長崎事件 | 今日の韓流通信(旧)

長崎事件

ロシアと清の脅威から朝鮮半島の独立・保護を求めていた日本と、朝鮮の独立に反対する清との対立が激化する中、それまで交渉で解決しようとしていた日本が武力対立にまで視野に入れざるを得ない事件が起こりました。

それが長崎事件です。




 明治19年(1886年)8月、この年は夏になって大阪を中心にコレラが広がり、日本中に蔓延していきました。新聞は日々、猖獗(しょうけつ)を極めるその様子を報じ、明治12年に起きた大流行と比較していますが、この年の流行は桁が違い、大変な数の犠牲者が出ています。
 そんな中、8月12日の「毎日新聞」の紙面にほんの2行、小さなニュースが報じられていました。
「清国軍艦・『鎮遠』、『定遠』、『済遠』、『威遠』の4艘は、ロシア領ウラジオストークより、一昨日10日に長崎へ到着したということである」
 このころ,大清帝国は日本を威圧するため,旅順に要塞と軍港を作り,北洋艦隊根拠地にしていました。北洋艦隊水師提督(司令長官)丁汝昌は,李鴻章(北洋大臣)の右腕でした。
 1886年8月1日,北洋艦隊の新鋭戦艦「定遠」「鎮遠」と巡洋艦「済遠」「威遠」の4隻が,日本政府には何ら予告なく,無許可で修理のためと称して突然,長崎に入港しました。要するに,弱小国,日本を舐め切っていたのです。
 艦名の「遠」は外国を意味し,特に日本を指していました。「定遠」「鎮遠」は日本鎮定の意味です。この僚艦はドイツ・フルカン社製で,排水量7,400t,主砲は30cm×4,当時世界第一の大戦艦でした。
 その頃,日本海軍は英国アームストロング社製の「浪速」と「高千穂」(3000t)の小艦があるだけでした。当時の日本海軍は、時の清国主力艦『鎮遠』、『定遠』の2装甲艦にまったく立ち向かうことができない実力であり、戦争など思いもよらないことでした。


 8月13日には清国水兵が勝手に上陸開始しました。兵力は500人以上。長崎市内をのし回り,商店に押し入って金品を強奪しました。酒を探して飲み,市民の女性を追いかけるなど,散々に暴れ狂いました。
 清国水兵は辮髪をしていました。その髪を蛇のように振り立て,喚き狂うのだから,長崎市民には,まるで地獄の鬼のように見えたことでしょう。
 急報により,日本人巡査が鎮圧に出動しましたが,多勢に無勢,袋叩きに遭ってしまいます。やがて応援の巡査の一隊が駆けつけ,双方抜刀して市街戦になりました。斬り合いの結果,双方とも八十数人の死傷者を出しました(水兵4人、巡査2人が死亡)。
 その後、清国水兵は続々と200人ほども集まり、捕縛された仲間を助け出そうとして警察署の門前に押しかけました。警察署も門を閉ざして警備を厳重にしたため、その日の水兵たちは何事もなく引き上げたけれども、これが翌々日の大騒動に発展したということです。
 長崎県知事は14日、清国領事宛に書簡を送り、この騒動が落ち着くまで水兵の上陸を差し控えてほしいと要望したが、いかなる理由か清国艦隊では上陸を禁じておらず、人数の制限もしなかったのです。
 14日は何事もなく過ぎましたが、実はこの日、上陸した清国兵の一部は骨董店などで古刀や古武器を購入、これを地元居留の清国人に預けて、翌日の騒動に備えていたようです。上陸にあたっては武器の携行が許可されていなかったための準備のようです。居留民が襲撃に加わったという情報もあります。
 15日の夜は、仕返しをしようとして300人ばかりの水兵が数十人ずつ隊をなして上陸、広馬場町の飲食店にたむろして、一部が通りかかった巡査を侮辱します。しばらくは巡査もこれに取り合わずにいたのですが、やがて警棒を奪おうとする者があり、やむを得ず抵抗したことから暴力行為が連鎖拡大して、周辺の飲食店などにたむろしていた刃物や仕込杖で武装する水兵たちが、3人の巡査によってたかっての暴行を加えました。
 このとき襲われた3人の巡査は、一人がその場で死亡、二人が重傷を負い、うち一人がかろうじて囲みを破って、付近の警察署に危急を告げました。
 ここから騒ぎはさらに大きくなり、水兵たちは80人ほどが一隊となって梅ヶ崎や濱野の警察署へ押し寄せようとし、道すがら通りかかりの住民へも暴行を加えました。通報を受けた巡査が駆けつけるものの、多勢に無勢で鎮圧できません。
 巡査たちは道路を大八車で遮断し、水兵たちを迎え撃ちます。道端の家々も門戸を閉ざすと、住民は石を持って屋根に上がり、石や瓦を投げて水兵たちを攻撃しました。負傷者が続出すると、もともと大半が酩酊している水兵たちは総崩れとなり、追い散らされて、一部は捕縛されました。
 これにより、清国人士官1名が死亡、3名が負傷しています。水兵も3人が死亡、50人余りが負傷しました。巡査側も警部3名が負傷し、巡査2名が死亡、16人が負傷しています。住民にも十数名の負傷者が出たとされています。
 騒動は午後11時頃には鎮りましたが状況は掴めず、周辺の住民は家財をまとめるなどして用心を続けました。
 この長崎事件は当時、日本全国に一大ショックを与え、清国に対する日本人の敵愾心が、烈火のように燃え上がりました。
 この事件の背景には、朝鮮問題を巡る日清両国の紛争がありました。そこで日本を脅かすため、清国海軍が計画的に長崎に殴り込みをかけたのです。当時の弱小国、日本は歯噛みしながら、なす術もなかったのです。

 この長崎事件を契機として、日本人の防衛思想の根底に、大陸を国防の第一線とする考え方が生まれたのです。
 事件後、両国委員により構成された長崎会審は難航の末解散しましたが、外国公使の斡旋もあり、翌年2月8日、東京で井上馨外相と徐承祖駐日清国公使が双方自国の法律による公平な処分と死傷者へ撫恤金給与を議定し、解決しました。


【ソース】不明(過去の保管資料)





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『気ままに歴史』

http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/

ものすごく調査されているので参考になります。




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