私は中米パナマのファーストフード店で、チキンと野菜サラダのセットを食べていた。
皿には、フライドチキンがひとつに簡単なサラダ、そして少量のライスが盛ってあった。
もう夜の十一時だった。
この時間まで晩御飯を食べずに空腹だったので、ジャンクフードでも結構おいしく感じられた。
私はあっという間に全部食べてしまった。
私が食べ終わった時、後ろのテーブルに座っていた男が私のところにやって来た。
そして私の皿を指差して、「これ、俺にくれないか?」と言った。
私が食べた後の、僅かばかり肉片の付いたチキンの骨が欲しいらしい。
こんなことを見ず知らずの他人に頼まれたのは生まれて初めてだった。
男は身なりからして、ホームレスであるか、少なくとも生活にかなり困っている状態であると思われた。
こんな骨だけになったチキンをせがんでくるなんて、よほど空腹なのだろう。
私は、正直、ショックを受けた。
普通の状況なら、赤の他人の食べ残した鳥の骨にかぶりつく気になれないものだ。
しかし、この男は、そんなことを言っていられないぐらい腹が減っているのだ。
断る理由など勿論なかったので、私は男に自分の皿を渡すことにしたのだが、その時にどんな表情をすればいいのだろうと考えてしまった。
通常では捨てるようなものを人にあげる時に、にっこり笑うのもおかしい気がした。
かといって、ムスッとして渡すのも感じが悪い。
結局、きょとんとしたような、敵意のない、至って普通の顔をして男に皿を渡した。
男は皿を受け取って自分の席に戻り、うまそうに骨をしゃぶりだした。
それを見て、私は胸が痛んだ。
彼は毎日こうして飢えを凌いでいるのだろうか。
私の残飯を食べている男には、他人の残したものが汚いとか気持ち悪いと考える概念はない。
私達が残飯と見なす物質に対して、「他人の唾液が付いている」というような意味付けはされていない。
栄養素の含まれた食物として純粋に捉えられているのだ。
しかしながら、それを簡単に「動物的である」とは言えないと私は思った。
動物的であるかもしれないが、それは決してネガティブな意味においてではない。
動物である人間としての純粋さがそこにはあるような気がするのだ。
私には、骨にかぶりついている男がスケールの大きな人間にすら思えてきた。
何の問題もなく毎日食事にありつけているという状況に常に感謝はしているつもりだったが、あらためてそのことを深く考えさせられる夜だった。
それから約一週間後、隣の国、コロンビアでも同じような体験をした。
私は中国人の経営する安食堂に入り、夕食の定食を食べていた。
その食堂はとても安くて量も多かった。
しかし、その量の多さが半端じゃないのが難点だった。
よほど空腹の時ならば全部食べられるのだが、そこそこの空腹具合の場合、半分ぐらい食べると腹一杯になってしまう。
経済的に安く上がるので、よくその食堂には通ったのだが、毎回のように全部食べられずに残してしまい、もったいないことをしているな、と罪悪感を感じてしまうのだった。
その夜も、定食を半分ちょっと食べたところで満腹になってしまった。
ナイフとフォークを置き、全部食べ切れなかったことからくる罪悪感のようなものが食後の余韻に混じっているのを感じた。
そこへ、ひとりの男がやってきた。
浮浪者のようだ。
私の皿を指差し、「もし残すのだったら、少しくれないか」と言う。
私はその男の顔を見て、彼が非常に気さくな性格である印象を受けた。
遠慮し過ぎるでもなく、悪びれるでもなく、それでいて態度が悪いと言うわけでもなく、非常に自然な感じだったので、私も素直ににっこり笑い、「どうぞ」と言って男に皿を渡した。
それはまるで親しい友人同士とのやりとりのようだった。
男は入り口近くの席に座って私の残したものを食べ始めた。
店の主人もそれを見ているが何も言わない。
普段からそうやって男はこの店にやってきて、客の残したものを食べているようだった。
男は、「うまい、うまい。お腹ペコペコだった」と言いながら、とても満足そうに食べている。
男の表情は、無邪気さと純粋さで溢れていた。
私はいろんなことを考えていた。
お金を払って食事をする私と、お金をもらって食事を提供する店の主人との関係。
残したものをあげる私と、残したものをもらう空腹の男との関係。
男に客の残り物を店内で食べさせている店の主人と、暗黙の了解で客が残すものを毎日待っている男との関係。
この三つの関係が、ここでは潤滑油で滑らかにされて、「和」を保っているように感じられた。
お金を払って店を出る時、私の残りものを食べている男と目が合った。
男は私を見て無邪気ににっこりと笑い、私も笑い返した。
私が作りたての料理を食べて、その残りを彼が食べているということを考えると少し罪悪感のようなものを感じないでもなかったが、男はそれでもありがたいと思って食べている様子だ。
たまたま私の方が食べるのに十分な金を持っている境遇で、たまたま彼の方が食事するのも儘ならないほど金のない状況に生まれてきている。
そんな二人が和やかに親しみを込めて触れ合うことができるということに、何か複雑な心境の混じった幸福感を感じた。
そしておこがましくもそう感じることを許してくれている男に対して感謝の念が湧いてきた。
何かの話で、神様や聖人が乞食の格好で人の前に現れ、その人の道徳心を試す、というのを聞いたことがある。
食堂を出てホテルに戻る夜道を歩きながら、そんなことが本当にあるかもしれないとしみじみ考えてしまった。
それは私の道徳心がどうのこうのという話ではなく、あの男の汚れた身なりと垢で汚れた顔の中で、一際その瞳だけはキラキラと輝いて美しかったのが気になったからである。