに私は、ここでその言葉を全否定はしない。ただ、リーダーは、その言葉の意味、哲学を、より多くの人に共有してもらわなければならない。それは言葉だけの問題ではないかもしれない。その点に関して、リーダーとして、前原氏には何かが足りない気がする。私は今回、前原氏に期待していたが、今一歩の感が否めない。万を持して選んだ言葉だとは思うが、その言葉が駄目だと思う。

 

最後に玉木氏が演説をした。玉木氏は若手で党内の支持者も少ないようだが、私には新鮮に思えた。その演説の仕方は、民進党の全体的カラーである、生徒会的な感じを拭えない。しかしながら、玉木氏の弁舌のさわやかさとその内容は、浪花節的ながら共感できるものだった。

 

政治のリーダーの演説は、もっと具体的でなければならないとは思うが、時には、青年の主張的でも良いのではないかとも思う。

 

確かに、世間の多くが感じるように、民進党は生徒会的のりに見える。しかし、私はそれで良いと思った。ずる賢い人間がたむろする政党より、いつまでも若々しく、青嵐のような志をもち続けながら、卓越した実務能力を構築かつ駆使できる政策集団。そんな政党になって欲しい。勿論、民進党だけに言いたいのではない。いつかそんな政党が現れて欲しいと思っている。

 

私だったら、たまき雄一郎氏を応援するが、これまでの実績と人気?で蓮舫氏が当選するだろう。

 

追伸

生徒会的のりとは、随分酷い言い方をしたと、反省している。

本当は、もっと辛辣な事を感じているが、ブログに書くのはよそう。このブログは、読者登録していただいた、特定の人だけに閲覧可としたい。

 

 

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2016年09月07日

組手技について〜無心の技

テーマ:増田道場

以下は、私の道場サイトのBMSの一部からの抜粋である。

これで道場生は減るかもしれないが、私は以下の意味が理解できる人間と武道を修練したい(正直言えば…否、一人で究めるのが真の武道であると、心の中から声が聞こえてきた…)。

ここで断っておくが、私の片腕である秋吉も道場の黒帯たちも、私とは全く異なる性格ばかりだ(当然のことかもしれないが)。私の家族も、私の話など聞いていない。聞けば、疲れるからであろう。私はそれで良いと思っている。私自身も私のような人間が近くにいたら「うるさい」と思うにちがいない。

むしろ、「こんな変な父親でごめんね」といつも思っている。

そう言いながら、「もっと変人になりたい」とも思っている。

今こうして前書きを書いているのも、回りと私の考えが異なる事への「免罪符」のようなものだ。

 

さらに蛇足ながら、近くで語れば「うるさい」と云われるに違いないから、無視されるのを覚悟で、うるさい事を、遠くからでも語り続けようとも思っている。

 

【組手技について〜無心の技】

少し難しい言い方になりますが、増田流の空手道で、最も重要なことを述べておきます。空手を始める前のみなさんに、難しいことを言うのは良くないかもしれません。

しかしながら、増田流は初めに重要なことを言っておきます。組手技とは相手と組手を行うための技であり方法ですが、組手稽古の目的は、優劣を競うことではありません。その目的は、相手との技の受け取り合いを通じ、技の本質をつかむことです。技の本質とは、自己を創造していくための原理であり道具のようなものです。つまり、技(既存の技)と格闘しながら、既存の技の殻を打ち破り、真の技(新しい技、無心の技)を生み出すことです。さらに、その過程において真の自己を掴むことが組手の真の目的なのです。

【真の自己を掴む】

真の自己を掴むためには、体験が重要です。しかしながら、ただ体験するだけではなく、技(行動)の目的を意識した体験が必要です。同時に自己の能力を向上を目指す意識が必要です。ここでいう自己の能力の向上を目指すとは、絶えず行動のゴールを明確にし、そこに達するルート(手段)選択の精度(ゴールに到達するスピードとその成功率)をあげる意識を持つことです。また、ここでいう真の自己とは、これ以上はないというようなところを目指す努力の中からの気づきとも言い換えられます。そのような気づきを得るためには、絶えず自己の行動を吟味し、行動結果からのフィードバックを大切にすることです。

 

組手稽古においては、絶えず自己(心身)からの「発信・指令」を吟味します。同時に他者や心身(自己)からの「返信・受信」を吟味します。そのような吟味を通じ、自己内部に構築された広義のコミュニケーションプログラムや回路を再構築していく作業がBMSの空手道の稽古・修練なのです。鍛錬やコンディショニングについては、組手稽古を行うための自己の基盤をより強靭にしつつ状態を維持、管理することだと考えて下さい。

 【BMSの目指す空手道とは】

さらに言えば、BMSの目指す空手武道とは、組手という他者とのコミュニケーション手段を通じ、自己の心と技を磨くことと言えます。言い換えれば、他者との関わり合いの方法を学ぶこととも言えます。例えれば、言語がそうであるように、空手武道の技も同様なのです。ゆえに、まずは基本を習得し、法則を型から学び、それを応用するという体験が必要です。

最後に、BMSの組手修練は仲間との関わり合いを重視します。また究極的にはコミュニケーション能力の向上を要求するものです。そのコミュニケーション能力の向上のために「応じ」と「転じ」という鍵概念を設定します。

 

【応じとは】

ここでいう「応じ」とは「転じ」の概念を内包しています。「応じ」は、一方的に相手を攻撃する行為ではありません。また一方的に防御するものでもありません。応じとは、状況や相手を受け入れながら、それに対し最善の対応を目指すことです。それが「転じ」の意味するところでもあります。攻撃一辺倒の戦い方は、まるで自我の中に閉じるこもるようなことだと思います。もちろん、そのような局面も時には必要かもしれませんし、最善の対応は個々人、状況に応じて多様です。しかしながら、最善の対応に内在する普遍的な要素を探求し、最善の対応を為すための心身の基盤をつくるのが増田流・極真空手です。

 

 

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2016年09月02日

フリースタイル空手の概論(加筆修正)

