周波数下降この世自分。その状態で洞察。
やはりこの世自我の時は精神の話は通らぬ。周波数が異なるゆえ何を聞いたとしても焦点不能。どころかこの世意識は揚げ足を取ろうとする。

それはワルイことではない。必然仕方のないこと。
この世意識オンリーでの人生をイメージしてみると、まさにそうならではのこの世人生。

くだんの会話も楽しい息抜きであるし、美味しいものは美味しいし、周りはよく見えるし、自分のことに夢中になれて~。しかしそれはまあ子供の世界。

自分が子供のままずっと生きれるとしたらどうか?。イメージするだけでも楽しいわな^。
しかしそれでも意識の道を取るという選択結果になる。

他の自分のありようはないのか。。あれやこれや思案して結局、他人がどう見ていようと思っていようとこのままでよいとなる。

この自分というのもたしかにひとつの選択。
しかも決定的。

それは意識の道というこの焦点のためのものであったわけで、自分というこの個性や性質の型で他のありようをいくらイメージしても、そこに至る道はなかったことが判る。

人生とは自分という「型」の結果。
それは意思によるものでも何でもない。もっと以前にある決定的なもの。

型とは焦点に向かうための必要道具。

誰しも今ある自分というのは自分の選択の必然結果。
その選択の基準は焦点。それが何であれ。

但し、型の表面には出て来ていない「素養」という自分が選択しなかったものがある。
しかもこの世離れという意識の道がこの世人生最後の焦点であるわけゆえ、比重的に他のことがやりたい焦点を持っていても、焦点秩序の上で最も高いその焦点が何処かで顔を出す。

ジブンというこの世自我の人生部分と意識の人生は別物。それぞれ別の世界~周波数。
この世にある間はその両方を生きれる。