岩田 規久男は、日本の経済学者。上智大学名誉教授。日本銀行副総裁。

専門は、金融論・都市経済学。小宮隆太郎の弟子。リフレ派経済学者の第一人者として知られており、学習院大学教授時代、積極緩和派の急先鋒として鋭い弁舌で知られていた。また日本銀行に批判的な論客として知られていた。日銀の国債買いオペレーション、インフレターゲット、日銀法改正、規制緩和を主張している。
岩田が主催する「昭和恐慌研究会」では、日本の昭和恐慌の原因について研究している。

大阪府出身。東京都立小石川高等学校、東京大学経済学部卒業。同大学卒業後、都市銀行に就職したが、4カ月で退職している。

1973年東京大学大学院経済学研究科博士課程修了後、上智大学経済学部専任講師に就任。1976年に同助教授に昇格、1977年から1979年までカリフォルニア大学バークレー校客員研究員、1983年に上智大学経済学部教授に昇格。1998年に同大学名誉教授の称号を得て、学習院大学経済学部教授に就任。2007年から2008年まで学習院大学経済学部長を歴任。2013年3月末で学習院大学を退職。2013年3月20日、日本銀行副総裁に就任。

岩田の元来の専攻は都市経済学(土地・住宅問題)。この分野では所謂マルクス経済学者との地価論争やマクロの金融政策の議論にも加わり、国際経済学の小宮隆太郎の論争(1973年-1974年にかけてのインフレーションを巡る日本銀行との間の論争)を見た岩田自身も、後に同様の論争(マネーサプライ論争)の当事者となっていく。

放送大学客員教授として「金融論」講義の講師を担当していたほか、政府各種委員会委員・参与等も務めた。


金融政策について

日本の金融政策について「金融政策でデフレからインフレに変える力があるというのは少数派だった。20年くらい言っているが、そういう政策は採用されなかった。それが安倍晋三総理によって採用された」と述べている。

バブル崩壊前後から「金融政策は資産価格を目標として運営してはならない」「株価でバブルが起こっているとしても、インフレ率が目標の範囲内であれば金融引締めを行なってはいけない」と主張していた。

日本銀行について
岩田は「日本がデフレから脱却できない責任は日本銀行にある」と日銀批判の急先鋒に立ってきた。岩田は、物価上昇率目標を中期的に達成することが「日銀の義務」と強調している。

岩田は「よく、『何もかも日銀のせいにしている』と批判されるが、よく考えてみると、世の中で起きている問題の多くは、元をただせばやはり日銀のせいだと言える。少子化、非正規社員の増加、企業倒産の増加、国の税収が増えないことなどは、デフレや円高で不況が続いたのが原因。日本の自殺者が3万人台になっている状況も、このことと無関係ではない。実証研究したところによると、自殺の一定割合以上は経済的要因が原因だとわかっている。そう考えると、日銀の責任は重大だと言えないか」と述べている。

岩田は「日銀は金融緩和に踏み切ろうとしないのか。それは、日銀が1980年代に行った量的緩和がバブル経済を醸成し、その崩壊によって、2012年現在も続く長期停滞の原因になったと、考えているからである。ここまで頑なに金融緩和を拒むスタンスを見ていると、日銀内部では、量的緩和によってバブルを招くくらいなら、デフレのままでいた方が良いという考え方が蔓延しているとしか思えない」と述べている。

日銀の「中長期的な物価の目途(price stability goal in the medium to long term)」について「インフレーション・ターゲティングやFRBの金融政策と比較すると、コミットメントなき目途で、デフレ脱却の金融政策からは、依然として距離が遠い」と指摘していた。


日銀の国債の直接引き受けには否定的であるが、2009年現在の経済状況がここまでくると、日銀の直接引き受けをしてもいいのではないかと述べている。2011年の時点で、日本銀行が国債を直接引き受けてもハイパーインフレにならないと主張していた。


潜在成長率について

潜在成長率については、岩田は「金融政策は需給ギャップを埋めることはできるが、潜在成長率を引き上げることはできない。潜在成長率を引き上げる政策手段は政府が持っている」と指摘している。