テーマ:FKプロジェクト

しまった!。下書きのままで掲載するつもりはなかったが、ボタンを間違えて押してしまった。しょうがないので掲載することとする。

 

今、インターネットによる空手指導用のサイトの修正を行っている。かなりの時間が必要なので、気力が持つか心配である。途中、空手理論のページに掲載していた小論が目に止まった。寄り道のように加筆修正を加えてみた。かなり時間が取られた。こんなことをしている余裕はないのだが…。ただ、フリースタイル空手の理念は、私の信念であるから、今後アプローチを変えてでも形にしたい。

 

最近、知人が早逝したとの知らせを受けた。私も年をとり、毎年のように同年齢の知人、友人の早逝の知らせを受けるようになってきた。私ももう少しだ。まだ早いと思われるだろうが、そんなことはない。本当に、健康であることは何物にも代えがたいことだと思う。眼をとじて、友人や家族の健康を祈らずにはいられない、毎日である。

 

フリースタイル空手の概論

 

【転じ(Turnaround)とは?】

転じとは、戦い(戦闘)の勝利を決定する局面に内在する、戦いの原理のようなものだ。私は、戦いの局面において、より善く戦う者の戦術には、転じの原理が存在すると考えている。

 

私は、それを「転じ(Turnaround)と名付けた。その定義は、「対手の攻撃を無力化し、反撃の効力を最大化する状況をつくること」となる。言い換えれば、自他の攻防の間に生じる「機」を生かすことである。

 

【戦術が多様で複雑】
フリースタイル空手という武道スポーツは、戦術が多様で複雑となる。なぜなら、相手を打つ、蹴る、倒す(投げる)ことが許されるからだ。他の格闘技スポーツは、あまり複雑になることを避けるかのごとく、戦いの局面や攻撃技術を限定し、戦術の選択の幅を狭めている。フリースタイル空手においても、関節技や寝技(グランド)の攻防(戦術)を排除し、戦闘局面を限定している。それは安全性を確保するためである。安全性の確保がなぜ必要かと言えば、答えは簡単だ。

 

【優れた技術の創出を目標】
それは、スポーツとして、格闘技を楽しみながら個々人の心身を強化することを、フリースタイル空手競技は目指しているからだ。また、優れた技術の創出を通じた、道理の体得により、有為な人材の育成に武道を役立たせることを究極の目標としている。そのような目標を達成するためには、反復可能な条件の確保、つまり安全性の担保が必要なのである。

 

一方、本当に優れた格闘技術は、生死の間の状況を体験しなければ体得できないと、容易に想像できる。しかしながら、それは極々少数の者に許されないことなのだ。また、私の感覚によれば、生死を安易に口にする者は怪しいとも思っている。さらに言えば、その領域が武道家と名乗る人達の隠れ蓑になっているような気もする。私は、この部分について、これ以上、公には言及しない。

 

【戦術の限定は、戦術や技術を研ぎすます】
さて、私は「戦い方、戦術の限定は、技術を研ぎすます」と考えている。

 

例えば、ボクシングやレスリングはその典型である。格闘競技のルールという観点から見たボクシングは、突き(パンチ)による頭部と上体への打撃という戦術に特化したスポーツだ。ボクシングが技術を限定するがゆえに、その技と戦術が優れている。またレスリングは、組み合いによる相手の支配という戦術に特化したスポーツだ。レスリングがボクシング同様にその技と戦術が優れているのは、技を限定するがゆえであろう。ここで把握しておかなければならないことに、技術評価の明確性を挙げたい。技の限定による、優れた技術の創出は、技術評価の明確性と表裏一体である。そこが曖昧だと、優れた技術は創出されにくい。

 

但し、ここでいう優れた技術とは、目に見える技術を指すのではなく、見えないところで機能している技術も含んでいる。ゆえに普通の眼では認識できない。そこが問題である。勿論、見た目が美しいというのは、優れた技術の機能美としての反映だとも言えるが…。しかしながら、真に優れた技術については、構造的な観点から説明しないと、私の考えがうまく伝えられない。今回は端折り、別の機会を待ちたい。

 

【空手の特異性の第一は】
一方、空手競技はどうか。空手は突きや蹴りに技を限定している。本来ならば、ボクシングやレスリング同様、優れた戦術が誕生しなければならない。しかし、安全性を確保するために、攻撃方法や戦術に限定が加えられている。また、技術の判定基準が曖昧である。ゆえに、優れた技や戦術が生まれにくくなっているように思う。

 

私は、空手の特異性の第一は、ボクシングやレスリングとは異なる間合い(距離)からの攻撃だと、考えている。つまり、中間や遠間からの攻撃だ。勿論、古伝の空手に見られる、接近戦での打撃技も空手の特異性の一つであろう。しかし、敵と離れた間合いからの攻防を行うための機動力が、空手と他の格闘技との最大の差別化になると思う。また、その機動力や技術は、ナイフなどの小武器などに対応する護身術の基盤となるであろう。しかしながら、そのような機動性と攻撃技術の片鱗を、フルコンタクト空手競技では見ることができない。むしろ寸止めと言われる、伝統空手の組手競技に、その片鱗が見られるといえば、言い過ぎだろうか。そのようになったのは、打撃技の攻防から逃れるための戦術としての接近戦を多用するからだと推測する。また、一撃必殺と言いながら、急所への打撃技や頭部への打撃技に対し限定を加えているからであろう。

 

さらに言えば、多少の打撃をもらっても、防御技術の未熟さとは考えないことや相手の攻撃と防御の間に一撃必殺の機があるということを理解していないからだろう。極論すれば、突きと蹴りなどの打撃技の特性を充分に活かしていないということだ。ここは丁寧に話さなければならないところだが、ここでは簡単に説明した。

 

