ご無沙汰しておりますが、2012/12/15よりこちらを創刊したので読んでやって下さい。シケタ君も参加してます。

内容は都内の50~60代の日経読者向けウェブマガジンです。

アラカン
島田紳助さんが引退しました。

渋谷にある放送協会さんも「税金」使って報道なさっておりましたが。。。

みなさんにとっても「気になる」ことでありましたかぁはてなマーク

シケタ的には、プロのスポーツ選手でも、

サラリーマンでも「辞めたい人は辞めればいい」と思っているので、全く関心ないっす得意げ

でも、紳助氏についていえば、シケタが駆け出し記者の時代にこんなことがありました。

彼は当時、日本のレーシングシーンの真夏の風物詩だったバイクの鈴鹿8時間耐久レース自転車

「紳助チーム」として出場したのであります。

この時、バブル真っ盛り。シケタもモーターースポーツ担当車で鈴鹿に取材。

そこでご本人に話を聞こうとしたら「なんで、あんたら(モータースポーツ記者)に話しせなぁ~あかんの?

キエロ。キエロ。シッ。シッ。消えろっってゆうーとるやないかい」

とまぁ、罵声を浴びせられたのであります爆弾

最近はテレビ界の寵児になっておられましたが、自ら受けた対応にどーーしてもこの御仁だけは「はてなマーク」でした。

大親友の明石家さんまさんは大竹しのぶさんと結婚なさっていた時にディズニーランドに親子でいった際

ディズニー側が気を遣って、VIP席に招待しようとしたのですが

「ありがとうございます。でもダイジョウブです。この子(現在のイマルちゃん)のために並ばせます観覧車

といって固辞した話は業界ではあまりにも有名です。

また、ビートたけしさんや所ジョージさんは今回こそ新聞が報じてしまいましたが、

毎年数千万単位のお金¥を「名前は伏せて欲しい」とお二人とも同じセリフを毎年話して、

寄付を続けいたそうです。

「なぜ公表しないのですかはてなマーク」という問いに

「寄付というのは“私はこれだけ寄付しました”というのは寄付じゃないじゃんビックリマーク

と奇しくも同じ言葉を2人とも話したそうです。

ということで、シケタ的には島田紳助さんの引退は全く関心がありませぬ。

と、いいつつこのブログに書いたことは、

みなさんにこのコトだけはしってほしーと思った次第であります。はい得意げ

「今日から静かに生活させてほしい」と紳助さんはおっしゃっておりましたが、

突然の引退で翻弄されてしまっている関係各位へのミソギはまさにこれから!と思うのですが。。。

やっぱり人は1人と1人がバランスよく生きていかないと「人」という字にはなりません。

今回の引退劇には改めて実感。紳助さんを「師」と慕っている周囲が止めるべきところは止めないと。。。

いろいろ個人的には勉強にもなりました。はい。


マー君とシケタ君 ときどきピロシキ

アップ悔し涙ではありませんっ」と言っておられましたが。。。
日本中のほとんどの人は悔し涙にしかみえなかったと思われまする
今回は少々マジなお話を・・・・

66回目をむかえた「8・15 終戦記念日」は新聞休刊日でした。


焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。

小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。

少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。

その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。

少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。

係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。

まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。

気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。

私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。

一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で弟を見送ったのだ。

 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。

私は彼の肩を抱いてやりたかった。

しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。

急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。

一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。

その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。

今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?」

「この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、

私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。

アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。

直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。

そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。

もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。

私はなす術もなく、立ちつくしていた



これは「焼き場の少年」というタイトルがつけられたこの写真です↓

マー君とシケタ君 ときどきピロシキ


恥ずかしながら、この写真を知りませんでした。

米軍従軍カメラマンの故ジョー・オダネルさんが長崎の原爆のあとに

軍法を無視して撮り続けた「トランクの中の日本」(初版1996年・小学館)↓の中にあります。


マー君とシケタ君 ときどきピロシキ

66年たとうが、100年たとうが、

300万人を越える方々が命を落とした戦争というのは絶対に風化させてはいけないし、

その日に新聞が休刊するということは、どーーしても違和感がありました。

もちろんわたくしシケタは右でもなければ左でもありません。

ただイイものはいい、悪いことはワルイ。そして知らないことを伝えることを、

きちんと報じることが新聞の役目なのではないかなぁ。。。

それを自ら放棄してしまった。だから今年の8・15は忘れられないのではアリマセン。

この写真の事実を知ったから・・・

毎年8・15を迎える日はしっかりこの写真の意味を刻みたいとオモッテいます。。。。