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2017年02月13日

話は3分を超えてはいけない  〜その2

テーマ:エッセイ

前回の続き

 

【ある黒帯に私の理想を語ったとき】

還暦を迎える、ある黒帯に私の理想を語った時のことである。その黒帯が言った。

「還暦を迎えても、年齢を重ねても、相手を痛めつける組手ではなく、相手と共に組手が楽しめるような空手が良い」。

「これからの時代、そんな空手が求められるに違いない」そんな風に言ってくれる、黒帯もいる。私もそう思う。私も老い、やがて人生を終える。しかし、若い人たちも同様の道を行くに違いない。そうだとしたら、老いて行く人がいつまでも身体を楽しみ、老いを含めた人生を、なるべく人の手を煩わせずに、味わっていける可能性を空手によって高めたい。そうなれば、空手の価値は、勝者、強者のためのものに止まらないだろう。そのためにこそ、その価値基準を刷新しなければならない。

 

例えば、私は勝者敗者、強者弱者というような二項対立的な価値ではなく、人生をより長く、深く「味わう」という価値があっても良いと思う。おそらく、「人生の長短や深浅も二項対立的では」と思われるかもしれない。ただ、ここで私が言いたいのは、多様な価値観があっても良いという事だ。当然、夭折された方の人生も悪いとは言わない。また人生を浅く捉えている人を悪いとも言わない。ただ、「味わう」という感覚が大切だということだけは言っておきたい。そこが、先述した二項対立的な価値観と私の価値観を分ける部分である。当然、私の思想や価値観を好まない人がいても良い。

しかし、これだけは提案したい。鍛錬を行う若い時期、責任とストレスの多い青年から壮年の時期を無事に終え、老年の時期を積極的に迎えられるようにすること。また、その時期を楽しみ、感謝で終えられるよう、心身の可能性を拡げる努力が重要だということを。更に言えば、そのようなことを社会・国家が担保し、かつ支援する事が、若者に希望を与えることにつなげると思うのである。今後、高齢化時代がピークを迎える。是非とも、各界のリーダーがそのような思想を念頭に置いて欲しい。

 

私は、老年を間近にした、心友でもある黒帯の言葉に確信を得たような気がした。ゆえに、伝統的な空手道を尊重しながらも、新しい概念の空手道を私は創り上げたいと思う。

 

その空手道とは、相手と技術を活かしあい、高め合うような組手メソッドを中心とするものだ。それが拓真道メソッドである。補足すれば、拓真道は空手流派の呼称ではない。

 

さらに言えば、そんなメソッドを、自分の流派以外の空手愛好者にも伝えるのも良いかと思う。一回限りでも良い。それで相手の認識が変われば、斯界の発展につながるかもしれない。ただし、できれば少数、あるいは個人レッスンが良いと思っている。なぜなら、人によって上達の妨げになっているポイントが異なると考えるからだ。補足すれば、私は、組手が下手な人の根本原因は、その人の認識(認知)を繋ぐ全体の一部に生じた何らかの問題だと考えている。言い換えれば、網の目のような認識(認知の)体系全体の部分に生じた歪みが、問題となっているということだ。推測の段階だが、今後の研究課題の一つでもある。


余談だが、修練会を終えて、黒帯に感想を聞いた。
「テニスの例えは理解できた?」
「ええ。わかりやすかったです」
「師範はテニスをやられるのですか?」
「一度、師範とテニスやってみたいです」

私は、「ダメダメ」
「僕はテニスやったことないよ」
「錦織が好きでテレビで見るだけ」
「僕は全てに不器用だから、テニスなんてできないし、やる時間がない」とにべもなく答えた。

酷い先生だ…。

【蛇足ながら】
書かない方が良いと思ったが記しておく。どこかで言わなければならないだろうから。

これまでのフルコンタクト空手の試合や組手の形ではなく、それを言葉に変換し、意味の受け取り直しを試みれば、以下のようになる。
A「どうだこの技は効いただろう」
B「効いてないぞ」
A「では、この技はどうだ」
B「効いてない」
B「俺の技の方が効いているだろう」
A「全然、効いない」

B「お前、もう力が残ってないだろ」
A「まだまだ、お前こそ力が無くなってきてるだろ」
B「俺が強い」「俺が勝った」
A「俺が強い」「俺が勝った」


相手のうまいところが評価されず、打たれ強さやスタミナ、悪しき根性だけが評価される。組手の結果、主観的かつ感情的なしこりだけが残る可能性が大。
こんな空手を誰がやるのか?


拓真道組手メソッドでは

A「この技、どう?」
B「了解、打ち返すよ」
A「では、この技はどう?」
B「やられた」「君、うまいね」
B「今度は、僕の技だ」「どう?受けられるかい」
A 「やられた」「君もうまいね」
A&B「今度もう一回、組手だ」「次回は、もっと上手い技を出すぞ」「楽しみにしておけよ」

こんな風になる。

 
 
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2017年02月13日

話す時間は3分を超えてはいけない 〜その1

テーマ:拓真道

2017年が始まり、あっという間に1ヶ月が過ぎた。

2016年初めは高田馬場道場の引越し、2017年初めは八王子道場の引越しがあった。毎年慌ただしい年末年始である。

 

私は、いつも変化を繰り返しているようだ。本当は変化したくない。また、早く安定したいと願っているのだが、安定するためにこそ、変化を繰り返さなければならないとも思っている。

 

【経験から得た極意】

さて、「不安定な状態から不安定な状態へと変化し続けながら安定を得る」とは、私が若い頃に好んだスキーと組手を極めたいと夢想し続けた経験から得た極意である。

 

ここでいう不安定な状態から不安定な状態へと変化し続けるとは、バランスを取るためにある状態からある状態への「間」を意識的に制御している状態だと、拙い表現力で記してみたい。その状態(間)は、安定を喪失した状態ではない。だが、安定を絶えず志向している状態である。その絶えず志向している状態を維持、制御している状態のことを安定といい、そのような志向性が制御不可能になった状態が安定を喪失した状態だと、私は考えたい。

 

更に言えば、たとえ安定を喪失したとしても、さらにその先に安定を求める働きが生じるようにも思う。例えば、人が懸命に生きるということも、そのような様相をなしているように思うのだ。つまり、絶えず安定を求めて転ぶが、また起き上がろうとする。逆に言えば、たとえ安定した状態だと思っても、そこに安住しようとすれば、そこは何らかの不均衡をもたらしていく。そんな風にも思うのだ。とはいうものの、そのような営みにも限界があるだろう。

例えば、人間としての終焉がそれである。つまりその状態は、もう人間的に変化できなくなった時である。そんなことを随分前から考えている。

 

同時に、自分のあらゆる認識を経験と思索により、絶えず刷新していくこと。そのような意識が必要ではないかとも考えている。私が自著であらわした 「拓真道」とはそのような生き方である。それは、自分の認識を絶えず変化、刷新していくことと言っても良い。

 

【組手修練会にて】

本日は府中で組手修練会があった。寒風の中、子供から還暦間近の黒帯まで、多くの道場生が集まった。

 

私は当初、組手の修練の指導には、まず理論の共有が必要だと考えていた。しかし・・・。

道場生を思い浮かべてみると、私の組手理論を理解しているものは皆無だ。それは私の責任だろう。理論を伝えきれていない。言い訳をするつもりはないが、フリースタイル空手という新しい競技法を作ることに時間を取られ、基本的な空手の組手法の指導とその指導理論の確立を等閑にしていた。いつものことだが「穴があったら入りたい(ドジな)」ような反省である(いつも金にもならないことを優先している)。しかも、その間にも私の拓真道は進行し、空手家と私の認識との距離が増してきているようにも思う。

 