【組手法の改善のために】
その傾向に気づき始めた空手経験者達は、技術の改善のために、グローブを使用し、頭部打撃の練習を取り入れたりしている。私は、それらの試みを否定はしない。また、安易な接近戦を反則とする、組手競技のルール改正を行なう空手団体も出てきた。私は、そのような組手法自体を変える方法も悪くないと思う。しかし、優れた格闘技術の創出を目標とする格闘競技を考えるならば、その方法には、少々難があるように思う。なぜなら、優れた格闘技術の創出を目標とするなら、仕組み(システム)として、自然に理に適わない状況が生まれにくくするようにした方が良いと考えるからだ。つまり、ある戦術の選択をすれば、それが不利になるという要素があれば、その選択は安易な逃避的かつ偽装的な攻防ではなくなる(現在のフルコンタクト空手競技には偽装的攻防や無駄な攻防が多すぎる)。つまり、リスクをとった上での攻防の選択とは、すべて積極的な攻防手段の選択となるのだ。そうなれば、その競技における技術の応酬が、すべて十分に意味のある攻防となる。ただし、あれをしてはならない、これをしてはならないと注文を付け過ぎると、選手の動きに自由度が奪われ、状況(環境)に対する、より善い変化と同時に優れた感覚の醸成が抑制されるだろう。ゆえに、接近戦も遠間の攻防も有効とし、それぞれの間合いでの有効な技を明確に評価する基準を設ければ良いと思う。

 

【フリースタイル空手は】
繰り返すが、フリースタイル空手は、安全性を確保しながら、あらゆる年代の愛好者に反復練習を可能とすることを目標としている。ゆえにグローブを使用した、突きにによる頭部打撃を採用するのではなく、フルコンタクト空手を基盤とする。しかしながら、近間では、組み合っても良いという、ある意味、当たり前のルールを設定した。

そのことにより、空手家の心身に、優れた間合い感覚、体捌き・運足の技術が引き出されるはずだ。本来、近間での攻防は、掴んだり、組んだりするのが自然だ。また、接近戦における、組み合いへの対応という戦術と技術を空手に加えれば(本来の空手では当たり前)、護身武術としての伝統的空手道の理念が復権するだろう。おそらく、突き蹴りのみが空手だと、単純に理解してきた人達は、戸惑いや違和感を感じるだろう。しかし、護身に空手を役立たせたいと考えるならば、多様な格闘状況(戦闘状況)を知らなければならなということはいうまでもないことだろう(もちろんすべてを知ることはできないが・・・)。

 

但し、徒手格闘における、格闘局面(戦闘局面)の全てを、組手競技で修練するとなると無理がある。要するに「打撃技の攻防」「組技の攻防」「寝技の攻防」と、格闘局面(戦闘局面)が多過ぎ、スポーツとしては過激になるということである。ゆえに、フリースタイル空手競技は、立ち技での格闘局面(戦闘局面)に限定した。

 

勿論、フリースタイル空手競技には否定的意見があるのも、私は承知している。その一つが、頭部打撃技を限定し、組討ちを認めれば、打撃技が得意な者に不利だというものある。その意見には一理はあるかもしれない。ゆえに柔道の寝技の攻防のように組み合いが許される時間に制限時間を設けた。

 

柔道は、打撃技を禁じ、立ち技からの投げと倒されてからの攻防を、武術として重要とし、それら両方の技を生かしている。一方、フリースタイル空手は、寝技を禁じ手としたが、離れての打撃技と接近しての組討ちの両方の技を生かしたのだ。

 

また、極真空手を代表とするフルコンタクト空手の蹴り技は、かなり強力な打撃技、攻撃技である。組討ちの状況と技術を理解し、打撃技と組み合わせて、新しい打撃技を生み出せば、かなり強力な格闘技術が創出出来ると確信している(時間がかかるかもしれないが)。

 

さらに補足を加えれば、戦術の範囲を広げ、戦闘局面の種類を増やせば、当然、組手が複雑になるだろう。しかし、それを我慢して、受け入れることができれば、組手(戦い)がチェスのような戦略ゲームに近づいていくはずだ。はじめに基本技の理解と、それを競技者が身につけることさえできれば、そんなに難しいことではないと思う。

 

もし、フルコンタクト空手競技が、以上のルール変更を受け入れることができれば、これまでの技術プラス、新たな戦術が誕生するだろう。また、競技者に戦略的観点が生まれるだろう。その戦略性は、観る者も納得するはずだ。

 

そこで初めて、人間教育に役立つ、ストラテジック・コンバット・スポーツ(戦略的格闘技スポーツ=武道スポーツ)が誕生するのだ。

2016/9/2 一部加筆修正

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2016年07月30日

極真空手家が観た都知事選〜その2 追伸

テーマ:コラム
民進党の岡田代表が、次の代表戦への不出馬を発表した。
「なぜ、このタイミングで?」と首をかしげざるを得ない。

まだ、野党統一候補の都知事選が終わっていない。

このタイミングでの発表は、知事選の敗北を認めたと観られかねないと思うのは、私だけだろうか。真意はともかく、そう観られざるを得ないようなことをするというのは、鳥越氏に失礼のみならず、共闘した共産党などにも失礼だろう。

一つ前のブログで述べたが、反自民で結束し、最後の最後まで全力を尽くすべきなのだ。少なくともリーダーは。

おそらく、都知事選の有権者の優先順位(政策面の判断材料)は、社会保障や福祉の充実だと思う。また、東京オリンピックの準備(成功への)と開催後の体力の消耗を最小限に抑えることではないだろうか。さらに、震災やテロ等に対する、十二分な対策と準備に関する政策であろう。そして、それらの政策に対する実務能力と意志、すなわち統率力(キャプテンシー)をリーダーに問うている。要するに、私のような空手家でも問題点は目に見えているのだ。

それならば、与党では駄目で、我々に任せろと、最後の最後まで、なぜ唱えないのだろうか。

私の考えでは、この都知事選を落とすという事は、地方自治と国政は異なると云う次元で判断されるのではない。つまり、民進党と野党に、大きなシステムの統治能力が欠如しているという市民の判断が定着して行くことになるという事だ。この事は、旧民主党の大きな失敗でもあったはずだ。

