リノ・ラティーナ・ザ・セカンドのつくりかた
父セフェリノ・ラティーナと母鳥居 典子の間に俺は1973年4月22日日曜日
にマニラ郊外のサンパブロシティで産声をあげる。 この日、街は復活祭
(イースター)だった為病院内で一番ピンク色だった俺を一目見ようと人だ
今考えるとこの日からカルナバル・オブ・リノは始まってたと思う。ちなみに
俺は母親の体内にいた時から記憶がある。暗闇のなか「早く出してくれ!
用意はできている。俺にしか出来ないことをするだけだ!」って
その時ずっと呟いていた。
ミュージシャンだった父は先祖にイタリアの血を持つフィリピン人で母は
日本人と中国人のハーフ。だから小さい頃は自分がナニ人か解らなくて
悩んだこともあったけど、いつの頃からか「じゃあナニ人なの?」って聞か
れたら「犬でいえば雑種だけど俺は品種改良を重ねた新種だ!」
と答えるようになった。
俺には2つ下の妹が1人いて、何一つ不自由せずにのびのびと育った。
たまに哺乳瓶にコーラを入れてもらうのが嬉しくて嬉しくてその為になん
でもした。モンテソーリー幼稚園に通っていた俺は毎日バスが迎えに
来るまで園服を着せようとする女中さんからギリギリまで逃げ回っている
のが日課だった。
あの頃を思い出すとなぜかジャネスのサマータイムが頭の中でループ
する。当時のマニラはマルコス政権の最盛期にあたり12時以降は外出
禁止の戒厳令が敷かれていた。その間、主要道路をひきりなしに戦車が
パトロールしているのを両親に抱かれ2階からカーテン越しに見ていたの
を思い出す。でも、その戦車が通り過ぎて次の戦車が来るまでの間に、
(あいまいだが15分~30分位だったと思う・・・。)どこからともなく物売り
がやってきた。その中でも俺は、『バロット』というアヒルの卵の燻製が
大好物で『バロッ~♪』と売りに来る声を聞いては「うわ~来たよ~!」と
父親にねだっていたのを思い出す。
1970年代に入り、それまでのダークなイメージを払拭する事に成功した
フィリピンに、日本人の観光客がどっとなだれ込んだ。当然、ホテルも
観光局も血眼になって日本語を話せる人を探していた。当時ツアーガイド
をしていた母は破格の待遇を受けていたという。片言を話せる父親まで
駆り出されるという始末。他に父は貿易、テーラーなど手広く事業展開を
してたが商才は無かったらしい・・・。この時代に生まれた、一部の一種
バブル的な日本人達の遊び方が、その後の『ジャパユキ』を生む事に
なったのも事実だ。
幼稚園から帰ってくると、良く女中に連れられてルネタパークに遊びに
行った。彼女達は年頃だったから、公園に着くと、すぐ年頃の青年に
ナンパされ長話を始めた。放ったかされている間に俺は良くスラムの
子と喧嘩をした。おもちゃの取合いは茶飯事で、取られたり、取返し
たりして、悔しい思いもした。
でも、この遣り取りが、ストリートでの生き方を養ってくれたと思う。
モンテソーリ幼稚園時代、俺は隣のクラスのローザベルちゃんが大好きで
片時も離れたくなかったから、いつも一緒に居た。授業も自分のクラスに
連れて来たり、相手のクラスに行ったりして先生に良く迷惑を掛けたものだ。
だが、それでも諦めない俺の一途な想いに、先生は何度も折れてくれた。
集会等でも、殆ど最後の方は何も言われなかった。
五歳の時、右隣の家が火事になり風向きが悪くてうちが全焼した。後で
知ったんだけど隣の家は左派の筆頭でそれを快く思わない政府が夜中
に放火したらしい。半年後には新築の家に引っ越す予定だったけど。
警察がお金で買える国柄に母も限界を感じて全て売り払い日本に行く
事になった。この出来事がなければ今の俺はいなかっただろう。