だからこそ、これまでの空手観と共存できる、新たな次元を開拓しなければと考えている。学問の世界なら徹底的に批判するだろう。それも必要かもしれない。現実、神話的な間違った組手理論が定着している。とにかく、無粋で不器用な私は、自分を偽ることでしか、伝統的かつ幻想的な組手法の世界に、戻ることができないのだ。あえて補足すれば、私の組手法は、現役時代から、既存の世界からはみ出ていたとも言える。ゆえに「世界を刷新しなければ・・・」。それには、より普遍的な事柄を中心に据えることが必要ではないか。そんなテーマを抱えつつ、思索に挑んできた。

 

哲学、歴史、経済、科学、スポーツ、さらに映画などのエンターテインメントまで、あらゆるジャンルにそのヒントを求めた。まだまだ、勉強が足りない。思索も足りない。時間が足りない。目も悪くなった。また脚の具合が悪く、椅子に長時間座ることが辛い。そんな中、一つの刷新があった。それは、脳科学の視点を得たこと。7、8年前から気になっていた、創発という概念が、複雑系の概念であることを知ったこと。数学を全く理解していない私が、数学的な発想をしていること。また、私が幼少の頃から興味があった宗教や哲学の世界が、科学の世界と近づいてきているようだ(もちろんそうでない学派もあるが)。因みに私は、空手に関しても科学的な理論を重視している。私は、様々なジャンルから、新しい学びがないか、探している。ゆえに時間が足りない。賢明な人は、「増田はバカか」

「そんなことは無駄だからすぐにやめろ」というに違いない。しかし、小説家は「何かを書かずにはいられないから書くのである。また、「画家は何かを描かなければいられないから描くのである」。

 

かくいう私は、真を求めずにはいられないから、勉強するのである。とはいうものの、空手を教え、上達させるのが、私の仕事である。そのための前提として、世界(認識の網の目)の共有が必要なのだ。つまり、先述したところの刷新した世界を、道場生に認識させなければ活かしあいと共創のゲームは始まらない。

 

まずは、簡単に組手修練における要点を伝えようと考えてみた。まずは、ノートの以下のように書き記した。

 

 

①    単技を知る

②    単技の使い方を知る

③    防御と反撃の関係性(構造といっても良い)を知る

④    実践・応用とその検証(フイードフォワードとフイードバック)

⑤    多様な組手を知る(ルールの枠を越えた視点を持つ)

 

 

【話す時間は3分を超えてはいけない】

「全然だめだ・・・」「こんなことを話したら、理解させるまでに数時間がすぐにたってしまう」「子供たちはどうするんだ」私の脳裏に、「私が仕切るのはやめて、秋吉に任せようと」いう声が聞こえた。さらに「私がいない方が良い」という声が聞こえてきた。否、正確には、「私は、そこにいないが、そこにいるように意識させることがベスト」という考えだ。しかし、それを実現するにはどうしたら良いか、今はできないと思い直した。

 

私は、進行を師範代に任せようと思っていた。その中、まずは私も組手の輪の加わり、実地に組手の感覚を伝えようと思った。

 

しかし、「だめだ、これでは伝わらない」と直感した。人間は、自分に理解できるものしか理解しない。そして見たいものを予想しながらものを見るようだ。

 

私は、一旦組手の輪を外れ、考えていた。そして、「だめだ、絶対に伝えなければいけない」と直感的に思った。今ここで、このメンバーに私の組手理論を伝えなければ、また1年以上は遅れる(私の目標実現が)とも思った。

しかし、小学生も含む修練会である。「難しいことを言ってはだめだ」「話す時間は3分を超えてはいけない」など、キーワードが脳裏に浮かぶ。私の頭の中に電流が走る。

 

【人間は自分の理解できるものしか理解しない】

「人間は自分の理解できるものしか理解しない」当たり前のことじゃないかと思われるかもしれない。

「だからだめなのだ」と私は言いたい。

ある事物に内包される真理のような事柄を理解するときには、ある事柄とは別の事柄に置き換えたりしたレトリックを用いるのが効果的だと思う。もし、レトリックが的確ならば、人間はある事物を理解する際、自分の知識量が少なくても、直感的に理解する。それは、理論が理性で理解できなくとも、レトリックがイメージを喚起し、そのイメージが理性の代わりに感性の領域に働きかけ、理解したと錯覚させる(感性による理解)からではないかと私は考えている。更に言えば、真理と思われる事柄とは、実際は完全に言語化はできていないのではと思っている(仮に真理と言葉で断定している事柄があったら疑った方が良いようにも思う)。

 

例えば、「不安定の中から安定を得る」「変化の中から不変を掴む」というのもレトリックである。それを真理というには不十分である。しかし、その不十分だが、イメージでしか言い表せないことの中に真理があるようにも思うのだ。

さて話を、組手修練会の方の戻すと、私が伝えたことは簡単であった。

 

「組手の前に3分だけ時間をください」

「みんな、テニスを知らない人」「いない」「そうですか」「では、テニスは相手が打ち込んできたボールを受けて返よね」「そのボールを受けて返すのが組手なんですよ」

「だから、受けるだけでは、相手に点が入ります」

「ただ、ボールを受けて返しても相手コートに入っていなければ、だめです」

「わかりますよね」

「空手も相手の攻撃を受けて、しかも相手に正確に当てなければだめなんです」

「相手を攻撃するだけ」

「それは、壁打ちでもすれば良いんです」

「空手だったらミットやサンドバック練習かな」

「攻撃が効いてないから受けない」

「攻撃のことしか考えない」

「それは組手じゃないんです」

「先生は、空手でもないと思っています」と言ったところで「子供たちに、これは言い過ぎた」と反省した。

「それでは組手再開」。

すぐに反応がでた。多くの道場生が、攻撃だけだったのが、受けて反撃をするようになった。まだ体が動かない人には、声をかけて、技を限定し、受けて反撃をさせた。そして「それだ、上手いぞ」と励ました。

 

しかし、本当は言いたいことが。山ほどあった。私は、「真」を求めずにはいられないのだ。そんな状態であるから、相手とコミュニケーションが取りづらい。生徒を指導するという立場ながら、それではまずいと思っている。ゆえに、いつも自分にダメ出しをし、かつ歯を食いしばって自分の未熟さに耐えている。

 

このままではいけないという思いが、組手メソッドを構想させているのだと思う。その中身は、言葉の使用を極力控え、まずは実践(経験)を主にしたい。ただ、上達には修練の量と質が必要である。

 

その修練には、身体訓練のみならず、修練に関する多角度的な検証を含めた「思索」も含んでいる。

 

ともあれ、言葉をほとんど用いず、というよりレトリックによって、可能な限り単純化して伝えたことで、修練時間の確保(量)と理論の理解(質)が少し向上したようだ。

 

しかし、実はそんな簡単なことではない。その上達の構造を、理論化し、万人に効力のあるものとして確立するには、大変な労力が必要だと感じている。

 

【その先】

本日の指導には、「その先」がある。黒帯のひとりにその先を伝えた。

「テニスでは、フォアで返されたボールをフォアで返す、それがラリーの基本だと思う(テニスのことはテレビで見るだけなので正確には知らない)」。

「それを試合では、相手がフォアで返そうとしているところを、バックハンドでしか打ち返せないところにずらして(時間や空間を)返す」。

「つまり、相手が打ち返せない場所に反撃して得点するんだ」。

さらに

「相手がワンバウンドで打ち返すだろうと思い込んでいるところをボレーで打ち返し、相手の予測を外すことが、得点を得る基本手段となるんだ」。

「僕はそれと同じことを組手でやっているんだよ」と伝えた。

さらに、組手は下手だが、私のよき理解者である黒帯に、本日の感想を聞いた。

 