私は自民党支持だが、野党も必要だと思っている。だからこそ、蓮舫氏で勝てるのなら、何が何でも都知事のポジションを取るのが良いと思っていた。

蛇足ながら、民進党の考えは、私のような空手家にもすぐにわかるというのは言い過ぎだろうか。おそらく、イギリスの首相が女性、アメリカも初の女性大統領の誕生を待っている(民主党がそのように喧伝しているだけで、私はそう考えていないが)、そして新しい都知事が女性。ゆえに、新しい代表も女性にしようと、目論んでいるのかもしれない。

こんな私にも解るシナリオでは駄目だ。勿論、これは私の憶測だから、間違っているのを望みたい。なぜなら、もう一捻りが欲しいからだ。

兎に角、都知事選が終わってから次の展開を述べた方が、野党第1党のリーダーとして、よりふさわしい行動だろう。

これで99%以上、鳥越氏当選の可能性はなくなった。

本当に政治はばかばかしい。それでも政治は人間にとって重要な事であると思っている、非力な自分が悔しい。さて、妄想はこのぐらいにして、明日からの合宿の準備と足のリハビリと治療に向かうこととする。









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2016年07月30日

極真空手家が観た都知事選

テーマ:日誌
有権者の選択、特に無党派層の選択に注目している。
投票日2日前となっても、増田、小池、鳥越の3氏の内、誰に投票するかに逡巡している有権者が多くいるようだ。

選挙の情勢は、私が告知前に予想した通りになった。

まず増田氏だが、増田氏の支持基盤である自民党が序盤に打った一手が悪過ぎた。
次に鳥越氏だが、女性支持者を失うようなスキャンダルがでて、少なからずダメージを受けたに違いない。しかし、増田氏程ではないだろう。

最後に小池氏だが、都議会解散の突っ込みどころを、さらりとかわした。間髪を入れずに、既得権益者との対立と都政の改革者のイメージを印象づけ、さらに「知事報酬を半分」「任期を3年半」と心憎い程の小技の冴えをみせてきた。また、石原前都知事の「大年増の厚化粧」発言に対しても見事な「応じ」をみせ、「自民党崩し」のだめ押しの一手のように影響している。

小池氏は、私の武道理論で言うところの「応じ」を心得ている。「応じ」とは、「自己に不利な状況を有利な状況に転化する、という転じの理合をベースに、相手の攻撃を防御、間髪を入れず反撃を加える」ことだ。というより、自民党の攻撃が稚拙過ぎると云った方が良いだろう。

ここまで書いてきて、私が小池氏の圧勝になると言いたいのだと感じるかもしれないが、そうではない。普通に考えれば、「勝負あった」であろう。しかし、ほんの僅かながら他候補が勝つ可能性もあると思っている。

例えば、スキャンダル攻撃を受けた鳥越氏は、終盤になりふり構わず、与党を攻める姿勢をみせている。その攻撃姿勢は「それしかない」というものだ。やっと気がついたかというような攻撃方法だが。その意味を解説すると、鳥越氏は序盤戦、あまりにも戦い方が稚拙だった。想像だが、野党も頭を抱えていたと思う。それは、増田氏や小池氏が、歴戦の勇士で技術を持っているのに対し、鳥越氏は技術無しのような感じだった。しかし終盤にきて、増田、小池両氏の基盤である自民党に対決する姿勢を打ち出してきた。極真空手の試合で言えば、技術がないから最後は間合いを詰め、手数で審判に優勢をアピールしようと言う戦術だ。そのような戦術は、審判に見る目がなければ有効だ。ゆえに鳥越氏が僅差で勝利すると云う可能性もないとは言えない。しかし、今回の審判である有権者にとっての優先順位は、反自民ではないだろう。おそらく、そこまで都民は馬鹿ではないと信じたい。それでも鳥越氏が勝つ可能性は、自民支持層が分裂し、反自民が結束したときにある。

私は自民党支持、かつ都政の安定と進化を希望するので、調整能力と実務に長けた、情熱のある人を望んでいる。さらに言えば、過去に改革を唱えて、それを成し遂げた人はいるかどうかを考えている。勿論、小さな変革はあったかもしれないが、構造的かつ大きな改革を成し遂げた政治家はいないのではないか。また、そのような事を言う人を安易に信じてはならないように思っている。勿論、改革は必要であるし、また変革を志す事も必要だと思う。しかし、真の改革・変革は、長い時間をかけて成される事だと、私は考えている。また、有権者がその事(改革)に対して、その是非を十分に考える時間が必要だ。

ただ、選挙運動の期間が短すぎるので、考え選択する時間と材料が足りない。その事が、冒頭の、「誰に投票するかに逡巡している有権者が多くいる」という状況を生んでいる。勿論、それは有権者の政治への関心が高まった事の結果であり、民主主義の観点からは、進歩である。


最後になるが、私が今願っているのは、政治の混乱の抑止である。具体的には、今回の都知事選が与党のごたごたに発展しなければ良いという事である。勿論、建設的な侃々諤々は、与党内であっても、与党と野党とであっても必要だ。また、品格を保ち、真に都民の利益を考えた上で、丁々発止とやり合うことは、時に政治に必要かもしれない。しかし、決してそうではない、不毛な感情論に発展するようなことは、我々市民が迷惑する。

また私は、政治家には能力と情熱のある人を望むと先述したが、ここでいう能力とは「感性」の事である。政治家に必要なのは、実務能力もさることながら、「感性」と「情熱」であると私は思っている(経験は感性を磨き、情熱を湧出させるものだと考える)。

増田氏は同姓で、誠実な感じがするので期待したが、世論的には劣勢だ。その増田氏も、最後に都政に対する情熱と市民に対する感性を感じさせる事ができれば、逆転もあり得る。なぜなら、自民党支持者と公明党支持者の確実な支持を得られるだろうからだ。ただ、ここでいう市民に対する感性を感じさせるとは、難しい事かもしれない。本当に心の底から思う事でなければならないからだ。