原発について

岩田は1979年に発生したアメリカのスリーマイル島原子力発電所事故以来原発の安全性に疑問を抱くようになり、原発反対の市民運動に参加していた。著書『経済復興: 大震災から立ち上がる』では、日本の電気料金には、原発が事故を起こしたときのコスト(原発費用の内部化)が反映されていなかったと指摘している。また、日本の原発について経済産業省から独立した中立的なメンバーによって構成される、原子力を監視する第三者機関の設置を提案している。


消費税増税について

2014年4月の消費税率8%の引き上げが、予想インフレ率に与える影響について「安倍総理の増税実施の決断は、インフレ期待に影響を与えていない」と述べている。

消費税率の10%への引き上げについては「一般論として、国全体として中期的に財政健全化を進めて、財政運営に対する信認を確保することは重要な課題だ」と指摘。その上で、安倍首相が「経済情勢を慎重に見極めて適切な判断をされると思う」と語った。


物価目標について

2013年3月5日国会での所信聴取に臨み、2%の物価目標の達成について日銀が全面的に責任を持つ必要があるとした上で、今後2年間で目標を達成できない場合は辞職する意向を示した。物価目標が達成困難となった2014年10月28日議院財政金融委員会で、就任前に2年程度で2%の物価目標が実現できない場合は辞職すると発言したことについて、深く反省している、と語った。2015年11月現在、副総裁。


選択的夫婦別姓制度について

選択的夫婦別姓制度導入に賛同する。「導入したところで特に他の人たちに不利益を被るわけではなく」反対する論者の主張が「他人に迷惑をかけない人の自由を妨げる行為」であると反対論者を批判している。


関わった論争

「マネーサプライ論争」

企業金融等の分野において、早くから名の知られた岩田であるが、彼の名を一躍、経済論壇のスターダムに押し上げたのは、彼が上智大学教授時代に、日本銀行の翁邦雄らとの間に起こした「マネーサプライ論争(岩田-翁論争」である。岩田は、1992年のマネーサプライの急減をみて、「戦前の大恐慌が訪れるかもしれない」という危機感を抱いていた。従来からマネタリーベース(ハイパワードマネー)の能動的な意味での操作性を否定し(「積み進捗率」の幾分の調整については可能とした)、なかんずくマネーサプライの管理を否定し続ける日本銀行の理論(日銀理論)に対し、岩田はその操作が可能であることを主張し、80年代末のバブル膨張ならびにバブル崩壊の責を逃れようとする日本銀行側を批判した。量的指標は操作可能だという岩田と、操作できないという翁による『週刊東洋経済』(東洋経済新報社)誌上での激しい問答をうけて、植田和男は、「短期では難しいが、長期では可能」という「裁定」を下すことで一応の決着をみた。

経済学者の高橋洋一は「(マネーストックの管理は)岩田も短期的にはできないと述べていたので、岩田の完勝だが、日銀の巧みな世論誘導で論争が引き分けに終わったかのような印象だった」と述べている。また、ジャーナリストの川北隆雄によれば、植田の「裁定」は「学界や民間エコノミストなどからはあまり支持されたとはいえない」という。

マネーサプライ論争における岩田の主張は、池尾和人も指摘しているように、金融論の教科書に登場しているような標準的な学説に基づくものであり、特に目新しいものでも奇異なものでもない。


マネタリーベース(ハイパワードマネー) × 信用乗数(貨幣乗数) = マネーストック(マネーサプライ)

という恒等式において、左辺のマネタリーベースから右辺のマネーサプライへの因果関係があり、かつ信用乗数は比較的安定しているから、日本銀行がハイパワードマネーを増やせばマネーサプライは増えると唱えたものであった。

一方、実務家である翁の主張は、日本銀行が所要準備の後積みを行っているという観察事実に基づくものであり、いって見れば現象論であった。翁は、岩田が用いた上述の恒等式において信用乗数には乗数の意味はなく、マネーサプライとマネタリーベースとの事後的な比率に過ぎないとした。その上で、市中銀行の貸出し態度によってマネーサプライの大きさが決まり、それに見合うように日本銀行はマネタリーベースを受動的に供給するしかなく、マネーをコントロールすることはできないと主張した。

