奈良市平城東中学の案件の根深い問題 | まるおの雑記帳  - 加藤薫(日本語・日本文化論)のブログ -

奈良市平城東中学の案件の根深い問題

自分自身、話し合いの内容をまとめてみることで、話していた時やその直後には気付かなかった問題点に、いくつか気づいたので、事実誤認があったり、的外れな議論になっているかもしれないが、率直に記させていただきます。
(事実誤認等ありましたら、ご連絡をいただければすぐに対応させていただきます。)

問題点①
非会員の保護者に対して、学校(担任・校長)が記念品代の支払いを義務的なものとして求めることは、学校運営(学校長の行為)として適切と言えるのだろうか?

卒業式に記念品の贈呈をすることを決めたのは、あくまでもPTAのはずである。
その決定が会として適切なプロセスにおいてなされたものであるなら、なるほどPTA会員はその決定に拘束されると言える。しかしながら、非会員はその決定に拘束されるいわれはない。無関係と言うべきであろう。
それなのに、平城東中では、払おうとしない保護者に対しては、
「きっちりと払っていただくようにしている。そうしないと不公平になるから。やはり、不公平はいけません。」(校長談)
と言う。
「不公平」と言うが、よく考えれば、これは無茶な理屈だ。
有り体に言ってPTAが勝手に考えたアイディアになぜ非会員の保護者が巻き込まれなくてはならないのか!?という問題だ。

(非会員の側からすれば)PTAが勝手に決めたことなのに、「やらなくてはいけないこと」としてその支払いを求める。それをするのが同じ保護者の立場であるPTAの役員ならまだしも(もちろんそれも問題だが)、学校がいわばその威光を背に保護者に対して行うというのは大きな問題だろう。

要するに、そもそものあり方に無理があるために、「文書」に書いてある通りにすれば、生徒・児童の学校行事における差別になる可能性が大だし、それを避けようとすれば、保護者への不法行為を行うことになってしまうということだ。

PTAから卒業記念品を出し、しかもその直接的な対象を会員の子どもに限るという場合、PTAは「うしろめたさ」を感じていていいはずなのだ。
本部役員などから非会員に対して「私たちのほうで勝手なことをしているんだけど、実費出してもらえないかな?」などと申し入れをされれば、ほとんどの非会員の保護者も、「では、よろしくお願いします。」となるだろう。
ところが、平城東中のケースを見るに、「私」的(「民立」)団体が公的空間をいわば占める時に持つべき、うしろめたさというか、慎ましさが全く見られないのである。(文書の文言参照。)
PTAは、「同じ保護者という意味では対等の関係にあるはずの非会員を蚊帳の外に置き、PTAのほうで勝手に決めさせてもらっている」という意識を少なくとも少しは持ってほしいと思う。
であるのに、文書の書きぶりは、あたかも公的な機関(=お上)であるごとくなのである。

そして、本来PTAの振る舞いをチェックするべき学校長も、完全にPTAを「公」的なものと扱ってしまっているように見受けられるのだ。
でなければ、どうしてPTAが決めた「だけ」のことに、非会員の保護者も従わせようとするのかと問わざるを得ない。
「生徒の差別につながるようなことは絶対に避けなくては」という教育者としての心情があることは認めるにしても。


問題点②
前回の仙台の対応と比べて、非常に興味深かったのは、P連事務局長の役割の対照性だった。

仙台の事務局長さんの暴言に腹を立てつつも、私は、「任意団体の集合体の事務部門の責任者に学校やそのPTAへの指導力がないのも当然か。」と自分を納得させていた(P連事務局長には校長経験者が多いと聞くが、今の仙台の方はいわば「たたき上げ」かも、との情報を入れてくださる方もいた。)。

一方、奈良のケースでは、事務局長が大きな役割をはたしているように思える。学校の過てる対応に「お墨付き」を与えるという負の側面においてだが^^;。

今回のように文科省から問い合わせがあったときに、一体どのような権限と責任の中で、その事務局長さんは、「いや、お宅の学校のやっていることは間違っていない。大丈夫。」と言うのだろう。そして、学校長はどうしてそんなに自信を持ってしまうのだろう。
ひょっとしたら、学校長としての先輩でもあり、「PTAの担当者」だからなのかもしれない。
(嫌味な言い方で恐縮だが、まるでかつての「視学官」のごとくだなと思った。)

しかし、P連事務局長は、たとえ元校長だったとしても、今は一任意団体の人間にすぎない。
学校教育の正規の指揮命令系統の完全に外の、その意味で、あくまでも「私」の存在なのだ。
ところが、そんな存在が文科省を通した苦情を独自の判断でブロックし、校長もそれに従い安心する。
ここには、本質的な意味での、「公私混同」がないだろうか。

校長は、市教育委員会のしかるべき部局に判断を仰ぐべきなのに、その安易な「代わり」を、その責任と権限が不明な「P連事務局長」なるポジションが果たしてしまっているように思われるのである。

同様に、今回の「文書」の問題性が指摘されたとき、正規のルートを通して「人権教育課」の判断を仰ぐのではなく、「知り合い」という「私」のルートを通し、それで「解決済み」としてしまっていたのも、同質の問題を感じている。


的外れな発言もあるかもしれませんが、PTA問題のある局面に触れえたのではないかとの思いもあります。そして、このようなことは、全国いたるところの学校現場で起こっていることのように思われます。
その意味で、全市的、全県的、いや全国的な問題として考えていただければと思うのです。

追記(10.12)本文の中で、仙台市と奈良市のP連事務局長のあり方が「対照的」と述べたが、ともに「文科省を通しての改善要請」を独自の判断でブロックした点においては、同じことをしていると言える。