私はその黒帯に堰を切ったように組手理論を伝えてしまった。30分以上も話しただろうか。大変申し訳ないと思っている(本当はもうやめたい)。その人間には、私の理想をことあるごとに伝えている。しっかりと記憶にとどめて欲しいのだ。

その内容を、少しだけ記せば、「テニスが上手い人と下手な人がプレーすれば、下手な方はすぐに力み、疲れる。上手い人は絶えずリラックスしていて、無駄のない動き、効率の良い動きをするので疲れない」ただし「上手い人同士がプレーする場合、相手の裏を掻くような、心理的、身体的な「崩し合い」をするので、驚異的な身体的動作を必要とする場合があるが・・・」「僕は勝負を目的とする組手から離れ、相手と楽しむ組手を作り上げたい」「それには、組手を行う者が組手技と組手法を構造化できるような修練メソッドを作らなければならないんです」ここが難しい。大げさに聞こえるかもしれないが、特許を取れるような事柄なら、資金を集める。しかし、それは無理であろう。ゆえに家族と道場生を犠牲にしない範囲で、研究に人生を賭すつもりだ。ただし、身体が動かなくなったらやめるかもしれない。誰も付き合ってくれはしないだろうから。

 

その2に続く

 
 
 
 
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2016年11月22日

日誌2016/11/22〜時代の空気について

テーマ:日誌

日誌2016/11/22〜時代の空気について

 

 

今、テレビ朝日の橋本氏の番組を見ている。私はデーブ・スペクター氏に好感を持った。番組ではスペクター氏のコメントは少ない(遠慮しているのか、編集されているのかもしれない)。しかし、その少ないコメントからスペクター氏の人柄が理解できる。スペクター氏はトランプ氏を嫌悪している。一方の橋本氏や木村氏はトランプ氏を絶賛(に近い)していた。私は、アメリカ人であるが親日家のスペクター氏の考え方をもっと聞きたい。

 

番組では、いつも橋本氏の舌鋒が鋭く、他の人は遠慮しがちだ。おそらく橋本氏と口論になるからであろう。現在、多くの日本人がトランプ氏に歩み寄っている。「長いものに巻かれろ」は日本人の伝統的スタイルだ。もちろん、そのスタイルは悪い面ばかりではない。今回、トランプ氏が大統領になったのだから、仲良くするのは常識的である。国の代表である安倍首相の迅速な行動(訪米)は評価されるものだと思う。しかし、それを支える市民やメディアには、もっと多様な意見があっても良いのではないだろうか。

 

私は反論のための反論は好きではない。ゆえに臆見に基づいた主観論や推測ではなく、もっと事実に基づく論理的な意見が欲しい。勿論、主観的な市民の声も大切だとは思うが・・・。

 

大統領選、私はトランプ氏の当選を予想したが、直前にヒラリー氏を応援した。その感覚はマイケル・ムーア氏に近いかもしれない・・・(当然のことながら、アメリカ国民ではない私はアメリカ民主党支持者ではないが)。

 

現在、日本人はトランプ氏を評価し始めているが、そんなに簡単に掌返しをしても良いものだろうか。繰り返すが、国家を代表し、国の安全保障や貿易協定等、外交のトップである、安倍首相の立場では、次期大統領と仲良くする事は当然だし、その行動が迅速なのは悪いことではないと思う。

 

しかし、橋本氏がトランプ大統領の選出にあわせ、「有権者は馬鹿ではない」と断じ、かつ民主主義を絶賛することに関して、私はいささかの疑義がある。まず橋下氏には、有権者の見識を信頼しているようだが、それはどのような観点から言っているのか聞いてみたい。例えば、日本国の有権者の見識なのか、アメリカの有権者の見識なのか、全ての人達の見識が信頼できると言っているのだろうか。もしそうなら、それは他の国の選挙制度、有権者の中には、そうではない人達もいるということを含意しているのではないだろうか。それとも、民主主義のシステムを信頼しているのだろうか。そのシステムの中で、有権者(この場合、厳密には何を指すのだろうか)の判断は正しいと言っているのだろうか。

 

もし、すべての有権者の見識を信頼しているにしても、システムを信頼していても、またその両方でも、言わずもがなである。有権者は絶えず、情報を吟味し、考え方を修整しなければならない(なぜなら、考え方が全く変わらない人も変だし、変わってばかりの人も変だと思うから)。また、選挙制度も見直さなければならないと思う。ここで、こんなことを書いているのが虚しいが、選挙制度はいつかは変わるに違いない…。

 

正直に言って、私には現在の選挙制度や有権者の見識に疑義がある(自分の見識だって疑わしい…)。

 

現時点での私には、これ以上、民主主義を詳細に論じる知識はないが、その本質はシステムにあると考えている。ゆえに「有権者は時にして馬鹿にもなる」と断じたい。そして、そのような時でも国家として方向性を誤らないよう、かつシステムが機能不全に陥らないよう、システムを修正し続けなければならないと、人生経験上直感するのだ。

 

誤解を恐れずに言えば、我々国民の中には見識のある人ばかりではない。そのような市民によって政治家が選ばれ、その政治家が行政を行ない、その社会構造に問題が無いと思うなら、それは見えてないだけだ。また、何かによってバランスがとられているからで、政治家の力でバランスが維持されているのではないと思う。隣国は今、大統領の問題で大変な事になっている。私は、その問題を大統領一人の問題にしてはならないと考えている。つまり、政治家の問題にするのではなく、国家の統治機能のシステム論の問題、また市民(有権者)一人ひとりの問題、国家観にあると考えている。

 

今、日本人のみならずアメリカ人が、韓国大統領の例を他人事と一蹴しても良いものだろうか。おそらく、日本人は「我々の先人は優秀で、隣国とは違う」と考えていると思う。しかし、韓国のみならず日本や他国にも、組織の統治機能の問題があるはずだ。ただ、それらは真剣に考え、感じる力がなければ解らない事なのだろう。

 

組織の統治機能の見えない劣化や瑕疵が、見える形で現出するのは、明日かもしれないと思っている。また、その見えない問題を見えるようにして行くのがメディアの役割では無いのかと思っている。

 

私がここで危惧するのは、トランプ氏のことではない。日本人の楽観的思考パターンが心配なのだ。もちろんプラス思考は大切ではあるが、余りにも外にも内にも楽観的すぎるのではないだろうか。

 

 

終わり〜気が向いたら、続きを書き記したい。

 

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2016年11月18日

増田流・極真空手の中心的概念〜応じ/ 稽古日誌 11月17日

テーマ:稽古日誌

空手についての雑記です。小難しいけど、掲載しておきます。うざいですね…御免。

 

【増田流・極真空手の中心的概念〜応じ/稽古日誌 11月17日】

 

 

だめだ。

上手く指導できない。

道場生を励まそうと道場に向かったはずなのに・・・。

色帯には優しくできる。しかし、茶帯以上になると・・・。

というのも、上級者が私の最も重要にしている理合を理解していない。

 

私が最も重要にしている理合とは何か?