岩田の主張のうち、信用乗数の安定性については、1992年頃には約13だった信用乗数が2000年以降は10を切るまでに低下し続けたことで実証的に否定された。また、翁のいうように、日本銀行が市中銀行の貸出し態度を追認する形でマネタリーベースを受動的に供給するしかないとしたら、日本銀行はそもそも金融政策を行えないのではないかという疑問が示された。


「ゼロ金利政策・量的緩和・インフレ目標」

マネーサプライ論争の後も政府日銀の経済政策に疑義を呈し続けた岩田は、橋本政権下の政策混乱と時期を同じくするデフレーションの経済下において、日銀に非伝統的な金融政策(ゼロ金利政策・量的緩和)の導入を強く主張した、いわゆるリフレーション政策陣営の実質的な旗頭としての役割を担った。岩田は著書『デフレの経済学』において、これまでの経済学があまり想定してこなかったデフレーションという現象を一般大衆に分かりやすく説き、かような状況から日本経済を救う為には、日銀による長期国債の買い切りオペや、人々の期待に働きかけるべくインフレターゲットを設定する必要があるということを主張した。このような認識は、ポール・クルーグマンやベン・バーナンキといった世界で著名な経済学者や、浜田宏一や原田泰、竹森俊平、伊藤元重、野口旭、若田部昌澄といった国内の経済学者の間でも共有され、日銀理論と対抗する一大基軸となったのである。

岩田規久男の「期待を変化させる金融政策」について、小宮隆太郎は「期待の変化が波及するルートが不明である」と指摘している。岩田の恩師であり、かつて日銀理論を鋭く批判した小宮は、『金融政策論議の争点-日銀批判とその反論』で「日銀への嫌がらせ」などとインフレターゲットや量的緩和の効果を否定しており、岩田が編著者となった『金融政策の論点―検証・ゼロ金利政策』に収録された「百鬼夜行の為替・金融政策議論を正す」の中で「私は、現在の金融政策はほぼ100点だと思う」(p.15)と述べた上、「見当はずれの日銀バッシング」の中では「不況脱出に必要なことは(中略)構造改革・規制緩和を積極的に進めること」(p.62)と主張しており、岩田の主張には批判的であり、岩田自身も小宮同様「構造改革・規制緩和を積極的に進めること」は必要であるがまずはデフレをとめることが先決と解釈している。また、小宮門下で日本銀行の審議委員を務める須田美矢子も、ヘリコプター・マネー政策はハイパーインフレーションを招き、国民は「極端な場合には物々交換をするような状態になることすらあり得ないことではありません」と述べて岩田に批判的なスタンスをとっている。


確かに、「いくら金融を緩和しても需要がないから物価は上がらずデフレ対策にはならない」といいつつ、同時に「金融を緩和するとハイパーインフレを招く」とする日本銀行の矛盾した姿勢には、日本銀行に好意的な研究者からも疑問の声が上がった。だが、岩田らの求めた非伝統的な金融緩和策に対しても疑問の声はある。その1つは、原理的には正しいとしても政策として使えるのかという点である。もし、日本銀行がいうように、日本銀行がいくら金融を緩和しても物価が上がらないとするなら、日本銀行はお札をどんどん刷ることによって世界中のありとあらゆる資産を買い漁ることができるはずだ。しかし、そんなことはあり得ない。いつかは必ずお札の価値は下落する。つまり、物価が上がるわけである。論理的に考えれば、この推論に間違いはない。だが、問題は「いつか物価が上がる」といっても、一体いつなのか、どれぐらい金融を緩和すればよいのか見通しが立たないことである。例えば、翁は、岩田ら経済学者の提案は、原理原則としては正しいとしても政策としては使えないだろうと批判している。ただしそうしたインフレを抑えるためにインフレターゲット政策がNZを始め他の国では導入されているため当該指摘について岩田自身は反論と解釈していない。 また、物価が上がらないうちは日本銀行と政府を併せた広義政府部門が、通貨発行益をインフレというペナルティ無しで享受できるわけであり、財政支出を通貨発行益で賄えば将来の金利負担の恐れなく財政健全化が達成できることになり、いずれにせよ国民の利益となる政策であるから反対する理由とはならないとの再反論がなされている。実際には、通貨発行益を用いた広義政府部門の支出による超過需要がまさに物価を上昇させる経路となるため、速やかに物価が上がると予測される。


