一日一笑

一日一笑

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今年は年始早々家族にとって大きな大きな問題が起きました。

 

今まで必死で守ってきた、作り上げてきた「家族」

理想とまではいかないけれども、派手でもなく、誰かに自慢できるようなものでもなかったけど、

それはそれは努力をして、ただただ穏やかな日々を送れるように

頑張ってきていたんです。

 

その山に雪崩が起きたように感じた出来事でした。

 

どうすべきか本当に悩みました。

 

現代という時代はある種「なんでもあり」だからこそ難しい。

世の中にはいろんな形の家族があり

だからこそ自分はどういう形をとるべきか

本当に難しい判断でした。

 

そんな私のもろい心を温かく包んでくれたのはやはり息子でした。

 

息子はいつも私が「ママ好き?」と聞くと

「うん、ママとパパ大好き」と言ってくれます。

 

休みの日もどちらか一方ではなく

「ママとパパと遊ぶの!」「3人で!!」と言ってくれます。

 

もう私たちは3人で1つになってるんだなと感じさせられました。

 

人生の岐路に立たされた時、そこに教科書はありません。

世の中のあらゆる人を参考にできないか検索したけど答えはそこにはないんです。

 

答えは目の前にありました。

私が守ってきた「家族」をこれからもっともっとよくしていく。

「夫婦」「家族」は作っていくものなんだと思います。

「いい人」と「いい人」が結婚すれば「いい夫婦」ができる訳ではないんです。

ましてやうちはもともと二人ともすごい人でもない。お互いそこそこの凡人同士です。

「あーうちは本当にいい家族だなぁ」といつもちゃんと思えるように頑張って作っていくしかないんですよね☆

 

 

誰の言葉か知らないけどこんなセリフを見つけました

 

生きていれば  いつか新しい風が吹く

時間がたてば どんな悩みも違う見え方があると分かって

それが心を強くする 肥やしになっていく

今の苦しみの意味が分かるのは

ずっと先かもしれない。

だから焦らず、今を生き抜くことが大切

 

私も苦しいときはひとまず踏ん張って

それでも逃げたくなったら、ちょっと流されてみて

そうやって少しずつ進んでいきます。

 

 

2020年5月、世の中が新型コロナウイルスに翻弄されている中、ばあばが亡くなった。

 

GWが本格的にスタートした5月2日(土)

AM10時40分ころ母から電話があり

「ばあばが40度の熱で施設から病院へ送られる」と。

 

先に一番近いたえねぇちゃんが施設に駆けつけてくれていた。

コロナ騒動のため発熱患者の受け入れ病院はすぐには決まらず、

12時頃にようやく名古屋第一日赤病院へ搬送されることになった。その間に一度けいれんがあり身体が動かなくなった時間があったらしい。

私は13時に病院へ到着。

 

いろいろ精査された結果16時ころようやく案内された。

その時お母さんと叔母ちゃんも到着しみんなで同時にばあばに面会できた。

 

幸い熱は少し下がっていて、意識もしっかりしていた。

HR:74 BP:120/76 SpO2:100(O2 2L) RR:12 

バイタルはいたって正常だった。

私たちのことはかろうじて少しわかる程度だった。

 

先生からの説明を受け

「熱源はおそらく誤嚥性肺炎、ただしそれよりも深刻な心筋梗塞が起こったようだ」

ということだった。

CTを見せてもらうと、

長年の経過ですでに左前下行枝と左回旋枝は完全に石灰化しており、

右冠動脈からの側副血行路でなんとか心臓が動いていたところ、今回右冠動脈のどこかで梗塞が生じたようだった。

CK800 

つまり もう心筋梗塞が発症してから数時間経過していると考えられた。

その中でよくその時意識もしっかりあり、誤嚥性肺炎も最低限で済んでいたものだ。

 

ばあばの生命力に驚いた最初の瞬間だった。

 

おそらく主治医からDNARを確認されるだろうと思い、お母さんに伝えたけど、

そんなすぐには決められないもので、

結局改めて主治医の先生から直接その説明があるまでじっくり相談もできなかった。

救急搬送されてすぐDNARなんてゆぅ話は家族だからこそ切り出しにくかった。


主治医の説明の後、私から母と叔母にもう一度、積極的な治療ができない理由を説明し直し、

半ば誘導するような形で、ばあばのDNARを決断した。

 