それは「自他一体」の理合である。

その理合を子供にも解るように平たく表現した時、「応じ」となる。

「応じ」をさらに子供向けに言い換えれば、「受け返し」となる。そのように伝えれば、「ああ受け返しね…」と理解する道場生がほとんどだが、それでは浅すぎて、応じの概念が伝わらない。また、結局は「応じ」のみならず受けも返しの技も身につかないのが落ちである。

 

あえて混乱を招く言い方をすれば、応じを換言すれば、コミュニケーション、すなわち自他への応答と言っても良い。

 

本日の稽古時は、「応じとは相手の攻撃を防御し、間髪を入れずに反撃すること」と、私は道場生に、最低レベル(低い次元の考え方だが基本として認識しなければならないこと)の定義を伝えた。これまで何百回と話し、書いただろうか。それでも残念ながら,伝わらない。短気を起こせば、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」という気分になる。実際そうしたいが、そこを踏み止まっている。なぜなら、増田が諦めれば、自分が信じた極真空手は単なる幻想、妄想で終わり、今後、どんどん質的低下が進むだろう。断っておくが、私の若い頃の極真空手が素晴らしかったと言いたいのではない。まだまだ、進歩、発展を続けていかなければ、極真空手に人生を賭けた甲斐がないと思うからである。さらに自分の中には、まだ身体で表現できる芸術的な能力があると信じているからだ。しかし、それを未だ表現できていないことの焦りが、心と身体を蝕んでいる。

 

実は、本日の稽古中に伝えた「応じ」の概念には普遍性があると思っている。例えば、ボクシングやレスリング、また柔道などの格闘技、さらにはサッカーやラグビーのボールゲームなどのスポーツまで通底する勝負の理合だと考えている。

 

少し脱線すれば、その理合感覚の萌芽は、勝利のため、非力で未熟な自己を最大限に生かす道を追い求めた過程にあった(詳しくは自著に記した)。私は、自身の仮説を試合を実験として証明しようとした。極真空手という競技とは言えないような特異な実験環境では、現出が困難な感覚であったが・・・。ゆえに極真空手の競技環境では失敗を重ねた。数十年も掛かけて日本一を認めていただいたが、御陰で、仮説が証明されない理由が明確になった。しかし、競技による修練では困難なことを100人組手で試した。その体験で極真空手の競技に足りない感覚が何であるかの確信を得た。しかしながら、それでも不充分である。格闘技術は多様であり、それらすべてに通底する普遍的な感覚を私は探求し続けている。その研究のプロセスにフリースタイル空手プロジェクトがあるが、その意義と成果を得るには、まだ時間が掛かりそうである。

 

「応じ」の話しに戻せば、先日のサッカーの日本対サウジアラビア戦を参照にして欲しい。サッカー評論家たちは、日本のカウンター攻撃が良かったと報じていた。私も見たが、カウンターとは本来反撃のことである。サッカーでいうカウンターとは、まさしく防御から間髪を入れない反撃のことを意味するのだと私は理解する。武道ではそれを応じ技というのだ。そして、さらに高いレベルの応じになると、クロスカウンターということになる。つまり、サッカーでもラグビーでも相手の仕掛け(攻撃)を時にブロックし、時にボールをインターセプト(奪い)、瞬時に相手の死角かつ自己に優位な位置を確保(奪取)しつつ攻撃を加えていくことが、最高の防御法かつ攻撃法なのだ。それをカウンター攻撃といい、応じと言っても良い。アスリート(競技者)は、そのような応じを行うために、フィジカルを鍛え、連携力(組織力・チーム力)を鍛えるのだ。さらに個別の技術(防禦技術・攻撃技術)を磨き、一人ひとりの心眼(予測力・洞察力)を磨くのである。

 

さらに補足を加えれば、そのような応じ(カウンター)の能力を身につけるには、そのような世界認識(大局観と戦略的視点)が必要である。そして、負けるのが嫌いで勝ちたければ、泣きながらでも、その能力を鍛え磨き上げるという意志を持ち、努力を続ける必要がある。

 

さて、私の稽古指導法では、組手稽古の基本を約束組手(組手型)による応じの型の反復から始まる。その基本の型をある程度理解してから組手稽古に入るのが、私の40年以上も続く組手稽古の基本形である。

 

約束組手は、長年の組手経験と研究で、100種以上あるが、本当にしっかりとやらなければと思う約束組手は数十種であろう。しかも、重要なのはその型の全体的な形(動き)では無くて、その動きを支えているような見えない技を体得する事である。その部分を認識する事が一番難しい。残念ながら、そこを認識している人間は一人もいないのではないかと思える位だが。

 

道場生は、約束組手であらかじめ、将棋の手筋のようなデータをインプットし、それを素に将棋やチェスのように組手稽古を行う。そしてその組手稽古によって応用変化的なデータべースを蓄積し(今話題の AIのディープラーニングのようなこと?)、かつその活用(判断と選択)の回路、システムのようなものを一人ひとりの身体に構築していくのが、私の組手理論である。また、現時点では秘密だが、実験中の理論と組手法がある。それはこれまでもそうだったが、すぐに真似されるので、伏せておきたい。ただ、その真意は、もう少し実験を重ね、その効果と再現性が保証できるようになったら、発表したいということである。

 

研究と発表のためには、まずは増田道場、研究科の開設だが、それと同時に優秀な生徒(研究者兼被験者)の確保が必要だ。

 

しかしながら、これまでも、蓄積してきたデータベースの10分の1も伝えられていない。その理由は、極真空手の組手法を堅守しなければと考えてきたからだ。また、そうしなければ、道場生が混乱すると考えたからだ。

 

ゆえに、私は独自で稽古するしかない。また、研究と優秀な人材の確保を目指し、なけなしの資金と労力を使い、ボクシングジムの経営までしたことも過去にはあった。その目論見は失敗したが、ボクシングというスポーツは素晴らしいと今でも思っている。また、それによって得られる身体感覚は武術に有用なものだと私は確信している。

 

私の極真空手は、空手の技術に様々な格闘技術を融合させている。だた、それを道場生に伝えるには組手法を変えなければ、困難だという現実に直面している。

 

その現状を打破するために、フリースタイル空手という組手法、スポーツを創出したが、資金不足などの理由により、休止状態である。

 

ただ面白い展開として、伝統空手がオリンピック種目になり、その流れで、フルコンタクト空手団体と伝統派空手団体の協調路線が敷かれた。私は、予てから寸止め空手の組手法とフルコンタクト空手の組手法の併立稽古を行うことが可能だと思っている。さらに僭越だが、少しだけ稽古方法を改良すれば、伝統空手の人気が高まる可能性があるとも思っている。

私は寸止め空手の経験者かつ理解者の立場で、そう考えている。

 

しかしそれには、教科書を作り直し、稽古法を変えなければならないだろう。現在は、伝統的な古い教科書を使い、稽古法は伝統式に増田流のメソッドを加えた改良型稽古法である。しかし、さらに工夫が必要かもしれない。因みに、私が伝統的な稽古を採用するのは、伝統を捨てたくないからである。

 

最後に繰り返すが、「応じ」の究極は、外部の刺激から自己を守ると同時に、その刺激を活用し、自己の最善の反応を引き出すこと。言い換えれば、他者の攻撃を弱体化、無力化、あるいは活用し、自己最高の攻撃を引き出すことである。

 

その概念からすれば、敵を必ずしも傷つけることが最高の攻撃(反撃)とは限らないのだ。敵と自分がお互いを承認し合い、自己を最高の位で浮き立たせること。増田が考える武道空手の究極の哲学がそれだ。

 

今、ものすごく息苦しい。誰も私の世界観を理解していないだろうと思うと。しかし、嘆くのは止そう。全ては妄想である。

 

ただ、私はその妄想が真理かもしれないと思っている。ゆえに、もう少しだと言い聞かせ、研究をしていこうと思っている。空手以外では、私の考える道理が当てはまるのがよくわかる。しかし、空手の世界の人たちはそれを認めない。問題はそこである。

 

 

2016/11/19 一部加筆修整

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2016年11月12日

もし感謝を忘れれば…

テーマ:心に響いた言葉

感謝 

 

11月6日、体調が少し良いので、書斎の整理をしていたら、メモ用紙が見つかった。そのメモ用紙には以下の言葉が書き記してあった。

 

