日本世間学会で発表して(学会の印象と「二人称性」をめぐる質問など)
前々エントリでも触れましたが、7月2日(土)に第25回日本世間学会で、
*****
PTA問題と日本語の中に見られる「二人称性」
-主体性と公共性の希薄さ-
*****
という題目で研究発表しました。
新参ものでしたが、総会後の懇親会と二次会、三次会にも参加してきました。
参加者は40名ほどの集まり(会員はもっと多いそうです)でしたが、年齢的には大学生から相当年配の方まで、職業としては研究者、教師、技術者、漫画家、ビジネスマン、自動車会社のデザイナー、僧職、医師等の、まことにバラエティに富んだ集まりでした。
(教育学者の方もおられ、カワバタさんの『PTA再活用論』のあとがきに紹介されているヒト会員・サル会員・キジ会員・イヌ会員の話に言及されていました。日本以外の保護者組織のこともお詳しそうだったので、今度ぜひお話を聞いてみたいと思っています。)
いろいろな方がいらっしゃったわけですが、共通して感じたのは、日々を過ごしているそれぞれの足元を「世間学」に照らしつつ見ていこうとする姿勢。
日々の生活に埋もれず、でも浮き上がりもせず。生活しつつ考える。考えつつ生活する。
このような姿勢は、職場や私がこれまで属してきた日本語関係の学会には感じられなかった雰囲気で、とても居心地がよかったです。
(追記) 世間学会の目的(その3)には、
**
なによりも大事なことは、「隠された構造」である世間を対象化すること。つまり自らの存在(実存)を対象化しうるような内容をめざす。
**
とありますが、私が魅力を感じたのは、みなさんの「自らの実存を対象化しようとする姿勢」だったと言えます。
「世間学」や阿部 謹也氏を絶対視する姿勢は感じられず、むしろ相対化していこうとする姿勢が感じられたのも気持ち良かったです。
以下、いただいた質問、ご指摘等を紹介していきます。
発表題目にある「二人称性」というタームについて、石川県のHさんから、次のような質問をいただきました。
*****
日本型PTAや日本語においては主体性と公共性が希薄であり「二人称性」が濃厚である、との主張であるが、PTAに入るかどうかを決める時に、「もしも入らなかったらどう思われてしまうのだろう?」と、その人が頭に思い浮かべる近所のあの人やこの人のことを「二人称」と言っていいのだろうか? むしろ、その場にはいないのだから、「三人称」なのでは?(要約)
*****
当日お答えしたこと(あるいは、お答えしようとしたこと)は、以下のようなことです。
その指摘は、森有正の言う「二人称性」というタームの今一つクリアでないところ(そしてそれを再定義することなく使ってしまっている私の論の弱点)を突いていると思います。
森も、自分の言う「一人称・二人称・三人称」は普通に文法で使われる用法とは同じでないとは述べています。
(「ただここで是非言っておかなければならないことは、ここで言う一人称、二人称、三人称ということは、規範文法におけるそれらとは直ちに同じではないということである。」(『経験と思想』p.122~123))。
つまり、「今話している当面の相手」という意味での狭義の「二人称」とは違い、もう少し広い意味で使われている。
しかし、では、通常の「二人称」とはどのように違うのかが今一つクリアにはなっていない…。
森の言う「二人称(性)」とは、自らとは切り離された「他者」であるべき存在が容易に自らと結び付いてしまい、その思考や判断に甚大な影響を及ぼす。そういうことが双方で起こるという、二者間の関係性を問題にしたタームだと言えます。もう少し言えば、切り離されてあるべき「他者」の「他者性」(三人称性)、自らの「主体性」(一人称性)が弱くなり相互に接近・癒着してしまうことを「二人称(性)」という【ことば】で表現しようとしたのだと思います。
「二人称性」とは、よりクリアに表現すれば、「主客融合性」と言うべきなのかもしれません。
「二人称性」などと言うよりも「主客融合性」と言うべきだというのは、里山たぬ子さん(ツレ)のかねてからの主張でした。しかし、どうも私的にはそんなにすっぱりと言いきっていいものか、抵抗がありました。
しかし、Hさんのご指摘により、踏ん切りがついたように思います。
しかし、私自身、このあたり、どうもまだもやもやとしたものがあります。
近いうちに、森有正の言っている「二人称性」について、もう一度森のテキストに添いつつ整理してみたいと思います。
(追記)日本人における「主客融合性」については、世間学会「呼びかけ人」のひとりである佐藤直樹氏も、『「世間」の現象学』(青弓社)第2章、第6章で問題にされている。(佐藤先生、その節はお世話になりました。)
なお、三次会にて、H社のAさんは、私の言う「だから」の情意表出的用法にとても興味を持ってくださり、