これまで何人ものDNARを確認してきたが、自分で家族のDNARを決めることは、やはり苦い経験だった。

 

その次の日母が必要物品を届けたときにはHR40だった。

感染が悪化して頻脈になっているよりはいい、

少しずつ徐脈になっていく方がしんどくはないだろうと思った。

 

5月4日夜、ばあばがいつどうなってもおかしくないと思い、やれることをやっておかないとという意識が働き、5月5日の朝4時まで仕事をしていた。

 

その1時間半後の5時半頃

「脈が30を切ってきた」という連絡が入り、

私と母、父も新幹線で駆けつけた。

 

6時半の時点で私たちはまだ最寄駅、たえねえちやんはもうちはるちゃんと病院に着いてくれていた。

一方、姉は母からの連絡に対して最初

「うん、じゃ、いってらっしゃい」と言ったらしい。

その後来ることにはなったものの、なぜか車で来ようとしていて、父に急かされてようやく新幹線に乗ってきた。

結果、私たちより1本早い新幹線に乗れていた。最初からそうすればよかったのに。

急かされた当て付けかのように喪服は持ってこなかった。もう会えないと諦めているのにどういう判断だったのか?

一連の行動が相変わらず理解できなかった。

 


とにかく「なんとか間に合いますように」と祈りながら向かった。

 

病室に着いた時ばあばは比較的穏やかそうに見えた。

HRは50ほどまで戻っており、入院した時より意識もしっかりしていた。

到着した私たちのこともある程度わかってくれた。

 

そこから長い長い最期の時間が始まった。

 

時々心筋梗塞による完全房室ブロックが起き、アラームがなるものの、また脈が復活するという経過が繰り返された。

それでも10時頃には一緒に郡上踊りを踊ってくれた。

「おばちゃんも杏奈ちゃんも来るよ、もうちょっとかかるからゆっくり待とうね」というと頷いてくれた。

 

11時頃2人が到着し、話をした時も時折笑顔を見せてくれた。

 

みんなでこうしているうちにまた徐脈が進んで亡くなってしまうのかな、、

この時はまだそんな風に想像していた。

 

仙台から駆けつけた達也が到着するのは18時くらいだった。

そのちょっと前が少し不安定で、何度も心停止が起き、何度もみんなで声をかけた。

 

18時過ぎに全員が揃った。

 

そこから21時頃までも変わらない時間が続いた。

みんなの顔を一人一人じっと見つめ、誰がいるかちゃんと把握しているようだった。

「まほだよ」と言うと頷いて「かわいいね」と言ってくれた。

 

夜は付き添いの人数を少し減らす必要があり

姉は一旦大阪に帰り、喪服を持って旦那ともう一度車で戻って来てホテルに泊まった。

杏奈ちゃんと達也もホテルに泊まり、

私と母、おばちゃん、たえねえちゃんが病室で付き添った。

 

22時頃初めて硬直間代性けいれんを伴うてんかん発作が起きた。

酸素化は悪くないし、脳血流が不足していることが原因かと考えた。

 

その後3時頃まで数回繰り返したが、その間でも少し話せた。

「なんでこんなことになっとるの」

「私はもう死んじゃうの?」

「私は仏さんになったの?どうやったら仏さんになるの?」

 

自分の状況をなんとか理解しようとしていたのかもしれない。

でも、上手く説明してあげられなかった。

「なんでいるの?」と言われても「一緒に寝ようと思って」と答えるのが精一杯だった。

 

しばらく眠るような沈黙があった後突然

「あの人たちどこいった?」

「誰?看護師さん?」「ちがう、ちがう、あの人たち」

 もしかしたら三途の川の向こうの人たちか?と思うような発言もあった。



ばあばは時折右手を上げて、空に降ろす仕草をした。「何とも言えん」「どうにかならんのん」と言われたがどうしてあげることもできなかった。

えもいえぬしんどさがばあばを襲っていた。


それでもばあばはなんとか自分を取り戻し

「明日の予約入ってないでしょ」

「1人だけいるよ、私(たえねえちゃん)がやるで大丈夫だが」

「私聞いてないよ。予約入ってないでしょ、そんなの初めてだもん」


これは認知症初期に繰り返された問答そのものだった。


あぁ、少しずつ記憶を辿っているんだね、と思った。

 