「自分を信じ、感謝を忘れないこと」
「絶えず感謝を忘れなければ、八方拡がる」
「もし感謝を忘れれば、八方塞がる」
2001年12月29日に記す。

 

この年、若手起業家の集まりで、同郷の先輩との出会いがあった。
 

先輩といっても初対面である。私は、その人が何をしているのか聞くのを忘れた。
 

異業種交流の場なのに、職種を聞くのを忘れるとは、いつものことながら、ボケボケしている。そもそも、私は人付き合いが苦手だ。そんな私が、極真会が分裂後、独立独歩の道を選択し、これからは色々と学び、そして仲間を増やさなければと懸命だった時期である。

 

その人は金沢の出身で私より3〜4歳年上だったように記憶する。正直、怪しい感じだった。しかし嫌な感じの人ではなかった。むしろ良さそうな人だったが、私はすぐにアンテナが立つ(そのわりには、時々変な人が寄ってくる…特に若い時はそうだった、私のプライベートを知っている人には、お前のどこにどこにアンテナがあるのだと突っ込まれるに違いない)。言い換えれば、気難しく、人付き合いが下手だということだ。連絡先ぐらい聞いておけばよかった。

 

実際、変な人だった。初対面の私に前述の言葉を残し、その会合を一瞬で後にしていた。その後、その人とは二度と会うことはなかった。

 

狐につままれたような感じだった。その人は、同郷のよしみか、私にだけ、そんな言葉を残して去っていった。

 

私は、その通りだと思い、その言葉を忘れないようにと書き記したのだった。しかし、ここ数年、その言葉を忘れていたように思う。これまで感謝は当然の事だと認識している。しかし、感謝とは認識の基本である前に、心身の深奥から湧き上がってくる感覚ではないかと思う。最近、そのような湧き上がる感謝の感覚がなかったかもしれない。

 

いつか修行の旅に出たい。そして、心身の奥底から感謝の感覚が湧くようにしたい。

 

 

 

 

 

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2016年11月10日

不躾ですが…気分が悪い

テーマ:コラム

【不躾ですが…気分が悪い】

本日は気分が悪い。それは米国大統領選の賭けに破れたからである。賭けというと、不謹慎だが許してほしい。しかし、最後の最後で自分自身の中から「祈り」が湧出してきたので、良かったと思っている(なんのことか意味がわからないかもしれない…御免)。

 

今回の大統領選、理論的かつ直感的には、トランプが勝つと予想していたのに、木村太郎氏と橋下氏が、トランプが勝つと予想していたのを聞いて、私は直前に予想を変更し、トランプ氏にかけるのをやめた(私は世間の予想がトランプ氏に傾いていると早合点すると共にかけるのが嫌になった)。

 

【マスメディアも悪い】

マスメディアも悪い。ヒラリー氏が、こんなにも嫌われているのを報道していない(民主党も解っていない)。もしかすると、マスメディアもヒラリー氏同様、市民が嫌うべき対象、エスタブリッシュメントの一員なのかもしれない(しかし、それを自覚していないところがタチが悪い)。一方、トランプ氏に関しては、視聴率を稼げるからか、まさかアメリカ国民がトランプ氏を選ぶとは思っていなかったのか、取り上げ過ぎである。

 

私はトランプ氏がバカだとは思っていないし、有能だと思ってはいるが、やはり良くない。なぜなら、トランプ氏のような候補者が勝つと、勝つためには、どんなことを言っても良いと思う人が出てくるのではないかという危惧があるからだ(それも言論の自由、そして民主主義??)。

 

ここでは名前は挙げないが、どんなに政策面で良いことを言ったとしても、敵を罵倒したり、人格を貶めるような誹謗中傷を安易にする政治家、人間が私は嫌いだ(それを正直者だと思う者は相当に頭が悪い人間だ…御免)。また、勝てば官軍とばかりに、勝利を優先し、戦いかたを選ばない政治家、人間も嫌いだ。そんな政治家、人間の末路はしれている。

 

【一番心配していること】

私は今回、嫌悪感と共に一番心配していることがある。それは、将来ある若者が、トランプのような勝ち方でも勝ちは勝ちだという、そんな考えを容認していくことだ(もしかすると、これが民主主義の最終形なのだろうか…)。

 

振り返れば、世界中に16億人以上もいるイスラム教徒を、十把一絡げにして罵倒して良いわけがない。人間は同じ部分もあるが、一人ひとり異なる部分もあるはずだ。同じ面を大事にし、かつ、違いも生かしていくのが、これからの人類の方向性だと思う。

 

【グローバル化には賛意と疑義が半々】

また私は、グローバル化には賛意と疑義が半々だ。前提として、グローバル化は好むと好まざるに関わらず、拒めない流れだと思うということだ。もしそうならば、それを受け入れながら、地域の充実を図ることが賢明なあり方だと思う。

 

また、グローバル化の良い面を挙げれば、前時代からの懸念材料である、宗教や文化の違いによる衝突を回避する方法が創発されるかもしれないということだ。あくまで私の予測であり、妄想と言われるかもしれないが。

 

【マスメディアの関係者に言いたい】

蛇足ながら、マスメディアの関係者に言いたい。今回の結果は、マスメディアの人間が、視聴率こそが全てだというが如く行動した結果として、生み出されたことではないのか。

 

また、木村太郎氏に聞いてみたい。「職業的直感ではなく、本当は、民主党とヒラリー氏がいかに嫌われているかを、事前に知っていたんでしょう」と。また、「どうして、米国がそんな状況なのかを、もっと日本の人たちに詳しく伝えないのですか」。さらに「その米国社会の構造的問題、機能不全を伝えるのが、日本の国益に適うジャーナリストの仕事なのではないでしょうか」と。格好をつけて、職業的直感などと言わないで欲しかった(社会問題はもっと真剣に扱うべきだ…先輩に対し生意気御免)。とは言え、多くのジャーナリストがクリントン氏の勝利を予想する中、木村太郎氏だけがトランプ氏の勝利を予想していた(絶対と言っていたように思う)のは、大した眼力である。他のジャーナリストこそ、何をみていたのだというべきであろう。

 

【良い面が出てくる可能性】

だだ、トランプ氏が大統領になり、良い面が出てくる可能性がないとも言い切れないとも思っている(非常に楽観的と言われるかもしれないが)。

例えば、民主党政権の政策にもよくないものもあったと思うからだ。特に中東に対する政策はよくないように思うが…。 それらの政策がトランプ大統領の下で見直されることは、良いことだと思う。それを小池氏同様と言ったら、小池氏は気を悪くするにちがいない。しかし、変化が必要だということは、私の感覚にもある。そういう意味では、トランプ氏支持の米国民の気持ちがわかる気がする。今後、日本国民が気をつけなければいけないのは、自由貿易協定と安全保障関係の政策であろう。

 

政策等に関しては、これ以上は素人なので自信がない。もし、私が職業政治家か国際政治学者であれば、1年間で精査するだろうが(時間がかかり過ぎか)。

 

ともあれ、どんなに悪いと思われる変化も、良いことに転じるきっかけになると思うからだ。あとは冷静に向き合い、対応を熟慮するしかない。

 

しかし、気分が悪い。時間ができたら、資本主義と民主主義について勉強しよいう。そうでないと、納得できない。

【民主主義とは何なのか?】

蛇足だが、今回の大統領選、民主党も状況判断が甘すぎたのではないか。例えば、民主党がヒラリー・クリントン氏以外の候補なら、勝利していたのではないだろうか。一方のトランプ氏も大統領にまさかなれるとは思っていなかったのではないか。自分のビジネスの宣伝になれば良いと割り切っていたのでは?ゆえに大胆に戦えた。言い過ぎか…。楽観的に見れば、これからは大統領らしくなるかもしれない。有能な面もある人のようなので。しかし、真に志のある人間が勝てない民主主義とは、一体何なのか?以上、少し感情的になって書いた。反省…。

