自分の体の内側が自分という個体で、外側が宇宙だというのは普通の考え方だと思いますが、内と外を反転させてみる宇宙感というのもあるかと思います。
ちょうど袋をひっくり返すように、もしくはリバーシブルの服をひっくり返すように、自分の内側と外側の世界を反転させてみると面白い視点が得られます。
自分という個体だと思っていたものが、実は全宇宙そのものであって、自分の周りにあるすべての領域が個体だとしたら。
実際、口やら毛穴やら人間の身体はたくさんの場所が開いていて、完全に閉じた領域にはなっていないし、どちら側が自分という領域なのかはわからないのかもしれません。
「自分」という個体だと思っていたものがもし全宇宙だとしたら、「自分」の姿、「自分」の生き方そのものが、宇宙のありようだ、ということになります。
そう考えたとき、果たして、「自分」が素晴らしい宇宙を体現できているかどうか。
「天にあるものそのまま地上にあり」、だとすれば、「自分にあるものそのまま宇宙にあり」ということが言えそうです。
「自分がこれだけちゃんとしているのに、世界では争いが起こっているのはなぜなんだ」と思ったとしても、「自分の内側にあるものと外側にあるものは対応している」ということに思い至れば、世界で起こっているネガティブなことを自分にまったく原因がないものとして非難するだけ、ということにはならないでしょう。
外に存在する闇の現象が気になったなら、自分の中にある、それに対応する同種の闇を減少させればいいのです。
もしくは、自分の中の光の力が及ばなかったと考えれば、自然ともっともっと光を増す方向に進めることになります。
そのような思考・行動は、ただ単に外の世界のネガティブな現象を非難するだけに終わるよりも、より賢明な生き方になると思います。
闇を光に変えていくオセロゲームは、自分が生き残るだけの金融サバイバルゲームよりも、格段にやりがいがあり面白いものです。
四隅に光の石を打つ決定打は聖人にしかできない、と無力感を感じる必要はありません。
もし自分が凡人であっても、もし仮にひっくり返せる石がひとつだけであっても、目の前にあるマス目に自分が打つものは、光の石でありたいものです。
それが光の意思というものでしょう。