3時ころから6時半ころまでは少し落ち着き、アラームもほとんど鳴らなかった。私たちもようやく少し眠ることができた。

 

朝、もう死ぬだろうと予想されているはずのばあばに、採血とレントゲン検査があった。

何のためにするのか?と思ったが我慢して黙って見ていた。

 

身体が起き出すとまたアラームが鳴り止まなくなった。てんかん発作も再び始まった。

てんかん発作が起きる直前は心筋壊死の痛みが襲うようで、ばあばはベッドの柵にしがみつき、歯を食いしばって無言で堪えていた。

そのあまりに懸命に耐える姿を見る度に涙が溢れた。

 

看護師はてんかん発作には見向きもせず「陰洗しますけどいいですか?」と入ってきた。

私たちが今は発作も起きてるし汚れてないからいいですと言っても、決まり事のように陰洗を強要した。

 

「うんちが出そう」と話した後、本当に大量の固形便が出た。可哀想に、もう一度陰洗が必要になった。

 

10時頃から目に見えててんかんの回数が増えてきた。

目が上転するし、呼吸が一瞬止まったようになるし、、

だから、見ているみんなも辛いだろうと思い、思わず目を隠した。

それに、直前の痛みを堪える様子は本当に辛そうで、ばあばを呼び戻したいけど、呼んでもう一度その姿にさせてしまうのが申し訳なく、声を潜めるしかできなくなった。

 

 

途中呼吸がいつもより長く止まった瞬間があり、タイミング悪く看護師が入ってきた。

そして突然頸動脈に手を当て、死亡確認するかのような仕草をした。

「ちゃんと止まったらこちらから申し出ますので」と出ていかせたが、

その後も無理やり当直医を呼び、本当に死んでないかの確認があり本当に嫌な気分になった。 

 

ばあばも危険を感じたのか、その後が本当に凄かった。

一番最初は「名古屋場所に行かないかんでしょ」から始まり、あぁ、大好きな思い出を辿っているのかなと思った。

 

その次のてんかんの後は、名前を呼んでお母さんと叔母ちゃんを隣に座らせ遺言を言い渡すかのような時間があった。

 

みんなで思い出話をしていると

「2人を競争させることで…」という教育ママ発言もあり、

お母さんには「叔母ちゃんをよろしく」と

叔母ちゃんには「杏奈と達也はどうするの?」と心配し、母にもう一度「杏奈と達也もよろしく」と話した。

「人のマネしても長続きせん」という名言も出た。

 

「もうすぐ母の日だね、何が欲しい?お肉?お花?」というと

「それは消えて無くなるものだから。形に残るものがいいよねぇ」とも。笑

本当にもう、認知症のばあばではなくなっていた。結局「ルビーのネックレスがいい?」と聞くとしみじみと「そうだねぇ」と頷いた。

ばあばとお母さんと叔母ちゃんの親子の大事な時間に見えた。

 

なのに、横槍を入れるかのように姉が割って入った。「私には何かある?」と。。

病室の外で旦那とイチャつきながら、時々見にくるような感じなのに

「ばあばありがとうね、着物もピアノも雛人形も全部もらうね」と貪欲な発言を繰り返した。お願いだから黙っていて欲しかった。

 

ばあばはふと私にも目を合わせてくれた。

「ぶどうがあるからもらってね」

まるでばあばのところに遊びにきた時のようだった。

 

その後も少しずつみんなの顔を確認しながら話をしてくれた。

「みんなかわいいねぇ、こんなに集まってもらって私は幸せ者だわ。」と言ってくれたのが嬉しかった。

こんな風に周りに感謝して死ねるようになりたいと思った。

 

夕方、てんかんが数分おきに起こり、さすがに見ているのがつらくなった。

鎮静について当直医も含めて相談したが、死を早める行為はどうしてもできなかった。

 