 

 

 

 

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2016年11月08日

私のエネルギー源

テーマ:稽古日誌

【この人達に空手の稽古の楽しさを伝えたい】

 

私の道場には子供たちのみならず、中高年の方々が少なからずいる。

 

私も来年、55歳だ。道場生の中には、私より年上で、還暦(60歳)を超える方々もいる。

 

子供達から見れば、私も含め、もはやおじいちゃんだ。しかし、私の道場の中高年の方々は、皆元気である。否、元気な人しか稽古できないというのが本当かもしれないが‥。

 

極真空手の稽古は、地味な基本稽古も初めのうちこそしんどいが、慣れてくれば、良い体操になる。ただし、蹴り技は関節に負担をかけるので、少しずつ行うことが必要だ。

 

私はいま膝の具合が悪い。その原因は、10代の時に痛めた関節の経年劣化と下肢静脈の不良、加齢による筋力や柔軟性の退化だと思う。

 

身内からは、10代から20代にかけ、常人の数倍もの負荷を身体にかけたことにより、以上の結果を促進したのでは、と言われる。しかし、私の感覚では、身体の訓練をしなければ、中学生の頃に痛めたひざは、もっと早くダメになっていたであろう。

 

反省するとすれば、下肢の血管の機能が弱いことを踏まえ、下半身のオーバーワークを控え、休養の取り方を工夫するべきだったということだ。

 

私は現在、鍛錬ともリハビリとも言える稽古を続けている。その意味は、からだの機能を考え、それをより良く生かすことを考え、鍛錬をしているということだ。

 

そのような状況の中、ある変化が見られる。それは、元気な中高年の方々が道場に現れると、「この人達に空手の稽古の楽しさを伝えたい」「体をより良く生かす方法を伝えたい」と思うようになったことだ。

 

 

そのための基本的考えは、怪我はなるべく回避すること(怪我の回避には技術の習得が重要である)。また、少しずつでも良いから、身体機能が向上するように考えることだ。さらに、より長く身体機能が維持できるように、空手修練のカリキュラムの見直しをしている。

 

稽古後、中高年の道場生に、半分、冗談で言う。「皆さんは、私の研究対象です」「私は、皆さんがより良く身体の身体機能を向上させ、空手が楽しくなるように稽古プログラムの研究を行っているんです」「それが私の生きがいです」

 

それを聞いて、道場生の一人は、「どうぞ、研究材料にしてください(笑い)」と言ってくれる。

 

道場生の心と私の心が通い合った瞬間である。

 

【私のエネルギー源】

ここ数年、私の左膝を執刀してくれた、間瀬先生と、リハビリを担当してくれている佐藤先生に触発されて、バイオメカニクスや運動学等の勉強をしている。

特に、間瀬先生は、膝の名医であると同時に、スポーツ整形に関しての第1人者である。頂いた著書は、何度も見直し、勉強している。

 

頭もそれを空手理論に活かし、発表したいと思っている。身体の不調を初め、諸問題が山積している中での勉強は大変である。諸問題を早く処理したいが、もう少しかかりそうだ。

 

私のエネルギー源は、私同様の中高年の道場生の稽古をする姿だ。子供達も歳をとる。いずれは、我々と同様の年齢になるであろう。ゆえに私は、長く空手を続けられるようより良い変革をしたい。現在、アイディアがあり、実験中である。まだ発表できないが、私が指導している中高年には、その成果が現れ出してきている。その成果をしっかりと理論化し確立したい。私には妄想癖があるようだが、現在、そんな夢想をしている。

 

 

 

 

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2016年11月08日

米国大統領戦について一言

テーマ:コラム

11月7日(月曜日)

 

膝の回復は70パーセントぐらいで停滞している。もうこれ以上は回復しないかもしれない。さらなる劣化、悪化を防ぐために無理をしたくない。

 

今日は、血圧が正常なので、少し気分が良い(今日は上が120、いつもは80ぐらい)。調子に乗って一言述べたい(家族からは嫌がられている…)。

 

 

【米国大統領戦について一言】

そんな一進一退の毎日だが、いよいよ明日に控えた、米国大統領戦について一言。

 

私は、大統領選に関するニュースが流れ始めた時、トランプ氏が勝つかもしれないと考えていた。理由は簡単だ。トランプ氏のような変人が大統領戦を争うということは、よほど相手に問題があると考えたからだ。

 

世間では、トランプのことを批判しながらも、グローバル化の波に乗れなかった中間層からの支持など、トランプの優位点を挙げていた。とにかく私は、トランプ氏にどんな優位点があるとしても、この状況の最大の要因は、クリントン氏や現政権(オバマ政権)の不人気にあると思っていた。

 

こんな候補に苦戦するとは、よほど人気がないのだと単純に推測できるのに、あまりメディアはそこを丁寧に説明しない。

 

ジャーナリストの木村太郎氏は大統領選直前の米国を訪問したようだ。その訪米の様子をテレビ番組でみた。木村氏は、いち早くトランプが勝つと予測していたらしい。昨晩のテレビ番組では、「トランプが勝つ」と言い切っていた。その理由を数十年に及ぶ米国特派員生活とジャーナリストとしての直感だと言っていた。

 

テレビで見る木村太郎氏は、70歳を超えるのに気力がみなぎり、颯爽としていた。私は木村氏に尊敬の念を持ちつつ、同時に大統領選に関して、私も同様の感じをもっていたので、少し嬉しくなった。しかし、すぐに思い直した。

 

私は、父親譲りなのか(最近、そう思うようになった)、意外と賭け事が嫌いではないようだ。また、人と違う方にかけたくなる、天邪鬼的なところがある(本当はものすごく読んでいるのだが、いつも当たらない?)。

 

今日のテレビ番組でも、学者の三浦氏と弁護士の橋下氏がトランプ氏の勝つ可能性が高いという意見だった。その理由を橋下氏は、「ヒラリーは現状維持という考えで、アメリカを変えよう(良いように)という意志がない」というようなコメントをしていた。要するに、米国民は現状に満足していない人達が大勢いるのに、ヒラリーではそれらの問題解決に着手しないだろうとの見方だった。つまり、一方のトランプ氏は、リスクはあるが、それらの問題解決に向けた何かをやってくれるかもしれないという期待感を支持者に与えているということだ。

 

私は、橋下氏のいう通りだと思った。実は、私の親戚にアメリカ人がいる。共和党支持者だが、4年前から、オバマの政策に関して、本当に辟易しているようだった。もちろん、米国民全ての意見ではない。しかし、日本の旧民主党にたいする嫌悪感にも似た空気が、米国にもあると思っていた。また、先のイギリスの国民投票でも感じた、エスタブリッシュメント(既得権益者、権威を有する者を指す)に対する嫌悪感という空気もあると睨んでいた。それを私なりに要約すると、急激に進んだグローバル化によってもたらされた、社会の格差に対する不満。また、それ(グローバル化)を素晴らしいものと唱え、既得権益者を擁護するかのような民主党支持者に対する嫌悪感とでも言ったら認識間違いであろうか。私の直感では、今回の大統領選の中心は、移民の問題や経済の問題も含め、民主党(米国の)政策や理念、そして民主党のあり方へのNOなのだと思っている。そこへ持ってきて、米国民はヒラリーがあまり好きではない。また、「共和党にトランプとは別の候補者がいれば」という人もいるが、そうではないだろう。民主党の欺瞞(反民主党陣営はそう思っている)を叩くには、トランプ氏の持っている破壊力が必要だったのだ。そう多くの人が判断したのだ。その戦略が功を奏している(…かも)。しかし、うがった見方をすれば、全てはマスコミが視聴率のために操作しているような気もする(アメリカのみならず日本でもそうだ)。

