文法的観点から見た「主体」に対する意識の希薄さ ― PTA問題の底流にあるもの(4) | まるおの雑記帳  - 加藤薫(日本語・日本文化論)のブログ -

文法的観点から見た「主体」に対する意識の希薄さ ― PTA問題の底流にあるもの(4)

(一応、完成…)
∞「自発」を尊び、「行為」を卑しむ心性∞

<敬語の成り立ちが示す主体性に対する日本人の深層心理>
能動性・意思性・制御性、くくって言えば、<主体性>というものに対する日本人の深層心理の現れと言えるのが、敬語の成り立ちである。
非常に興味深いことに、日本語では、自然発生に関わる「なる」が「お~になる」(お持ちになる)のように、相手を尊ぶ尊敬語に使われ、主体性や能動性に関わる「する」が「お~する」(お持ちする)のように、自らを卑しめる謙譲語に用いられている(この点を指摘したのは、牧野誠一氏(1978)『ことばと空間』(東海大学出版会))。


<尊敬語成立の事情>
尊敬語には、「言う」に対する「おっしゃる」とか、「いる」に対する「いらっしゃる」、「食べる」に対する「召しあがる」のように、特別な形を持つものがあるが、尊敬語をつくるための汎用的な形としては、

「喜ぶ」→「お喜びになる」
「悲しむ」→「お悲しみになる」
「読む」→「お読みになる」

というように、「お~になる」の形がある。
相手の行為・作用を高く扱う尊敬表現を作るのに非作為的・非意思的な出来事の成立、つまり「成り行き」を表す「なる」が使われているわけである。

尊敬語を作るためのもう一つの汎用形式が、

「喜ばれる」
「読まれる」
「来られる」

のような「れる・られる」である。
ここで注目すべきなのは、「れる・られる」は、尊敬のほかに、受身・可能(※)・自発としての用法も持つが、「れる・られる」のおおもとの用法は「自発」であるとする考えが有力な点である(金田一京助・橋本進吉・荒木博之・尾上圭介・森田良行等)。

「自発」が「尊敬」に用いられるようになる筋道立ては論者により様々であるが、

「尊敬の対象となる人物の行為をあたかも自然に起きたかのように表現することが尊敬表現につながるのだ」

という説明が最大公約数的なものと言える(川村大(2004)「受身・自発・可能・尊敬 ―動詞ラレル形の世界―」『朝倉日本語講座6 文法Ⅱ』)。
※「れる」の「可能」用法は、「行かれる」等を除いて現在ほとんど用いられなくなっている。代わりに用いられているのが、「行ける」、「飲める」等の「可能動詞」。

ここでは、初期のものとして橋本進吉の説、近年のものとして尾上圭介氏の説、そして日本の文化との関連に触れた説としてを荒木博之氏の説を紹介しておこう。

橋本は、『助詞・助動詞の研究(講義集三)』(岩波書店)中の「助動詞の研究」の中で、次のように述べている。(「助動詞の研究」は、東京帝國大学における昭和6年の同題の講義の講義案)

**
敬語はやはり自然動から發生したものであろうとおもはれる。我國では、他人の動作をその人がするとして直接に云ひあらはさず、間接に自然の状態として云いあらわすのが鄭重であるとせられてゐる。
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「間接に自然の状態として云いあらわすのが鄭重」となることのエビデンスとしては、

「庭をはきましたか」

「庭がはけましたか」

の対比が提示されている。橋本によれば、後者の方が鄭重ということになる。

さらに、橋本は、

ご覧になる
御幸なる
御尋ある

等の例をあげ、「自然のはたらきのやうに言つて敬語としたものは各時代に見出される」とし、「さすれば、「る」「らる」の敬語としての用法も、自然のはたらきとしての意味から展開したものと考えて、少しも不自然な點はないとおもはれる。」と述べている。

尾上圭介氏は次のように述べている((1999)「文法を考える(7):出来文(3)」『日本語学』18巻1号)。

**
動作主に対する尊敬の気持ちを表現する方法はいくつかあり得るが、その中の一つとして、その動作を自然発生風に語るという方法がある。動作主が自らの意思により自分の力を使って何かしたと言うより、その動作的事態が自然に生起したように語る方が、動作主の(われわれと同じ人間としての)なまなましさや、行為の直接性が消えて、高貴な事態として表現することになるという事情である
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日本文化の特質と自発から尊敬語への展開とを関連させて論じたものとして、荒木博之氏の説がある。氏は、『日本語から日本人を考える』(朝日新聞社、1980)、『やまと言葉の人類学』(朝日選書、1983)の中で、自発・自然展開が日本人にとってはあらまほしきあり方・価値なのであり、その結果として、自発が尊敬へと意味展開を遂げていくとしている。

