スキピオ・アフリカヌス | しろグ

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本名はププリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。史上スキピオ・アフリカヌス、大スキピオと呼ばれる。第二次ポエニ戦役終期に現れて、ローマにとって未曾有の国難と言っても言いすぎではなかったこの戦役を終わらせた。

17歳の頃に第二次ポエニ戦役のティチーノ、トレッビア、カンネと、ハンニバルがその天与の才を発揮した戦闘に参加していて命からがら脱出。これらの戦闘の中で彼はカルタゴからやってきた風雲児ハンニバルの天才的な用兵を目の当たりにした。一連の戦闘で父と叔父を亡くした彼は26歳という年齢にも関わらず元老院の門を叩き、並居る有力者を説得して前執政官(ブロコンスル)という官職に抜擢され、軍団指揮権を得る。ローマでは執政官(コンスル)とこの官職、法務官(プラエトル)、前法務官(プロプラエトル)にしか軍団指揮権が認められず、これらの官職就任には40歳以上の有資格者という決まりがあり、これは極めて異例である。



スキピオの心情は果断速攻であった。即決果敢な行動力のみが彼の作戦を成功に導く最良の方法であり、その人懐こく人好きのする表情と物腰、礼儀正しく品格のある態度と怜悧な頭脳が、最初に戦地として選んだスペインでの戦功を約束した。カルタヘーナを陥落させたスキピオは街の長老から既に婚約者がいた娘を破談させスキピオに贈ったが、スキピオは「個人としてこれほど嬉しい贈り物もない。しかし戦争を続行中の司令官としてはこれほど困る贈り物もない」と言って、娘も、一緒に送られた金銀の類いも返した。カルタヘーナの街では、ローマ兵は1人でも夜間でも、丸腰で歩いても安全だったという。

スキピオとその仲間たちの世代は、ハンニバルから「フェアで通しても戦いに負けたら何にもならない」ということを最も素直に吸収したと言われる。スキピオは奇襲もかけ夜襲もかけた。意表を突く攻勢は、意表を突くという一点のみにおいても非常に有効だとされるが、スキピオは充分な準備と情報収集によって作戦を練り、兵士たちの士気を高め、最高のタイミングで仕掛けたという。歴史家ボリビウスは「あらゆる彼の行為は、完璧な論理的帰結をもっていた」と言っている。

第二次ポエニ戦役の白眉は「ザマの会戦」である。カルタゴ(現チュニジア)の内陸部で行われた対戦は、その後の地中海世界の将来を決したと言われている。そして、戦術上の師と弟子の対決である。同格の才能を持つ者の戦いというのは歴史上でも稀であるが、それよりも更に稀なのが、両将が会談を行ったことである。ボリビウスの記述を記載した塩野七生氏のこの場面を読むと、行間からお互いの才能を認め合い、敬意を抱き合っているのを感じ取ることが出来る。しかし交渉は決裂。翌朝を期してザマの会戦は始まることになる。カルタゴ軍50,000。対するローマ軍は40,000。

主戦力を非戦力化し、いかに効率良く敵を包囲して殲滅させるか。
アレキサンダー大王とピュロスに倣い、ハンニバルが有効性を実証したこの用兵は、スキピオが完成させたと言われる。結果はハンニバル側の戦死者20,000。スキピオ側1,500。ローマの完勝だった。この戦いをもって事実上第二次ポエニ戦役は終わり、後にローマとカルタゴは講和を結ぶことになる。ちなみに、この戦闘も現代の各国の陸軍士官学校の教材となっている。

その後、救国の英雄と讃えられ、「アフリカを征する者」という意味のアフリカヌスの尊称を与えられる。晩年に至るまで元老院の「第一人者(プリンチェプス)を勤めるが、弟のスキピオ・アジアティクス(アジアを征した者)が使途不明金の件で告発されたことに端を発して、大スキピオは失脚への道を辿る。ある日、いつものように護民官を始め告発者たちがスキピオに容赦ない追求を始めようとしている元老院にスキピオが現れ、言った。

「護民官諸氏、そしてローマ市民諸君。今日という日は、わたしがアフリカのザマで、ハンニバルとカルタゴ軍相手に闘い、幸運にも勝利を得た15年目と同じ日にあたる。このような記念すべき日には、争いや反撥はひとまず忘れ、神々に感謝を捧げることで全員が心を一つにするよう提案したい。わたしはこれからカピトリーノの丘に向かう。あそこに祭られている最高神ユピテルとユノー女神とミネルヴァ女神を始めとする神々に、わたしと、あの戦役を闘った全てのローマ市民に、祖国ローマの自由と安全のために力を尽くす機会を恵んでくれたことを、感謝したいと考える。諸君も、よかったらわたしと行をともにしないか。そして、わたしとともに、神々に感謝して欲しい。なぜなら、ローマ市民である諸君こそ、17歳であった当時から老いたこの年まで、わたしが充分に能力を発揮できる立場を、特例まで作ってわたしに与えてくれた人々でもあるのだから」

若かりし頃と違い、禿げた頭に痩せ細った身体をトーガに包む彼だったが、その彼に向けられた市民のひたむきな敬愛の念は、凱旋将軍だった頃の喝采や花々より、より名誉に満ちたものだっただろう。歴史家リヴィウスはそう書き、最後をこう結んでいる。「この日が、スキピオが燦然と輝いた、最後の日となった」。

その後もスキピオ弾劾は続いた。それを止めさせたのは若い元老院議員のグラックス。彼は、議員たちに、スキピオへのこれ以上の追求をやめるように言った。

「神々より守られて祖国のためにあれほども偉大な貢献をなし、共和制ローマでは最高の地位に登りつめた人物が、人々から感謝と敬愛の念を捧げられた人物が、今、被告席でさらし者にされようとしている。演壇の下の席に引きすえられ、彼に対する弾劾と非難を聴くように強制され、心ない少年たちの悪罵さえ浴びようとしている。このような見せ物は彼スキピオの名誉を汚す以上に、われわれローマ市民の名誉を汚すことになる」

スキピオ弾劾はやみ、彼はローマを離れてリテルノの別荘で暮らす。そこで52歳で死去。同じ年、ハンニバルも黒海沿岸のビティニアで死去。64歳だった。スキピオを毅然とした態度で弁護した若き元老院議員グラックスには娘を嫁がせたが、この夫婦から生まれるのが、史上有名なグラックス兄弟である。

※参考文献:塩野七生著『ローマ人の物語2 ハンニバル戦記』(新潮社)