だんだんてんかんの間に話すことも難しくなってきていた。この頃には右手を上げて何かをよじ登るような仕草があった。


結局19時ころまでみんなでそばにいて順番に休憩することになった。昨日お風呂に入っていない私と母が先に病室を出た。

姉は若干帰りたそうにして見えたので、一旦大阪に返すことにした。母の提案をすんなり受け入れ

「じゃ、次は告別式で」と立ち去ったらしい。


ばあばはてんかんのせいで舌を切ってしまったが達也が上手に向きを変えてくれた。

姉が立ち去る直前にばあばの目にタオルをかざすとその後てんかんはもう起きなくなったらしい。

眠るような時間があった後、下顎呼吸が始まったようだ。


私たちは20時半ころ病院に戻った。本当はここで休憩を交代するつもりだったが、

下顎呼吸を見て、みんなに留まるように言った。

もしかしたら間に合うかもと思い、姉も呼び戻そうとしたが、

「私が行って何かすべきことあんの?」と言われた。もう本当に人でなしだと思ったがいない方がいいなとも思った。


そのまま残る全員で見守った。

だんだん下顎呼吸も弱まっていき、

20時52分頃止まった。


母は明らかに動転していた。

休憩から戻った時に下顎呼吸だったことがまずショックだったのと、姉との連絡で気持ちを落ち着かせられなかったせいだ。母が慌てて医者を呼ぼうとしたけど、もう少し待てるよ、と落ち着かせた。医者を呼ぶのはみんなが受け入れてからでいいんだから。


20時58分死亡確認


ばあばが生き切った。



これまでの医者人生で総勢20人ほど見送ってきたけど、こんなに生死を行き来した人はいなかった。


明らかに認知症はどこかへ吹っ飛んでいたし、

止まろうとする心臓を少しずつ休ませながら、まるで自分で操作しているかに見えた。



壮絶だけど、ばあばの気持ちが詰まった、不思議な奇跡の2日間だった。



辛いこと、しんどいことに負けず、強く強く生きてきた人だった。それを証明する最期だった。


ばあばの死を悲しむだけじゃなく、その生き様を胸に刻もうと思った。こんな凄い人の孫だということに誇りを持とうと思った。


コロナの最中だったけど、連休中だったから、ばあばをみんなで囲んで長い時間一緒に過ごせた。

コロナだったから、混雑に遭うこともなく、すぐに駆けつけてこれた。

コロナだったから、お葬式も近しい人だけできちんとできた。


そして最期を飾る写真は、かつて私が撮った一枚だった✨





ありがとう、ばあば👵

どうかみんなを見守っていてね✨



1月から仕事復帰し、
毎日を過ごすのがやっと。

なかなか落ち着いてブログを書けずにいました。


今日ようやく重い腰を上げてます(o^^o)


1月4日からゆうしを院内保育園に預けました。
この頃はまだ寝返りに目覚めた頃で
四六時中指吸いしてました(笑)

保育園の最初は気分が不安定で廊下に出させてもらったりしながらなだめてもらってたみたい。

でも数日で慣れてくれて
毎日バイバイする時もニコニコして
私はあまり不安もなく仕事に向かえました。

ただ、久々の仕事への緊張や不安は
自分の予想以上に大きく
すごく頑張りたい気持ちと
時間制限がある中で、責任が持てる自信が無く
割り切るしかないのはわかっていても
なかなか気持ちの持ちようがわからずいました。

そのせいか復帰1週間で私が39度の高熱!
インフルだったかもしれないけど検査は陰性

ゆうしが熱を出す覚悟はしてたけど
まさかの自分?!

その準備は全く考えてませんでした💦

結局ゆうしの送り迎えをけんちゃんにお願いして

二人はけんちゃんの実家で過ごし
私は隔離状態になりました(/ _ ; )

はぁ〜なんて情けない

その間母乳をあげられなかったせいか

回復後、母乳の出がまたまた悪くなりました。

さらに今度はゆうしが発熱。。

風邪から胃腸炎になり大量の下痢

結局熱が下がって元気にはなって7ヶ月を迎えたものの

その後下痢はどんどん酷くなり

乳糖不耐症になってしまいました、、、


おしりもだいぶ荒れたしほんまに可哀想やった


ミルクをノンラクトに変えて速攻で下痢は治まりました。

もっと早く疑ってあげたらよかった。。

ちょっと待ちすぎたなと反省しました。

そんなこんなで大変だった1月を乗り切り

迎えた2月1日

初めて10秒ほどお座りをしました!