平たく言えば、既得権益者、為政者の意見を聞くと云う感じではなく、名もない市民の声を聞くと云う姿勢である。また真の弱者への洞察力である。これは、与党から推薦されている増田氏の事を言っているのではない。私が観るところ、その感性は、増田、小池、鳥越、3氏すべてに足りないところかもしれないと、危惧しているのだ。

危惧が私の杞憂、妄想で終わるかどうか、それは選挙後にわかる。とにかく私は、3氏の中の一人に投票する。

蛇足ながら、リーダー、政治家には「感性」と「情熱」が一番重要だと繰り返したい。良い人がリーダーになりますように‥。




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2016年07月24日

故郷

テーマ:コラム
時々、発作のように故郷に帰りたくなる。

そこには、僕を支えた母はもういない。

僕を溺愛した祖母もいない。


だが、50年近くの歳月が一瞬に思えるほど、そこは変わっていない。

僕が幼い頃、そこには人が大勢いた。今はもう、その様子はない。


でも、そこに帰ると、その時のことを、この間の事のように思い出す。

同時に、東京にいる自分の家族が愛おしく思えてくる。

思い起こせば、僕の父は、幼い僕を車に乗せ、よく自分の実家へ連れていった。

僕は幼い頃、父の実家が大好きだった。僕は、もう一人の祖母にも可愛がられた。そして、いとこのお姉さんが大好きだった。


そんな僕も父親となり、わが息子を車の助手席に乗せるようになった。そんな時、昔の父の姿と幼かった自分を思い出す。

口うるさかったようにも思うが、優しい父だったと記憶している(記憶は良い思い出だけが残っているようだ。断っておくが父はまだ死んではいない)。

北陸新幹線が開通し、電車に乗れば、これまでの半分ほどの時間で帰れるようになった。

だが田舎で暮らす僕は、いつも車で帰省する。

もし、制限速度を守らなければ、5時間ほどで帰れるが、制限速度を守れば7時間はかかる。

もう僕も若くない。制限速度を守り、ゆっくりと帰る事にしている。

しかし、7時間の旅はきつい。それでも故郷へ帰りたくなるのは、父に会いたいからである。

幼い頃の僕は、いつも空手の練習に明け暮れていた。高校生の頃は、甲子園を目指す高校球児にも負けないぐらい、空手の為の訓練をしていたことを誰も知らないだろう。ゆえに、普通の若者らしい思い出はあまりない。本当にアウトサイダーだった僕は、自分の誇りの全てを空手に賭けたのだ。

若い頃の一時期、僕は家族に迷惑をかけた事がある。ゆえに、僕の残りの人生は、迷惑をかけた家族に対する贖罪だと思っている(大したことはできないが)。また、変わり者の僕と仲良くしてくれた友達の一人ひとりにありがとうと言いたい。

「まだ、人生が終わったわけじゃないのに」と人は笑うだろうが、日に日に故郷に対する感謝の念と懐かしさが強くなる。


さて話は変わるが、リオのオリンピックがこれから始まる。

諸問題があるようだが、僕は若い日本選手の活躍を期待している。

体操、陸上、柔道、レスリング、卓球、サッカー、フェンシング、バレーボール、ラグビー、水泳、重量挙げ、などなど。

全員が無事に力を発揮できることを祈っている。

僕には、リオのオリンピック、もう一つ注視したいことがある。それは、ブラジル日系移民の方々の日本人選手への感想である。

僕は、京セラの稲盛和夫名誉会長の主宰する塾の勉強会でブラジルを訪れたことがある。その時に、多くのブラジルの移民の方々の苦労とその偉大な業績を知った。

幼い頃、ブラジルは日系人が一番多い国と聞いたことはあったが、日系人について考えたことなど、それまでなかった。しかし、実際に日本からブラジルへ行き、日系移民の口から話を聞くと、認識は全く異なるものとなった。

日本から遠く離れたブラジルでの今回のオリンピック、関係者も大変だと想像する(人間の疲労度は移動距離に比例するときいた事がある?)。だからこそ、今回のオリンピックで、選手の頑張りのみならず、祖国からはるか遠く離れたブラジルで頑張った、日系移民の方々の気持ちを慮るのも良いのではないかと思う。

僕は移民の方々に対して、アウトサイダーとしてではなく、同胞として尊敬の念を持っている。

また、日本に住む我々には、「すぐにでも帰りたい」と、移民の方々が思うような日本・故郷を創っていくという自覚が必要だと思っている(もう移民1世の方々は存命ではないかな…?でも2世、3世の方に対しても同じだ)。






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2016年07月18日

感謝〜 フリースタイル空手研究会の有志へ

テーマ:FKプロジェクト
7月10日の増田道場の試合イベント(交流試合)の時、FK研究会の有志がフリースタイル空手の演武をしてくれた。

先ずもって、荻野聡氏を始め、宮村氏、坡場氏、スネイド氏、吉田健二氏、吉田晴夫氏、秋元氏、弥永氏に感謝したい。デモンストレーションをありがとう。

フリースタイル空手とは、私が考案した、打つ、蹴る、投げる等の技を駆使して戦う、新しい武道スポーツの名称である。

10年ぐらい前から構想し、4年ほど前にはトーナメントを開催した。
ここ2年は、スポンサーが降りたのと私の体の具合が悪く、指導が思うようにできないことで、休止状態であった。

それでも、今年はフランスで初のフリースタイル空手のトーナメントが開催された。また、私の道場生の有志たちが、フリースタイル空手の練習を続けていてくれた。今回は、その有志たちが私に代わって、フリースタイル空手のルールや技を、交流試合に参加した子供たちや保護者に披露してくれたのだ。みんな私が演武についてどう評価しているか、気になっていると聞いた。今私は、お礼の気持ちでこのブログを書いている。失礼だが、有志一同は若くない。また仕事もあり、演武の準備は大変だったろう。

