数日前にEdi Simc’ic’エディ・シムチッチのcantinaカンティーナのことを書いた。このcantinaはVipolz’eヴィポルジェというスロヴェニアのBrdaブルダ(イタリア語でCollio、「丘」を意味する)にある町で、この丘を下ればすぐにイタリア(フリウーリ)の町Mossaモッサがある。このVipolz’e同様にBrdaには小さなかわいらしい村がひしめき合っていて、この地域で一番美味しいと言われるワインを作っている。イタリア側にあるスロヴェニア系の村S.Florianoサン・フロリアーノもこのワイン・ロードと接続していて、ゴリツィア地方の観光業の振興に一役買っている。
 このBrda(丘)を下りた所から西へと広がるフリウーリの平野はイタリア領だが、MossaやGoriziaから少し南下するとまたスロヴェニア人が多く居住するごつごつしたCarsoカルソ台地(これはイタリア語表記。スロヴェニア語ではKrasクラス、ドイツ語でKarstカルスト、日本ではドイツ語表記を採用している。)が広がっている。イタリア人はこのカルソ台地とアドリア海に挟まれた僅かな平地にあるMonfalconeモンファルコーネ、Duinoデュイーノ、Sistianaシスティアーナ、Triesteトリエステなどの町に好んで住み、カルソの丘に点在する村々にはスロヴェニア人及び、スロヴェニア系少数民族minoranza slovenaが住んでいる。
 私が研究対象にしているのはBrdaの辺りの国境問題なんだけど、大学で知り合った友人はむしろカルソのスロヴェニア系少数民族の方が多い。彼らの話によると、ブルダとカルソのスロヴェニア人の間には因縁があるらしく、それぞれよくは思っていないらしい。Brci(ブルダの人々)はカルソのスロヴェニア人は「蛇にかまれても死なない」と、ちょっと不便かつ不毛な土地に住む彼らを揶揄し、カルソのスロヴェニア人は「Brca(ブルダの女性)がいれば犬はいらない」と、彼らの気性の激しさを冗談にします。
 農業に関して言えば、Brdaは土に恵まれている上、ユリアン・アルプス前山の麓近くに位置し、アドリア海からは緩やかに温かい空気が届く好立地。47年に国境線でこの地域の一大商業センターであるゴリツィアから切り離された後も、農業用通路があちこちに設けられ、イタリア側からワイン作りのノウハウを学ぶことができたという話もある。そういう訳で、殊ワイン作りに関してはカルソのスロヴェニア人に対して一日の長があるBrciなのであった。
 ちなみにスロヴェニア側のカルソにある小さな村Zavinoに友達の親戚が住んでいる。そのうち彼らのワイナリーを見学しに行くつもりだが、9月、10月の収穫時期には手伝いをさせてもらえそう。勿論現物報酬で!