今回、紹介する新西国三十三ヶ所観音霊場は、奈良県高市郡明日香村にある日本最古の寺「飛鳥寺」です。
新西国三十三ヶ所観音霊場、第9番札所「鳥形山(ちょうけいざん) 飛鳥寺」。創建は596年。開基は「蘇我馬子」。宗派は「真言宗豊山派」。本尊は「釈迦如来像(飛鳥大仏)」。新西国観音霊場の本尊は「聖観世音菩薩像」。
詠歌 「うきことの 消ゆるもけふか 飛鳥寺 末やすかれと 祈る身なれば」
「飛鳥寺」の始まりは587年、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の戦いで勝利し、「聖徳太子」は勝利の際の誓願として「四天王寺」を建立したように、「蘇我馬子」は588年に寺院造営を発願し、596年に「法興寺」として建立したと伝えられています。
「法興寺」は「五重塔」を中心として「中金堂」、「東金堂」、「西金堂」が建つ、一塔三金堂式で、これらを囲むように回廊があり、北側には「講堂」が建つ巨大な伽藍だったそうです。
奈良時代には平城京遷都で「法興寺」も「元興寺」と名称を変更して移転し、この時「法興寺」の建築資材も使用されたようですが、「飛鳥大仏」は寺名を「本元興寺」と変更し、この地に残ったようです。
887年、1196年の落雷による火災で「本元興寺」は焼失し、それ以降衰退してしまいます。
現在の寺観は江戸時代に再建された「安居院(あんごいん)」という本堂と、僅かな堂宇があるだけの小さな寺院となっています。
「飛鳥寺」は様々な史跡や寺院がある、明日香村の田園が多い場所に建っています。
山門風景。
新しい小さな山門。
飛鳥大仏を知らせる石碑。
この石碑は参拝の道しるべとして1793年に建てられたもので、台石は創建当初の礎石を使用しているようです。
西側にも小さな門があり、「西門跡」や「入鹿の首塚」があります。
現在の西門。
西門跡。
五輪塔の入鹿の首塚。
「入鹿の首塚」は「蘇我馬子」の孫である「蘇我入鹿」のことで、「大化の改新」のクーデターで「中大兄皇子」と「中臣鎌足」によって暗殺された。
暗殺された場所はここではなくて、600m南にある「飛鳥板蓋宮」という場所で、そこから切り落とされた首が飛んで来たと言われています。
西門跡付近から眺めた飛鳥寺。
「山門」を抜けると、狭い境内に「本堂」、「思惟殿(しゆいでん)」、「鐘楼」があるぐらいです。
山門を抜けると納経所(受付)があり、本堂は間の入り口から入る。
本堂(安居院)。
「本堂」は昔、「中金堂」があった場所に建てられていて、「飛鳥大仏」は昔の安置されてた位置に祀られているようです。
「本堂」前には「金堂」の礎石が残っています。
金堂礎石。
「本堂」内には「飛鳥大仏」と言われる「釈迦如来像」、「阿弥陀如来像」、「聖徳太子孝養像(16歳像)」が安置されています。
閉鎖的な寺院が多い中で、「飛鳥寺」の「本堂」内の撮影は快く承諾してくれました。
飛鳥大仏と言われる銅製の釈迦如来像。重要文化財。
「飛鳥大仏」は605年、「推古天皇」が「聖徳太子」、「蘇我馬子」などと誓いを立てて発願し、609年に仏師「鞍作止利(くらつくりのとり)」に造らせた日本最古の仏像です。
「飛鳥大仏」も火災による被害で、当初から残っている部分は顔の一部、左耳、右手の中央の指3本のみだそうです。
右手には阿弥陀如来像。藤原時代。
左手には聖徳太子孝養像。室町時代。
「飛鳥大仏」の奥には小さな庭があり、「飛鳥寺形石燈篭」、「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」、「道標」があります。
飛鳥寺形石燈篭。南北朝時代。
宝篋印塔。室町時代。
道標。江戸時代。
庭園から出口へ行く際に、「飛鳥寺」のさまざまな寺宝が展示されています。
不動明王像。室町時代。
勢至菩薩像と深沙大将像。藤原時代。
新西国三十三ヶ所観音霊場の本尊、「聖観世音菩薩像」が祀られているのが「思惟殿」です。
思惟殿。
新西国観音霊場の聖観世音菩薩像を祀る。
奥には弘法大師像が。
「思惟殿」の側に「鐘楼」があります。
鐘楼。
梵鐘。
その他の名所などを紹介します。
万葉歌碑。
万葉池。
水溜石。不動明王は良縁成就、観音菩薩は家業繁盛、弘法大師は交通安全を水をかけて祈願する。
塔心礎中心位置。地下3mに埋まっているそうです。
春日流 扇塚。
地蔵尊。
規模の小さな寺院となってしまいましたが、飛鳥時代に造られた一部分を残し「飛鳥大仏」は、今現在も昔と変わらず同じ位置に祀られています。
飛鳥寺の御朱印。