「そのような用法が存在することは指摘されればわかるし、自分も今も現に使っているけれども、そのような用法があることを自分がこれまで全然意識してこなかったこと、今も実感として、そのような使い方を『している』とは意識化されないことが本当に興味深い」とのお話でした。
Aさんとは、日本語の特殊性、日本社会・日本文化のあり方についていろいろと意見交換をすることができました。
町工場から世界的な企業に躍進したH社の「風土」(社内におけることばづかい、社員に求められるもの、上司と部下の関係等)についてのお話もとても興味深かったです。
この他にも、次のような、今後の考察のヒントになるようなお話や励ましがありました。いずれも私なりの「要約」であることをお断りしておきます。
・PTA役員をしたがる人は確実にいる。ただで飲み食いできるとかの不純な動機の人もいる。もう少しスケールの大きな「悪人」になると、現役の時は持ち出しにしつつ、後で
十二分に回収しようとする人もいる。地方ではまだまだ非民主的な風習が生きている。PTAの問題を考える上で、PTA役員が地元の有力者への大きなステップという側面は無視できないと思う。(元高校教員)
・保護者も教師の側も積極的に意味合いを感じられないながら、なぜかずっと続いてきている気がする。地域ごとに網の目が張り巡らされており、各地域持ち回りで役員や会長を分担していくシステムが出来上がっている。(中学教員)
・PTAは町内会で言えば、ゴミ出し当番のようなものではないのか。(元大学職員)
・自分はPTAは未経験なのだが、保護者にとって負担の多い仕事がなぜスリム化できないのか?不思議でしょうがない。(自動車メーカー勤務)
・自分はかつて会長を志願したが、すでに内定者(地元の有力者)がいて丁重にお断りされた。こういう人たちと交渉するときは、ニコニコ笑顔で批判を述べていくという「高等戦術」が必要なのでは。(歯科医師)
・日本語から日本の文化や社会を考えていこうとする視点は大切だ。(大学教員・「呼びかけ人」)
「そんなことは言ってないが…。」と心当たりの方は、コメントいただければ幸いです<(_ _)>。
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PTA問題と日本語の中に見られる「二人称性」
-主体性と公共性の希薄さ-
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という題目で研究発表しました。
新参ものでしたが、総会後の懇親会と二次会、三次会にも参加してきました。
参加者は40名ほどの集まり(会員はもっと多いそうです)でしたが、年齢的には大学生から相当年配の方まで、職業としては研究者、教師、技術者、漫画家、ビジネスマン、自動車会社のデザイナー、僧職、医師等の、まことにバラエティに富んだ集まりでした。
(教育学者の方もおられ、カワバタさんの『PTA再活用論』のあとがきに紹介されているヒト会員・サル会員・キジ会員・イヌ会員の話に言及されていました。日本以外の保護者組織のこともお詳しそうだったので、今度ぜひお話を聞いてみたいと思っています。)
いろいろな方がいらっしゃったわけですが、共通して感じたのは、日々を過ごしているそれぞれの足元を「世間学」に照らしつつ見ていこうとする姿勢。
日々の生活に埋もれず、でも浮き上がりもせず。生活しつつ考える。考えつつ生活する。
このような姿勢は、職場や私がこれまで属してきた日本語関係の学会には感じられなかった雰囲気で、とても居心地がよかったです。
(追記) 世間学会の目的(その3)には、
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なによりも大事なことは、「隠された構造」である世間を対象化すること。つまり自らの存在(実存)を対象化しうるような内容をめざす。
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とありますが、私が魅力を感じたのは、みなさんの「自らの実存を対象化しようとする姿勢」だったと言えます。
「世間学」や阿部 謹也氏を絶対視する姿勢は感じられず、むしろ相対化していこうとする姿勢が感じられたのも気持ち良かったです。
以下、いただいた質問、ご指摘等を紹介していきます。
発表題目にある「二人称性」というタームについて、石川県のHさんから、次のような質問をいただきました。
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日本型PTAや日本語においては主体性と公共性が希薄であり「二人称性」が濃厚である、との主張であるが、PTAに入るかどうかを決める時に、「もしも入らなかったらどう思われてしまうのだろう?」と、その人が頭に思い浮かべる近所のあの人やこの人のことを「二人称」と言っていいのだろうか? むしろ、その場にはいないのだから、「三人称」なのでは?(要約)