確かに、動作主のなまなましさが消えることが高貴さの演出につながるとする尾上氏の考察はなるほどと思わせられる。しかし、自発から尊敬語への意味展開がどの国の言語にも認められるものではないことを考えるとき、自発・自然展開をあらまほしきことと価値づける日本人の「深層意識」に注目しておく必要があると思われる。


<尊敬語と謙譲語の成り立ちと、そこから言えること>
フランス人の日本学者であるオギュスタン・ベルク氏は、自発的な意味がその中心、あるいは出発点にある「れる」「られる」が尊敬語としても用いられることに注目し(荒木博之氏の説を踏まえている)、

(日本語の尊敬語における)「敬意は、主体と行動とのつながりの結びつきを緩めることで表されている。」

とする。そして、「られる」表現、「なる」的表現にあっては、行動の主体と行動そのものの間の主語述語的連鎖が溶解し、「行動」が自発的に現われる「生成」(「なる」)にと変貌する、と語る。

ベルク氏は、牧野氏の説(前掲)も踏まえ、いっぽうで、謙譲語の成立についても言及する。

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目上の人間の行為を、直接化し、自然なものにしようとする傾向は、その反面で、相手に対する敬意から自分自身を卑しめる話手が、自分の行為の、非自然的、努力を要する性格、間接的な相を強調する傾向とつながっている。つまり行為を表わす動詞に、「します」、さらに丁寧には「いたします」という行為詞が追加されるのである。
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「お―送り―いたします」は、フランス語に訳すとすると、「私は(自分自身を)、(あなたを)送るようさせる」、「(私は)(あなたへの)随伴の原因を作る」と分析できるとのことである。

こうした分析を踏まえ、ベルク氏は、以下のような総括を行う。

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 こうした分析から、行為緩和の論理が、原因づくりに対する軽蔑が、明白になる。(…)自発的生成の価値づけは、同時に、自然なもの、動的なものの価値づけでもある。

なるほどラテン語naturaも、動詞nasci=「生まれる」の未来分詞であり、したがって日本語の場合と似た観念(誕生と同時にその行きつくさき)を想定する。ただラテン語の場合は、事態の高揚ではなく、単なる確認にすぎないと言うべきだろう。
そもそも我々の文化(まるお注:西欧の文化)は、主体の行動との、また意思の実践との、主語・述語的関係を強調することによって、自然なものが干渉すればこの関係に導入されるかもしれない非合理性を最小限にくい止めようとしているのである。

反対に日本では、自発性の尊重が、右のいくつかの例から始まって住居構造の物質面にわたる一連の行動形態のすべてに現われている。(…)
(改行、引用者)
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第一段中に出てくる「自然なもの、動的なものの価値づけ」とは、意思や秩序による制御外のものが尊ばれる、ということであろう。
第二段後半に出てくる、ヨーロッパにおいて強調されてきたとされる「主体の行動との、また意思の実践との、主語・述語的関係」とは、主体による結果に対する制御性を問題にしていると思われる。
主体による事態に対する制御がなくなれば、どんなとんでもない(「非合理」な)ことになるやもしれぬ。であればこそ、ヨーロッパの文化においては、長年、主体を析出することに拘ってきたというわけであろう。

ベルク氏の言う「主語・述語的関係」とは、「結果」、つまり「述語」だけがそのものとして出現するのではなく、その結果を成り立たせている「主語」、言えば、造物主・創造主としての「主語」が析出されている関係のことと言っていいように思う。

日本の文化に認められる、このような意味での「主語」(=「起因」としての「主語」)に対する意識の希薄さこそが、PTAの自動的・強制的加入体制(― それは主体の意思を問わず事態に巻き込む=事態を成立させることに他ならない ―)を深層で支えているように思われてならない。
(追記(2011.5.14):英語等における「主語と述語の一致現象」は、上に触れた「主体による結果に対する制御性」に対するこだわりの一つの「現れ」と言えるだろう。)

以上。


(つぶやき)
今必要なことは、ひとりひとりの個人に対して、正直に判断の材料となる情報を提示し、ひとりひとりの主体が能動的・意思的に自らの進む道を選び取ることができる環境整備ではないのだろうか。
そもそも、それが<民主主義>なのであり、「本当のことを知らせたら、熱心に取り組む人がいなくなるから」との理由で、情報を与えず、選択もさせず、というのは、反民主主義的であると言わざるを得ない。

この点をめぐっては、憲法に照らしつつ、神奈川県教委から届いた文書を検討するなかで、さらに考えていきたいと思っています。