改めて私は、彼らの気持ちに応えるために、理想の空手道を追い求めて、老骨に鞭打たねば、と思っている。構想はある。後もう少しで、自身の身体のリハビリと仕組み作りの第1段階が終わる。第1段階というのは、ようやく動ける段階である。さらに第2、第3の段階が、理想の実現には必要だろう。今回、私は有志に元気をもらった気がする。そして復活を急がなければと、思っている。日曜日は風邪気味で調子が悪かったが、有志の映像も作ってみた。後で見て欲しい。

話は変わるが、私の空手家としての座右の銘の一つに、「先達の真似をするな。先達の追い求めたものを求めよ」というものがある。私は先達の追い求めたものを真剣に追い求めているつもりだ。それが何であるかは、今回は多くを語らない。端的に言えば、空手家の技術のみならず哲学を高めることと言っても良いだろう。もしかすると、我が師は、「もっと空手を世界に広めよ」というかもしれない。もしそうならば、私は弟子として失格かもしれない。しかし、私は空手を世に広める前に、もっと深く空手を考え、その可能性を開拓したいと考えている。そして、その技術と哲学が本物ならば、普及は後から続くと考えている。


おそらく、多くの空手家が私を笑うだろう。なぜなら、まだ理想が形になっていないからだ。しかし、諦めるわけにはいかない。何をおいても、技術と哲学の完成だ(もちろん完成までは相当な時間が必要だが、まずは土台をと思っている)。断っておくが、フリースタイル空手という、新しい武道スポーツを広めることが、私のゴールではない。より高いレベルの武道哲学を完成させることがゴールだ。その部分が、今回の有志にはわかっていないかもしれない。有志には申し訳ないが、新しい競技(スポーツ)を作ることが私のゴールではないと繰り返し言っておく。あえていうならば、新しい武道を作るといったほうが良いかもしれない。私が新しい武道スポーツと目標を掲げたのは、まだ空手がオリンピック種目になっていなかったからだ。空手がオリンピックになったなら、新しい武道スポーツの創出は、私の目標の優先順位においては下位だ

ゆえに、これからはフリースタイル空手の方向性も修正が必要だと思っている。また、今回の演武で披露してくれた技も、100分の1程度のレベルにしか達していない。間合い、リズム、呼吸、虚実、投打(剛柔)一体、自他一体の意識が低すぎる。

現在、それを伝える稽古法を、私は考案中だ。実は大体の構想は出来ている。後はやりながら微調整だ。まだ、みんなには伝えていない。それを伝えることを楽しみにしている。ただ、これはやはり、増田流であり、拓真道流だ。ゆえに、これまでの空手の概念を一旦、棚上げできる者だけに伝えたい。なぜなら、素直な心持ちでないと、新しい技術の体得に時間がかかることが予想されるからだ。できれば、内弟子をとって教えるのが良いのだが…。



※FK演武は以下から〜下手で簡易な編集で申し訳ないが、ご容赦を…


https://youtu.be/jRCHpiWUpBk



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2016年07月16日

赤ひげ〜都知事選を見て思う

テーマ:日誌
「この病気に限らず、あらゆる病気に対して治療法など無い。医術などといっても情けないものだ。医者にはその症状と経過は分かるし、生命力の強い固体には多少の助力をすることができる。だが、それだけのことだ。」
「現在我々にできることは貧困と無知に対する戦いだ。それによって、医術の不足を補うしかない。貧困と無知さえ何とかできれば病気の大半は起こらずに済むんだ。」
「病気の影には人間の恐ろしい不幸が隠れている。」(映画、赤ひげより)


私は黒沢映画の大ファンだ。前記したのは、映画「赤ひげ』で主人公の医者(赤ひげ)が語る台詞である。私が「赤ひげ」を初めて見たとき、このセリフに痺れた。また、心も病んでいると思われる「おとよ」という少女に薬を飲ませるシーン。三船敏郎演じる赤ひげが、おとよに薬を飲ませ、「いい子だ」と一言いうシーンにも、私は痺れた。また、この映画の殺陣(柔術による格闘シーン)が斬新である。
さらに言えば、この映画の原作となった山本周五郎の小説が私は好きだ。思い起こせば、私が20代後半の頃、100人組手という荒行で身体を壊し、半年程、闘病生活を余儀なくされた時のこと。その時、今だと言わんばかりに、歴史小説を読んだ。私は司馬遼太郎も好きだが、山本周五郎の方が肌にあった。特に「長い坂」は、リーダーに是非一読して欲しい作品だ。

そして私は今、赤ひげのシーンを思い出している。赤ひげは、医術の分と役割をわきまえ、かつ世の中の問題の本質を「貧困と無知」だと喝破した。

私は貧困と無知の問題を改善するために、教育者はもちろんのこと、マス・メディアに関わる人達と経済人人にもっと頑張って欲しいと思っている(人間性の悪い経済人ならお前が頑張れと言い返すであろうが…)。また私は、赤ひげがいう医術を政治に置き換えてみた。すると、様々な社会問題に対し、より善い対策を考え、助力する。それが政治家ではないかと思えてきた。もし、それが妥当ならば、政治家の理想は、医者同様、深い人間洞察と仁愛の感性があることだと思う。しかし、そんな政治家は少ない(赤ひげは、無知と貧困に対して政治は何もしていないと喝破していたが…)。

さて、私が今、なぜ赤ひげを思い出したか?それは、都知事選を見ていて、暗澹たる気持ちになったからだろう。要するに、今回の都知事選後も、都政が良くなる事はなく、また似たような事態にになるような気がしてならないのだ。今まさに選挙戦の最中の方々には申し訳ないとは思うが、そのように、私は感じている。

ここで断っておきたい。私が政治について語るのは止めようと言いながら、こうも政治に関して冗長になるのはなぜか?その理由は、私の空手家人生の中心となっているのが、制度改革(システム改革)に他ならないからだ。私は、若い頃の挫折と極真空手での苦難に懊悩(おうのう)する中、ある思いが芽生えている。それは、システムを考え、それを創り変えるという事だ。ここでいうシステムとは、構造、制度、仕組みと言い換えても良い。大きくみれば、国家、家族、会社、業界等もシステムだ。また小さくみれば、人間もシステムであろう。