評価

岩田自身の考え方は、かつての師と同じくマネタリスト的と評されることが多く、財政政策の有効性や金融政策の裁量というものに一定の理解を示していることから、ニュー・ケインジアン的な立場に接近していると捉える。


多くのリフレ派の経済学者たちや反デフレ議員連盟の主要メンバーらは岩田を英雄と称えている。
経済学者の浜田宏一は「徹底した貨幣重視の論調を、続けてこられた氏の忍耐強い姿勢には尊敬の念でいっぱいである」「日本のミルトン・フリードマンは間違いなく彼だ」と評価している。

高橋洋一は「私の知る限り、『日銀理論』に最も早く異を唱え、一貫してその姿勢を維持し続けてきた」と評している。

エコノミストの村上尚己は「日本が1990年代半ばから20年近くのデフレと経済停滞に苦しむリスクについて、最も早く見抜いていた」と評している。

麻生太郎財務大臣は岩田が副総裁就任前に物価安定目標2%について「2年で達成できる」と述べたことについて「20年続いた一般人の気持ち(デフレ期待)がいきなりインフレに変わるのは、そんなに簡単にはいかない」という認識を示した上で「私自身は『やっぱり学者というのはこんなものか、実体経済がわかっていない人はこういう発言をするんだな』と正直思った」と述べている。
(あ、そうちゃんですから~、みぞうゆうの混乱には対応できないわけで・・)

前原誠司「次の内閣」財務大臣は岩田の主張は物価上昇のためには何でもやるという「物価上昇至上主義」と指摘し、岩田が政府に総裁解任権を付与する日銀法改正を主張していることを挙げ「相入れない」と副総裁起用に反対した理由を説明している。尚、岩田が主張している日銀法の改正において、日銀が目標物価からの乖離した場合の責任は「文書での説明責任」であり「総裁解任権」は主張していない。


2013年11月7日、参院財政金融委員会で民主党の尾立源幸が「副総裁になって歯切れが悪くなった」と批判したのを受け、岩田は「学者として言う場合にはマーケットに影響を直接与えることは心配する必要がなくて何でも話せた」と説明し「副総裁の立場になると様々な臆測をマーケットに呼んでしまって色々反応する。それがかえって金融政策上2%の物価安定目標を達成する障害になる」と述べている。岩田は「友人の中には、『日銀に取り込まれたのではないか』と心配する人もいるが、これまでの主張はまったく変わっていない」と述べている。


2014年5月26日、都内で講演で岩田は「(日本の)潜在成長率の強化が進まなければ、物価安定目標の達成は『マイルドなインフレ下における低成長』をもたらす可能性がある」と指摘した。




さて、日本の最初のリフレーション政策は、高橋是清守護神が行いました。

1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(リフレーション政策)。五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。また1934年(昭和9年)に、共立学校出身にあたる岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任。当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく(出口戦略参照)軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ、暗殺された。享年82(満81歳没)。


1931年12月13日に金解禁を停止(要は金本位制から脱出する、でも金は大量に流出、紙幣の原資がない状態)デフレのどん底。「大学は出たけれど・・」の名文句の時期


1934年7月8日 岡田啓介が内閣総理大臣に就任。この頃はインフレ気味な気配となっている。


約3年半です。


現在のリフレ派と称している連中

2013年3月20日 黒田東彦が日銀総裁就任 アベクロニズムだかアホノミクスだかを開始

2016年2月 円高、株安、GDPは▲1.4%、インフレ?イの兆候も微塵もなし、大不景気

GDP_Meimoku