いま放送中の 英国ドラマ≪刑事フォイル≫ に後続して
間もなく 4/3(日)から 再び
その〝時間枠”を取り戻した ≪BSプレミアム・日21時〝韓ドラ”≫
今回放送予定の 韓史劇
BSプレミアム (bs103) 4/3スタート 毎週(日) 21:00~
初回(4/3)の放送は 20:45~
韓国史劇 ≪イニョプの道(原題:下女たち)≫ (韓国Jtbc/2014-15)
地域の韓国な皆様と 月に一度(第三月曜日)させて頂いている
「韓国大好き仲間たち」 サークル
≪ドラマを通して学ぼう〝韓国の歴史+韓国を”≫ と言う事で
毎回、その時期にBSなどで放送されている韓国史劇の中から一つ
テーマ史劇を選んで、その背景や事件などを中心にお話させて頂いて
おりますが 。。。
三月(本日開催)は このドラマ ≪イニョプの道≫をテーマに
間もなく開始の 嬉しいBS初放送にむけ 。。。
ドラマとドラマ を繋げて このドラマの根底に流れる〝背景” を
すこしだけ 掘り下げてみようと思っております。
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ドラマ≪イニョプの道(原題:下女たち)≫ 視聴予定の皆様へ
サークル資料の一部を ご紹介させて頂きます。
≪知ってから見ると 更に深~く 楽しめる≫
。。。 〝お役にたてたら” 嬉しいで~~す
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≪ドラマに至るまでの 時代の流れ ≫
日本でも放送されたドラマ「鄭道傳(チョン・ドジョン)」「龍の涙」その他、
BS放送中の「大王世宗」や、韓国SBS放送 「六龍が飛ぶ」等から
繋げてみます 。。。
≪ ドラマの背景は 朝鮮王朝第三代王「太宗」の時代 ≫
『高麗崩壊~李氏朝鮮王朝建国』 からの流れ
1392年(陰)7月17日 将軍李成桂は開京の寿昌宮にて、恭譲王から
王位継承と言う形で王位に就き、国号を「朝鮮」
とし新国〝朝鮮”の太祖となる。(李成桂 57歳)
建国に最も貢献したのは、鄭道傳と太祖5男芳遠(靖安大君)であったが、
太祖は道傳を支持、重職を任せ二番目の妃である康氏の産んだ次男で
あり太祖にとっては8男である末息子芳碩(宜安大君)を世子に冊封。
1396年 王后康氏の急死により
1398年8月 遂に、冷遇されてきた前妃の息子である5男芳遠が
4男芳幹等と共に乱を起す。 『第一王子の乱』
この『第一王子の乱』により 鄭道傳は殺され世子(芳碩)が実兄7男芳蕃
(撫安大君)と共に流刑→殺されると すっかり気を落とした王は
1398年9月 次男(永安大君芳果)に王位を譲り、漢陽を離れ故郷の
咸興へ戻る。 (第二代王:定宗 41歳)
第二代王となった定宗(在位1398~1400)は温和な性格で、元々王位に欲は
無かった。継子に恵まれず、王位継承の座を巡って乱が勃発
第一王子の乱の時、芳遠を助け功を建てたのに 自身の待遇が低いことに不満
を抱えていた朴苞(パク・ポ)が靖安大君が兵を集め命を狙っているからその前
にと 4男芳幹(懐安大君)を唆し
1400年2月 4男芳幹(懐安大君)が乱を起したが、その気配を感じ
とった5男芳遠(靖安大君)に殺される。
『第二王子の乱』
度重なる兄弟間の殺戮に次は自分にと脅威を持った定宗は弟芳遠(靖安大君)
に譲位し〝上王”となる。 (太祖は〝太上王”となる)
1400年11月 遂に 定宗の弟である芳遠が王位に就く
(第三代王:太宗 33歳)
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ここまでは 。。。 よくご存じの方も多いと思いますが
では このドラマの 第一話に出てくるように
≪何で 太宗(芳遠)は 何度も
父 太祖(成桂) を 漢陽に呼び戻そうと ≫
〝使臣” を送ったのでしょう
そんな ムズムズ虫に 探究心
調べてみたら ちょっと面白いことが
ご紹介してみます 。。。
ドラマの中で 「イニョプの父が命じられたのは」
≪咸興差使(함흥차사:ハムンチャサ≫ と言われました。
(ドラマ「下女たち」よりキャプチャー)
かつて太祖の信頼を受けていたクク・ユ(イニョプの父)を
差使として送った太宗。 怒る太祖。
クク・ユも殺されちゃうのでしょうか~~?
(それは・・・ドラマで直接ご覧くださいね )
差使(チャサ)とは 国から重要な事を任されて送られる使臣の事です。
王位に就いた太宗は父の〝承諾”を受けたくて漢陽へお迎えしようと
しましたが、その度に太祖はそれを拒み使臣達を殺してしまった。
(なんで それなら来なくてもいいじゃない って思いませんか?)
実は どうしても迎えて〝承諾”を受けたかった≪ワケ≫が有るんです
。
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1398年9月 次男(芳果)に譲位する時に 。。。
王の証の一つである〝玉璽(옥새:オクセ)” だけは渡さなかった
と言うのです。
(これって、つまり〝正式には認めず”ってことですよね)
どうしても 父から〝正式に”王として認めてもらう為に
芳遠(太宗)は 何度も太祖に〝差使”を送ったわけです。
そして太宗は最後の手段として〝無学大師”を咸興に送り、
無学大師の説得でようやく太祖は何年振りかで漢陽に戻り
〝玉璽”を太宗(芳遠)に与え、彼を王と認定しました。
無学大師は長い間太祖から信頼厚い人物だったそうです。
その年老いた無学大師が出向いて来て、 「父子でこうして
仲たがいしていては、民の為に良い事では無い」 と 説得
されたそうです。 この言葉が太祖の心に響いたのですね。
太祖は建国して16年目となる1408年5月24日74歳で崩御。
この事から 王位継承を≪太祖→太宗≫との観方も有り。
二代王(芳果)は死後長い間、明から受けた諡号「恭靖大王」
と呼ばれ、死後編纂された実録も「恭靖王実録」とされましたが
1681年(粛宗7)、やっと〝定宗”と言う廟号が与えられました。
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とても 理不尽なお役目
≪咸興差使 (함흥차사)≫
(歴史)
「李朝の初代王(太祖:李成桂)が譲位後、咸興の別宮に居る時、
第三王に即位した第5王子(太宗:李芳遠)が父のもとに遣わした
使臣を言う。 李成桂は使臣が来るたびに、これを殺したり監禁
したりして帰さなかった。」
この 『咸興差使(ハムンチャサ)』
今は (転じてこういう意味で使われるそうですよ!!)
「梨の礫(なしのつぶて)」 「鉄砲玉」
行ったきり、何の連絡も無し!って感じですね ・・・ (面白韓国語)
参考文献: 이야기로 풀어쓴 조선왕조실록
한 권으로 읽는 이야기 한국사
태조/정종/태종왕조실록
物語韓国史 (金両基書) 等
文責はMarcallに有り、確実なものではありません。
違訳、勘違い等有るかもしれません。お気づきの方は
どうぞお知らせください。修正も有るかもですが
ご理解の上、画像も含め転記転載はご遠慮ください
それでは 皆様、 お・や・す・み・なさ~~い
( 2016.3 「韓国大好き仲間たち」サークル資料より )