ゆえに私の仕事は、大げさに聞こえるかもしれないが、死ぬまでに空手武道による人間教育システムを創り上げる事だと言ってもよい。分不相応な夢を持つのは私の性癖だ。正直言えば、実現できるかどうかはギリギリの状態だと思っている。しかし、這うような感じで勉強とその準備を進めている。これまで、みんなに助けられてきたが、少しの油断も出来ないというような状態だ。そんな生き方をしてきているからこそ、この世の中の問題の本質がよく見えるのだ(よく見えるなど不遜だが)。

話を都知事選に戻せば、おそらく有権者には3名程の人間しか目に入らないだろう。正直言えば、どの候補者も今ひとつだ。もちろん、3人の中でより良い人はいるかもしれない。しかし、誰がなっても、都知事選後の混乱と落胆が明らかだ。

先日、私の良き理解者である荻野氏と電話で話をしたら、「上杉隆氏」はどうかという。

「上杉隆??」「なんか暗い感じのジャーナリストでしょ」と私は軽く答えたが、調べてみると、これが中々良さそうな人物だ。公約も良い。これで私の中に、上杉隆の名前が、インプットされた。しかし、当選はしないだろう。メデイアも取り上げないし、知名度が低過ぎる。

そもそも私は、東京都のみならず、国政に関しても、より本質的な事は、制度改革が必要だと考えている。その本丸は、選挙制度である。大雑把に言えば、政治家を選ぶ制度のみならず、政治家になるための制度と政治家に仕事をさせる制度の見直しも必要だと思う。それなりの選挙制度は確立されているとの反論が出ると思うが、私の見方では不十分だ。今回の都知事選も、知事を選出する制度に問題があると思っている。その辺を、マス・メディアや有権者に考えてもらいたい。何か、良い方法があるはずだ。

そのように考えていたら、自民党の河野太郎氏がSNSで良い提案をされていた。私は河野氏の提案は良い考えだと思っている。すぐに実現すべき提案だ。

最後にマス・メディアに対して、大衆が無知だと、おごるなと云いたい。無知を啓蒙するのがマス・メディアの仕事ではないか。しかし、そもそもマス・メデァアに読み手を啓蒙するほどの見識があるのか。私は疑っている(一方、メディアの方からは、啓蒙などというような傲慢な気持ちはございません、と嫌味な返答があるかもしれない)。ゆえに情報の受け取りに際しては、充分に吟味した方が良いだろう。また本当の問題点は、修羅場を経験し、真に考え抜いた人間にしかわからない事なのかもしれない。そして民主主義では、本当(真の問題点)の解決策が選ばれるのではなく、合意できる程度の事が選ばれる。否、本当の事は、志を高くもち続け、変革を続けた中で、見えてくると事柄だと思う。ゆえに、教育の理想とは、志を高める事だと、教育者は考えてほしい。

蛇足ながら、私がドラッグストアで買い物をしていたときの事である。私はレジの順番待ちをしていた。そこへ30歳〜40歳代の女性が、順番を抜かし、レジに向かった。私の前の60歳前半ぐらいの紳士が、「並んでいますよ」と優しく伝えた。その女性は見るからに不機嫌そうな顔をして、「そんなの、解らないわよ」とぶつぶついいながら、後ろへ回った。私は、女性の態度を酷いと思った。また、その紳士に申し訳なく思った。なぜなら、馬鹿な女性の相手を自分は放棄したのではないかと思いが芽生えたからだ。本来なら、私にも、その役回りをする必要があったかもしれない。先日、社会的弱者を子供や女性等とレッテルを貼ったが、それでは、購読者や視聴者を増やしたいメディアと同じである。弱者や女性などと一言で括らず、包括的、全体的な視点で、社会システムを考える視点と感性が必要だと思う。

2016/7/17 一部修正(誤字、脱字等を修正)







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2016年07月14日

政治について〜追伸

テーマ:コラム
交流試合で教え子たちが頑張ったので、上機嫌になっていた。
それで、調子に乗って政治について書いてしまったようだ。空手家の私が政治などを語っても無駄なことだ。しかし、書いてしまったからには、締めくくりを書いておく。

本日、宇都宮氏が東京都知事選の出馬を取りやめた。
とても残念だ。というより、これで都知事選が人気投票になってしまうと予想されることへの失望である。

宇都宮氏は私の好みの先生だ。前回も地方自治(東京都政)に思いがあり、出馬されたのだと思う。
宇都宮氏なら、格差社会へのセイフティーネットの構築に尽力したに違いない。いうまでもなく、東京は、我が国における、経済、政治、文化、教育の発信基地である。今後、それが地方に分散していくほうが良いとしても、首都、東京にふさわしい制度の整備をしていくことが東京都には必要だ。もちろん、生活者にとっては、それよりも前に東京都に安心して住み続けられるかということが大事な点だろう。ただ私は、生活者の安心も必要だが、それなりの義務も果たさなければならないという考えが妥当だと思っている。ゆえに、ただ都民にメリットのある公約をするのではなく、東京都にふさわしい制度設計ができる人が良いと思う。つまり、生活者の安心と共に長期的な展望を有する制度設計ができるリーダーが政治家になるべきだと思っている。

だた、問題はそのリーダーを選ぶのは、目利きではない市民なのだ。私だけだろうか。青島知事以来、大きくみれば、同じことの繰り返しだと思うのは。
百歩譲って、完璧な政治家などいないとしたら、私だったら誠実な人を選びたい。または、信念のある人だ。ただ信念の人は難しい。なぜなら、我々の目には、その信念の本質を見抜くことができないからだ。

兎に角、各党の存続をかけた利害のために政治家を決めるのは良くない。また人気投票では駄目だ。あえて言っておきたい。なぜ、野党は宇都宮氏を支持できなかったか?下衆の勘ぐりだが、次の都議会議員選挙などを睨んでいるのではないか。宇都宮氏を撤退させたことで、野党は必勝を確信しているようだが、そんなに東京都民は馬鹿だろうか(馬鹿かもね。何回も同じことを繰り返すのだから…)。