 

ここまで書いてきて、増田もトランプが勝つと思っていると思われるだろう。正直に言えば、トランプが勝つように見える。しかし、私は報道をそのままに受けとっているわけではない。マスメデイアの人達には悪いが…。

 

私の最初の予測は、トランプの勝利だった。それはメディアの報道の影響ではない。あくまで米国の状況を想像しての上である。しかし、私は本当に天邪鬼だ。真剣に選挙戦を戦っている方々に悪いが、トランプ優位の中、あえてここで、ヒラリー・クリトンが勝つと予測したい。

 

現在、期日前投票が前代未聞の数で多いと聞いた(聞き間違いか?)。米国民は、「このままでは本当にトランプ氏が大統領になってしまう」「自分の判断が変わらないうちに、ヒラリー氏に投票しよう」「少しでも米国民の意思はヒラリー・クリントン氏にあると伝えたい」などの思いが現れているのだと、私は感じる。

 

【日本だったら】

日本だったら、ここまできたら空気と勢いに押され、トランプに傾くであろう。否、そもそも、こんな意見の対立はないだろう。民主主義が最も進んだ米国だからこそ、今、現実と理念(本音と建前とも言えるが)との間で必死に足掻いているのだ。

 

想像を絶するような厳しい戦いのようだ。繰り返すが、私は最初の予想を変更し、あえてヒラリー・クリントン氏に賭けたい。

 

【進んだ民主主義では】

私は、良くも悪くも、進んだ民主主義では、リーダーは人格者でなければならないとの意思が働くと考えている。そうでないのは、民主主義が進んでいない証拠だ。さらに言えば、それを否定するのであれば、進化し続ける民主主義を理解していないからであろう。

 

私は、米国は様々な問題を抱えながらも、まだ民主主義の最先端を進んでいると信じたい。また、米国民はこの戦いで大事なことに気がつくだろうと考えている。今後、ヨーロッパやアジアでも、官僚的で行き過ぎた社会システムや格差社会への不満への対応や閉塞感の改善を急がなければならないということを(おそらく、その解決策は資本主義を進化させたような新しい社会体制だろう)。また、民主主義とは何かを考え直すことになるであろう。現在、日本の識者は対岸の火事を見るような感覚で見守っている。私は、是非、今後の日本のあり方を考えるきっかけにして欲しいと思っている。また、世界中が共有できる価値観というものがあるのかないのかを考える、きっかけにして欲しいと思っている。オリンピックのあり方もそこに通じる。

 

蛇足ながら、私は民主党のサンダース氏のような大統領が趣味である。しかし、米国社会全体や国際社会への対応という点では、論外だったのだろう。

 

とはいうものの、トランプ氏は大統領になったら、現実的に行動し、日本と仲良くするかもしれないとも思っている。人は漫画的だと笑うかもしれないが、先のことなど本当は誰にもわからないのだ。そんな中、私は物事のほんとうの姿を見極めたい、同時に理想を思い描き続けたいと思っている。そして、日本において似たような状況になった時、思いだして欲しい。そして考えて欲しい。出来事のほんとうの姿を…。

 

 

 

 

 

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2016年10月02日

オリンピックについて一言

テーマ:コラム

オリンピックについて一言

 

 

小池新都知事のスタートダッシュは素晴らしい。

公約通り、都政の諸問題にスポットライトをあてている姿は、なんとも頼もしい。一方、諸問題の解決には至ってはいないことから、諸問題の処理を一つでも解決した時に、初めて評価を下したいとする人たちもいる。

 

ともあれ、私は小池新都知事の誕生には使命があると思っている。また、そのことをメディアを含め、我々市民(都民)がどのように受け止めていくかが重要だと思っている。その辺の考えは、時間がある時に整理してみたいと思うが、まずはオリンピックの問題について、少しだけ記しておきたい。

 

オリンピックの開催のための諸費用が数兆円にもなるという。

オリンピックの費用対効果については専門家ではないが、そもそも都民の税金を使い、開催するイベントである。都民にメリットがなければならないのは当然だと思っている。

 

また、私は東京オリンピックに賛同する立場であるが、税金を湯水のように使って良いとは思っていない。

【アスリートファースト】

勿論、イベントを行うには費用がかかる。また、オリンピックのようなイベントでは、かなりの費用がかかるに違いない。イベントを運営する、オリンピック組織委員会は、コンパクトシティを掲げて、東京オリンピックを招致したと言う。ゆえに現在問題になっている、準備費用は必要経費だと主張しているようだ。また、アスリートファーストを掲げ、より良い競技場の建設が必要だと主張する。

しかしながら、観客席を増やすことが、アスリートファーストのオリンピックに必要なことだろうか。私はアスリート達に必要なのは、選手達の強化費や全国のオリンピックアスリートを養成するための施設や競技団体改革の必要性だと思う。競技団体改革とは、ずいぶん不遜な意見だが、オリンピックアスリートを養成するのであれば、なんらかの形で国や自治体と連携することが必要だと言うのが、私の考えである。おそらく競技団体のリーダー達は、国や自治体に口出しをしないでほしいと言うだろう。それならば、各競技団体はオリンピックに勝る国際大会を独自で作るべきだと思う。私が言いたいのは、すべての団体が公共性を意識し、より開かれたものになることが、オリンピック憲章に沿う形だと考えている。

 

また、コンパクトシティーに関してだが、コンパクトシティという発想は、運営等の負担軽減が含意されている思う。

【持続可能性】

しかしながら、考えをまとめるにあたり、最も重要なコンセプトは、オリンピック自体の「持続可能性」だと思う。

先のリオもやっとの思いで、オリンピックを開催し、終了した。無事成功したと言われているが、収支や今後の経緯を見た上での検証が必要であろう。

 

最近、ローマがオリンピック招致の挙手を取り下げたと聞く。賢明な判断だと思う。乱暴な言い方をすれば、今のオリンピックを続けるとなれば、よほど資金のある国、自治体しか、オリンピックはできないと考えるのがまともな見方だ。また、「失敗の結果責任は皆で、成功した場合の評価は声をあげた者に」というような無責任なリーダーが主催するイベントということになるだろう。

 

勿論、オリンピックをやろうと言うリーダーが悪いといっているのではない。

オリンピックの意義や予想しうる問題点を、皆のこととして考えた上で、透明性をもって、市民に了承を得ること。また、予定や構造に瑕疵が見られれば、正直かつ迅速に改善できるような仕組みを作らないと、大変なことになる可能性が大だと言いたいのだ。

 

大げさに言うと、震災や経済恐慌など、起こっては欲しくはないことが、もし起こった場合を考えずにはいられない。先に述べた「持続可能性」というコンセプトは、なにもオリンピックだけのことに限らない。東京都という自治体、また日本という国家、さらに言えば、すべての国家運営(組織経営)の普遍的なテーマでもある。

 

【私の提案】

私の提案は、東京オリンピックは、国と東京都、東京という巨大な自治体と地方の弱小な自治体を結び連携する、新たなシステム構築の試金石とするべきだと考えている。また、大学の施設の公共性を高め、活用していくシステムの構築も有りだと思う。

 

少し脱線するが、スポーツも教育や文化政策の一環であるならば、スポーツ界と大学との連携の見直しも必要だと思う。異論は必至だと思うが、あえて拙論を提示したい。私は、今後の大学はより開かれたものになる必要があると思っている。つまり、若い一時期のためにあるのではなく、あらゆる年代や層の人たちのコミュニティーとなることが、大学という存在に消費される、国民の財(時間や金)を無駄にしない方向性だと思っている(それは学歴社会の見直しも含む)。

