時空間で生まれるものは、何ものであれ時間を超越することは出来ません。時空間から発生するものは何であれ、破壊される運命にあるのです。物質も非物質も等しく悲惨な最期を迎え、永遠の時を勝ち取ることなく、消滅してしまうよう運命付けられているのです。

生と死の循環が成立しているということは、人類がこのユニバースで孤立している、という証なのです。孤立無援で繰り返される誕生は、絶え間なく死滅への一途を辿る一方で、死からは無限に新たな生命が誕生し続けるのです。

人間にとってこの儚い人生は、不当で不毛な果てない戦いだったのです。
生をもってして、死をもってしても、時間に打ち克つことは出来ないのですから。
時空間における人生の「非永続性」は、決して克服出来ないのです。

これこそが、私たちが住まう世界の実相なのでした。私たちは、絶えず死と生を繰り返し、自ら非永続的な世界を生成しています。必然的にこの世では、私たちが「永遠」と呼ぶ、終わりも始まりもなき至高の存在形態は実現出来ないことになります。

人間は「永遠」を確立したいのです。自らを不変の恒久的存在とならしめたいのです。
しかも、人間は、「永遠」とは<無限大に続く変化>を意味するのだ、ということが理解出来ないでいます。

たとえ自分自身の存在を永遠に残すことが出来ても、それは不死には繋がらない、ということに気付かないのです。そんなことをしても、不朽の命を得ることなど出来ません。むしろ、そんな行為は記憶喪失を招き、消滅の運命を決定付けてしまうのですから。

不死とは、人間が考えているようなものとは全くの別物だったのです。

私は理解しました。<絶対意識>に浸透出来ないうちは、私たちは苦しみ続けるだろう、ということを。母型の意識に立ち戻れない限り、人間は死を夢見続けるのです。

私たちの虚構の人生にも道があるとはいえ、本物の人生の旅人はその道を歩みません。
私たちの儚い人生にも創造の機会が設けられていますが、本物の創造者は、そのような機会を利用しようとはしません。

悪と苦しみの根源は、私たちの内面にあるのです。儚く非永続的なものに永遠の命を求めるような不毛な行いから、悪と苦しみが生じてしまうのです。

非時間は、内在的であり超越的です。昼と夜、善と悪というような二元的な思考しか出来ないうちは、私たちは苦しみと死の幻想の中に生き続けることになります。
それは、私たちが空虚な存在になる、ということに他なりません。

”私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい”と、かつて一人の神人が語りました。この「父」とは、私たち人類が離別したと勘違いしている「至高の意識」を意味していたのです。

「地球<超>アンダーワールド<内部次元>への侵入」 マオリッツオ・カヴァーロ