日の丸発祥の地 その4  日の丸が黒丸に・・・ | masa-Le Mans

日の丸発祥の地 その4  日の丸が黒丸に・・・

 日本の国旗は、世界に誇れる最もシンプルで美しいものですが、時代に生きた先人が1歩間違えば、いまの日の丸でなく「黒丸」となった可能性があることを知りました。




日の丸の成り立ち(筑穂町商工会資料)


 わが国の国旗(日本国総船印)として、日の丸が制定されたのは安政元年

(1854年)7月11日時の副将軍 徳川斉昭(なりあき)の時この頃日本は、ペリーの再来、日米和親条約、日露和親条約の締結など国際的に多難なときであった。


 幕府はこのような外交交渉のため日本国を象徴する旗印を必要とした。


 そこでその国旗として日の丸を制定するよう幕府に建議し、努力したのが薩摩藩主 島津斉彬(なりあき)公であった。



日本の国旗



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 斉彬公は、たまたま天守閣の四角の窓に昇る太陽を見て「これぞわが日出る国の み印なり」と思ったと言うことである。


 安政2年2月 薩摩藩が幕府に献上するため江戸に向わせた日本で最初の様式軍艦「昇平丸」のマストにはわが国最初の日の丸の国旗がひるがえった。



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      様式軍艦 昇平丸


昇平丸


日章旗制定と島津藩


                                     綿島一彦氏著から


 島津斉彬は当時の外憂に対し安静3年正月すでにすい軍隊創設を命じ、防御の要は大砲と軍艦にあるとした、島国のわが国は英国と同じよう、これに劣らざる海軍を持たねば自国の防備はできない。日本中の造船を引き受け、航海術も日本中の師範となるまでに修練せねばとの志があった。


 嘉永5年島津斉彬は幕府に対し帆船12隻気船3隻の建造を願い出たとき「船の旗章はすべて日の丸を使いたい」と加えたが幕府は船の建造は許したが、船章については追って指示すると留保にした。国旗制定についての建議はこれがわが国最初と言われている。


 更に安政元年 斉彬は江戸にて老中安部閣老(正弘)との対面の折、昨年願出の日の丸旗の件について問うたが、閣老は幕府の議いまだ決定しないが日の丸旗章は適当なることを語り、かつ雛形の提出をもとめた。


 斉彬は藩士井上庄太郎と肥後七左衛門の2人に日の丸の旗の雛形大小4通を作らせ、その中より2つを選び渡した。


 安部閣老よりその後数日して返事が来たが、「各国の旗章に類似もなく弁識も宣しかるべしと申し立て、雛形を上様に言上したので遠からず御発表の運びになるべし云々」とあった。


 日章旗案を提出した斉彬は、かくして阿部閣老の同意を得、更に徳川斉昭、徳川慶勝、伊達宗城、鍋島斉正等の賛同を得た。  


 しかし幕閣有司の中には多少の意義もあり、日本の総船印に中黒を用いる幕府の旗には従来のごとく日の丸を持ちうるべきだと日章旗説を否定する議論が多数を占め阿部閣老は結局これに抗しきれず幕府内の統一意見として「日本の総船印は中黒にし、白と紺の吹き抜けをつける、幕府の船は日の丸ののぼりにする。諸藩はそれぞれの家紋(島津の場合は丸に十の字)をつける」というものとした。


 しかし、この幕府案を水戸老公斉昭に相談すると一言の元に「いかん」と黒丸国旗をはねつけ閣老に反対意見をだし「中黒丸は、そもそも源氏の旗印である。 これをもってわが国の旗とし、また日の丸を幕府の旗とすることはできない。  

 日本の国威を現す日の丸を我が国の総旗章にし、中黒は幕府にせよ』と安部閣老に再検討を迫った。 


 この議論はかなり激しく続いたが斉彬・斉昭および前述の諸大名等の賛同と反復意見により幕府もついにこの説に従うに至り安静元年7月11日、日章旗をもって日本国総船印とすると下記のごとく全国に布達した。 



 『大船製造については異国船に不紛様日本総船印は白地の日の丸織相用候 ただ公儀御用船は白絹布交の吹抜中柱へ相立帆の儀は白地中黒に被仰付候 條諸家に於いても白帆は不相用遠方にても見分かり候 帆印銘々勝手次第相用可申候、尤も帆印並びにその家の船印をも兼ねて書出置候様可被致候右大船の儀平常廻米其他運送に相用候 儀勝手次第に候へ共出来の上は乗組人数並に海路乗筋運送方等猶取調可被相伺候』


と、ここにおいてイギリス、オランダ人をして当時世界一の旗章と激賞された日本の国旗が定まったと言える。


 翌安政2年2月13日薩摩藩が幕府に献納した昇平丸が錦江湾を出航して江戸に向ったがこの日本最初の様式軍艦は、また日本初の日の丸の国旗を鮮やかにはためかせていたと言う。


 更に明治3年正月27日、明治政府は大政官布告を持って『国旗日の丸』の正式を定めたのが現在の国旗である。


 島津斉彬を祭神とする鹿児島市照国神社では、現在でも7月11日を記念して祭典が行われている。


                                                           以上



 日の丸の茜染から日章旗の成り立ちまでをつづりましたが、今回で終了します。


資料を提供してくださった筑穂町商工会様ありがとうございました。

原文をほとんど掲載しましたが、若干異なるところがございます。お許しください。