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当日お答えしたこと(あるいは、お答えしようとしたこと)は、以下のようなことです。
その指摘は、森有正の言う「二人称性」というタームの今一つクリアでないところ(そしてそれを再定義することなく使ってしまっている私の論の弱点)を突いていると思います。
森も、自分の言う「一人称・二人称・三人称」は普通に文法で使われる用法とは同じでないとは述べています。
(「ただここで是非言っておかなければならないことは、ここで言う一人称、二人称、三人称ということは、規範文法におけるそれらとは直ちに同じではないということである。」(『経験と思想』p.122~123))。
つまり、「今話している当面の相手」という意味での狭義の「二人称」とは違い、もう少し広い意味で使われている。
しかし、では、通常の「二人称」とはどのように違うのかが今一つクリアにはなっていない…。
森の言う「二人称(性)」とは、自らとは切り離された「他者」であるべき存在が容易に自らと結び付いてしまい、その思考や判断に甚大な影響を及ぼす。そういうことが双方で起こるという、二者間の関係性を問題にしたタームだと言えます。もう少し言えば、切り離されてあるべき「他者」の「他者性」(三人称性)、自らの「主体性」(一人称性)が弱くなり相互に接近・癒着してしまうことを「二人称(性)」という【ことば】で表現しようとしたのだと思います。
「二人称性」とは、よりクリアに表現すれば、「主客融合性」と言うべきなのかもしれません。
「二人称性」などと言うよりも「主客融合性」と言うべきだというのは、里山たぬ子さん(ツレ)のかねてからの主張でした。しかし、どうも私的にはそんなにすっぱりと言いきっていいものか、抵抗がありました。
しかし、Hさんのご指摘により、踏ん切りがついたように思います。
しかし、私自身、このあたり、どうもまだもやもやとしたものがあります。
近いうちに、森有正の言っている「二人称性」について、もう一度森のテキストに添いつつ整理してみたいと思います。
(追記)日本人における「主客融合性」については、世間学会「呼びかけ人」のひとりである佐藤直樹氏も、『「世間」の現象学』(青弓社)第2章、第6章で問題にされている。(佐藤先生、その節はお世話になりました。)
なお、三次会にて、H社のAさんは、私の言う「だから」の情意表出的用法にとても興味を持ってくださり、
「そのような用法が存在することは指摘されればわかるし、自分も今も現に使っているけれども、そのような用法があることを自分がこれまで全然意識してこなかったこと、今も実感として、そのような使い方を『している』とは意識化されないことが本当に興味深い」とのお話でした。
Aさんとは、日本語の特殊性、日本社会・日本文化のあり方についていろいろと意見交換をすることができました。
町工場から世界的な企業に躍進したH社の「風土」(社内におけることばづかい、社員に求められるもの、上司と部下の関係等)についてのお話もとても興味深かったです。
この他にも、次のような、今後の考察のヒントになるようなお話や励ましがありました。いずれも私なりの「要約」であることをお断りしておきます。
・PTA役員をしたがる人は確実にいる。ただで飲み食いできるとかの不純な動機の人もいる。もう少しスケールの大きな「悪人」になると、現役の時は持ち出しにしつつ、後で
十二分に回収しようとする人もいる。地方ではまだまだ非民主的な風習が生きている。PTAの問題を考える上で、PTA役員が地元の有力者への大きなステップという側面は無視できないと思う。(元高校教員)
・保護者も教師の側も積極的に意味合いを感じられないながら、なぜかずっと続いてきている気がする。地域ごとに網の目が張り巡らされており、各地域持ち回りで役員や会長を分担していくシステムが出来上がっている。(中学教員)
・PTAは町内会で言えば、ゴミ出し当番のようなものではないのか。(元大学職員)
・自分はPTAは未経験なのだが、保護者にとって負担の多い仕事がなぜスリム化できないのか?不思議でしょうがない。(自動車メーカー勤務)
・自分はかつて会長を志願したが、すでに内定者(地元の有力者)がいて丁重にお断りされた。こういう人たちと交渉するときは、ニコニコ笑顔で批判を述べていくという「高等戦術」が必要なのでは。(歯科医師)
・日本語から日本の文化や社会を考えていこうとする視点は大切だ。(大学教員・「呼びかけ人」)
「そんなことは言ってないが…。」と心当たりの方は、コメントいただければ幸いです<(_ _)>。