 

話を戻すが、オリンピックの持続可能性を考えた場合、まずは施設にお金をかけないことだ。それよりも、選手と観客の記憶をより普遍的なコンセプトで残すこと。また、より開かれた形でアーカイブできるように考えるべきだと思う。その点、ロンドンは十分に考えられていたと聞く。東京はどうだろうか?もしかすると、直前まで、東京になるとは信じてなくて、決まってから考えれば良いと思っていた?まさか、そんな行き当たりたりバッタリではないだろう。小池新都知事とメディアに願いしたいのは、本当の悪とは何かということを追求して欲しいということである。そして、悪が支配する世の中とならないようシステムの中に魂を入れて欲しい。勿論、答えは出ないかもしれないということも想定しながら。また、それがメディアであるという意見も排除しないで。

 

ただ「いつの時代も本当の悪は究明されない」というのが私の所感である。もしかすると、それが人間の知恵なのかもしれないが…。

 

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2016年09月25日

私が伝えたい事

テーマ:増田道場

 私が伝えたい事

(小難しいブログでごめん。具体的なことは著書で展開したい)

 

 

【駄目だし】

黒帯のみんな、集まってくれて、ありがとう。精一杯、気を配り、稽古をしたつもりだが、不十分だったと思っている。

 

心配しないで欲しいが、黒帯合同稽古の後、血圧が90を切り、ふらふらだった。膝の具合も悪い。私の下半身は、血流が悪く、むくみやすい。また、冷え性である。数年前に両脚の静脈瘤の手術をした。医師の話では、静脈瘤は遺伝的な影響もあるという。私なりの見解は、遺伝的な事に加え、若い頃の下半身への過度のトレーニングの影響があると考えている。また、その血流の不良が2年前に手術した、膝の回復を遅らせているようだ。現在、黒帯有志に、何かと助けてもらっているが、とても感謝している。

 

しかしながら、身体の不調は、そんな事だけに起因するのでないと考えている。体力の消耗と衰えに加え、精神的なダメージが追い打ちをかけているようだ。その原因は、私自身の他者への伝達力の無さに対する、自分自身の駄目だしである。それほど、駄目だしをしているなら、もう少し、コミュニケーション技術に改善が見られても良いだろうとの突っ込みがあるに違いない。確かに言う通りだ。しかし、言う程の改善が見られない。なぜなら、私自身が未熟かつ理想を絶えず追求している、発展途上の人間だからであろう。ゆえに現実とのギャップは永遠になくならないかもしれない。そんな愚かな考えゆえ、いつも焦燥感が私の中にある。

 

【黒帯稽古の目的】

さて、今回の黒帯稽古における私の目標は、組手技と組手に関する認識を道場生に伝えたいということであった。

 

その認識の核心は、組手の要諦は、組手技と組手に対する認識が全ての基盤になるということである。体力差はその認識に内包される事柄だ。残念ながら、現時点における空手に対する認識の伝達程度は、両者の間に大きな河が立ちはだかっているかのようである。

 

 

【河を泳ぐ力】

 

私の長年の苦悩は、その河を自分の道場生に泳いで、私の立っているところまで到達させたいとの思いに起因する。また、河を泳ぐ力をつけることが、真の修練であり修業なのだと、私は考えている。

 

 

私は長年、道場生に空手を指導してきた。中には一緒に泳いできた者もいたが、多くのものが、新たな陸地(ステージ)に立ったという事に満足しているかのようだ。新たな陸地に立つことに意義はあるが、最も重要なのは、我々人類が河を泳ぐ力を失わないということである。つまり、河を泳ぐとは、未知のことへの挑戦であり、その基本は自分自身の心身に、深く問いかけることである。さらに言えば、自分と異なる他者との間を泳ぎ、他者の心に到達するようなことでもある(そのような広義ののコミュニケーション能力の開拓が組手修練の最も重要な点であると私は考えている)。同時に、その経験を通じ、自分自身と言う事象を全身全霊で感じることだと言い換えても良い。陸地に立つとは、その経験を振り返り、検証する場、そして一休みの場のようなものだ。

 

断っておくが、あたらたな陸地・ステージに立たせるために無理矢理に河を泳がせる。そんな乱暴な指導をしてはいけないと思っている。また、私の泳法も優れたものではない。あえて言えば、自己流でひどいものだ。さらに泳ぐ体力も衰えてきている。ただ、未知の物事を開拓したいとの思いは強くある。

 

増田は一体なにを言いたいのだと、思われるにちがいない。私が伝えたいのは、新たなステージに立とうとする、積極性、好奇心、そしてフロンティアスピリットの重要性である。

 

【否が応でも】

人生において、河は至る所にある。また陸地もある。補足を加えれば、空手界のみならず、格闘技界、すべての領域の認識レベルが進化していると言っても過言ではない。そのような中では、その進化に普遍妥当性があれば、それは理論として教えれば良いのである。ここでいう陸地とは、人類の認識が結晶化された地点である。しかしながら、その結晶は日々変化していると思う。そのような現実の中、我々人類は、否が応でも新たな陸地、ステージ(進化)を目指さなければならないのだ。

 

【小さな河を泳ぐ事】

私が重要に思うのは、個々人が自身の人生の中、多くの河を渡って行く事で、自己が開拓されるという事実である。それが人生の価値だと、私は考えている。補足を加えれば、何も大きな河、激流の河を泳ぎきる事だけが重要なのではない。小さな河を泳ぐ事が重要だ。ここでいう小さな河とは、未知の経験という事だが、一対一の対人関係において、その間に河のような障壁があれば、経験を恐れずに、泳いで渡るような心構えと能力ぐらいは誰もが経験できる事だろうという事を含意している。また、全てを経験しなくても、すでに普遍妥当だと思われる事に関しては理解すれば良いだろう。ただし、「泳がなくてはならない時があるかもしれない」ということは、覚悟しておいたほうが良いと思っている。

 

さらに言えば、いきなり河に放り込むのではなく、プールを作り、そこで泳ぎを教えても良い。また、すでに普遍妥当性があることは、河を泳がせなくとも河に架橋したりして、立たせても良いのである。その架橋が理論や修練カリキュラムと、私は考えている。

 

少し整理すると、私は空手愛好者(道場生)を自力で河を泳げるようにすることと同時に新たなステージに立つための架橋が必要だと考えている。指導者がその事を意識し、斯界を変革すれば、斯界は自然と発展するに違いない。なぜなら、人類の進歩に必要な構造と合致しているからである。

 

ところが、斯界が発展しないのは、自身のステージ(立場)を絶対とし、そこに安住しようとする人達がいるからである。私は、そんな人間になりたくはない。

 

ここまで書いて、増田は難儀な奴だと、思われたに違いない。しかし、この未熟で愚かな私を、かわいそうだと思ってくれたのか、協力を約束してくれている道場生がいる。私が云う、架橋を手伝ってくれる者だ。私同様、世間では変わり者かもしれない(失礼)。それゆえ私達はシンパシーを感じている。

 

最後に、私がここでいう河を泳ぎ、新たな陸地(ステージ)に立つとは、組手技における身体操作や組手における、攻防の術に対する認識を変えることだ。はっきり言えば、ほとんどの極真空手家の認識が間違っていると、私は思っている。今のはやり言葉で言えば、「エビデンス(根拠)は?」と突っ込みを入れられるに違いない。もちろん、すべての極真空手家ではないとは思うが、斯界が変革されないところをみれば、そう思わざるを得ない。

 

具体的な事は、私と道場生との間の架橋ともいえる、空手道修練教本の製作を通じて、世に問いたい。

 

私は今、衰える身体をいたわりながら、最後にもう一度、仲間と共に空手道に賭けようと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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