一応、偉そうに予想などしたので、予想の訂正をしておく。私は無難に増田氏を推したいが、勝つのは小池氏だと思う。ただし、小池氏にとっては凄まじい選挙になるだろう。正直、日本新党、新進党、小泉政権と、私の好みではなかった。しかし、その党を渡り歩いた、小池氏を応援したくなっているのはなぜだろう。

蛇足ながら
小池氏に言いたい(ブログに書いても伝わらないだろうが、テレパシーを送っておく)。
憲法改正の問題などお調子者に言わせておけば良い(おそらくもう言わないと思うが)。
小池氏に付け加えて欲しいのが、社会的弱者への思いやりだ、それをばら撒きではなく、モチベーションを喚起するような制度の提案を匂わすのだ。匂わすだけで良い。なぜなら、そのような制度設計は、宇都宮氏のような実務家などの衆知を集める時間が必要だからだ。軽く口走ってしまうと、これまでの政治家と同じになってしまう。断っておくが、社会的弱者とは老人のことでない。
むしろ若い人だ。そして女性だ。母親だ。心ある老人は、自分のことも大事だが、若い人、女性のことを考えているはずだから。歴戦の勇士である小池氏には、釈迦に説法かな(笑)。

以上、空手家の下らない話でした。これから自分の仕事に集中します。御免。
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2016年07月12日

初心を忘るべからず〜政治について

テーマ:コラム
初心を忘るべからず〜政治について

日曜日、我が愚息の初めての投票に同行した。ひとつ良き思い出が増えたと思っている。

私は安倍首相贔屓である。贔屓などとは不謹慎だと云われそうだが、政策面のみならず、人間性の好みがどうしてもでてしまうのは、仕方が無い。また野党の議員と候補の方々は、すべてではないが、人格面で貧弱な感じが否めない。

ただし、私は野党のすべてが良くないと思っているのではない。むしろ様々な意見がある国の方が善いと思っている。ゆえに野党に頑張って欲しい。繰り返すが、野党は戦略、戦術があまりにも稚拙で、候補者や議員の人格が貧弱である。

今、参議院選が終わり、次は知事選という段になり、その稚拙さが目につく。言うまでもないが、自民党のすべてが良いと、国民は思っていない。ただ野党が未熟すぎるのだ。

例えば、民進党を躍進させたいのなら、都知事選は蓮舫氏で行くべきだった。蓮舫氏の意志を尊重しなければならないのは当然だが、なぜ口説けなかったか。確かに国政と地方自治とは異なるが、東京都のあり方は、全国に影響を与える。その位置を野党が取り、反自民の「のろし」を挙げて行くのが野党として最善の戦術、戦略だと私は思っている。

現在、自民党は小池氏の出馬で、その弱点を露呈している。小池氏は、なかなか有力な政治家だが、国民が望んでいる政治家とは異なると思う。

話を端折ると、野党の問題、特に民進党の問題は、何と言われようが、共産党と是々非々で認め合い、仲間を尊重する姿を見せることだと云いたい。そうすれば、もっと勝てる。また、現在の状況では、都知事選は、宇都宮氏で一本化するべきだ。その度量をみせる事が、民進党が復活する、最善手なのだ(無理だろうな、民進党の度量では)。


イギリスのEUの離脱の予想も当たった。知事選の予想が当たらない事を祈りたい。私の予想では、小池氏が苦戦しながらも勝つ可能性がでてきたと考えている。なぜなら、民進党が人気投票路線という悪手を打ち、一方の自民も悪手を打っているからだ。断って置くが、私は自民党支持者だ。先輩が議員だし、自民党の人達と懇意にしている。一方でこの国の将来を心配する一市民でもある。ゆえに私は、バランスを取るという意味で、都知事は宇都宮氏が良いのではないかと思っている。おそらく、宇都宮氏は一筋縄ではいかない人だろう。だからこそ良いのだ。人気投票に勝てそうだから出るような人間は駄目だ。それを選ぶ市民もレベルが低い。現在、小池氏に叩かれている自民党都議連と宇都宮氏が正々堂々と勝負をするような政治を私は望んでいる。そして、メディアにも頑張ってもらい、我々市民の成熟を促して欲しい。


蛇足ながら、小池氏が苦しい戦いの中で、攻めなければならないのは、自民党の弱点だ。そこを認識できなければならないと思う。あえてそういうのは、そこが自民党の最も戒めなければならない弱点であり、そこを認識できれば盤石の体制が整うと考えるからだ。それは「言論統制、規制」ともとられかねない言動や措置をとらないこと、物事をなるべくオープンに進めるという事であろう。なぜなら、我々日本人が目指すべきは、最も成熟した民主主義国家だからだ。そのような国で最も重要なのは、言論の自由をどんな事があっても保証する事だ。そこを忘れなければ、都知事選のみならず、自民党の盤石な体制を築く事もできると思う。成熟した市民と国家は、自由でオープンな議論の中から形成されると思う。勿論、恣意的かつ無礼な言動と自由とは一線を画すのは言うまでもない。さらに蛇足ながら、小池氏には都議会を解散するなどと公約を掲げ、離党勧告に値する面もある。それでも、自民党は小池氏を離党に追い込まず、手を打つ方が良いと思う。なぜなら、今回の都知事選には、自民党と都議連に責任の一端があるのだから。ゆえに地方自治と国政は別とするなど、今回に限り、度量の大きさを見せて欲しい。兎に角、私が願うのは、この国が良くなっていくことだ。

最後になるが、私は、リーダーの政治の世界も庶民の生活の世界にも、世阿弥のいう「初心の教え」は通じるのではないかと思っている。今回、愛読書の一つである世阿弥の「風姿花伝」を「花鏡」と併せて紐解いた。御陰で、自分自身の未熟と不勉強に気づかされた。世阿弥の教えは、本当に素晴らしい。特に「花」の教えは、自身の思想に浸透させたい。(前回「初心」の続き)


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