そしてこの頃からずり這いもよくするようになり

日に日にお座りとずり這いが上達していきました

初めはクロールみたいな動きで必死に前に手を伸ばしてバタバタしたり
結局後ずさりしてしまってたりってだけやったのに

もうドンドン前に前に突進していきます


毎日何かしら習得してる感じで

頑張ってるんやなぁと

おまけによく喋るしよく笑う!

これでよく食べる!って言えたらよかったんだけど


これはもう少し時間がかかりそう(笑)


ゆうしの気分によって食べる量はマチマチです


これが今後の大きな課題になりそう

ゆうしがしっかりハイハイできるように

お家を綺麗に保って

しっかり食べられるように

美味しい離乳食を作ってあげるのが

私たちの課題です

ゆうしの課題は

朝までぐっすり寝れるようになることかな

その他は…

人見知りなし

動くもの、音のなるもの大好き❤

バナナ最強💓

ミルク足すことで体重も増えて

67cm. 7.75kg

お座りとずり這いができます(o^^o)

うん、文句なしの成長

バタバタの日々の中で楽しく保育園に通ってくれてることに感謝です

ありがとう、ゆうし、がんばるよ

とうとう半年を迎えました!


5ヶ月を迎えた時に初めて風邪をひき

治った後11月28日から離乳食を始めたけど

12月7日に私の学会に連れて行った後から
早くも突発性発疹にかかりました

ほんま教科書通りの経過で
高熱が4日ほど続いた後
解熱の前後くらいから発疹が出現し
2ー3日で完治しました

風邪の時も突発の時も
弱った時は泣き方までしおらしくなるから可愛い💕
ひたすら一緒に寝てあげました


寝返りは11月24日にして以来
10日に1回くらいの頻度でして

だんだん感覚が短くなったと思ってたら
12月29日の夜突然覚醒!!

連チャンで何回も何回もコロコロし出しました!

突然の成長に父もびっくり(笑)


離乳食は突発のせいで少し停滞してたけど

お粥、りんご、みかん、バナナ、かぼちゃ、じゃがいもはなんなくクリア
今人参に少し抵抗あるようです

もうすぐ私も育休が終わり
仕事復帰
つまり
ゆうしは保育園デビュー

なのでとりあえず初めて食べるものをなくそうとがんばってます


なんだかんだ生後半年もあっという間でした

それでも
天理時代には考えられないくらいゆとりの一年で

ゆうしもたった半年やけど、小さな成長がいっぱい!
表情も日に日に変わってきました


一つ一つの行事も、旅行も何もかも新鮮で
ドキドキの連続だったけど
家族の時間をいっぱい作れて楽しかったなあ


息子のおかげで今年もたくさんの友達に遊びに来て頂けて家族で賑やかに過ごせました😆

一大イベントとなった自宅もリフォームが終わり、ほんとに質のいい家を作ってもらい
ここからが本当の、家族の生活のスタートです!


子育てしながらの仕事…
どう考えても子どもが第一だけど、そのせいで患者さんに迷惑や不安を与えてしまう働き方にならないか…
一体モチベーションをどう操ったらいいのか…
きっと毎日模索しながらやっていくのでしょう💦
ま、周りには自分よりがんばってるママさんはいくらでもいるので、きっとなんとかなると信じて✨がんばります!


育休半年って短いと言われることも多いけど、
ほんまいい時期に産まれてくれたので
お正月も家族でゆっくり過ごせて何より


ゆとりのひとときを満喫して
今年は仕事も家庭もがんばります
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この1ヶ月でまたまた成長が見られました!


大きなイベントとしては

私の試験を兼ねた東京旅行があり

姉の結婚式があり

それらを乗り切れるかが課題でした


11月に入ってもなかなか日中の授乳間隔が空かず

もやもやしてたけど、

まさかの東京旅行をきっかけに

日中4時間間隔に伸ばすことに成功

新幹線の中もおっぱい飲んだらぐっすり眠ってくれて

友達に会って話してる時は静かに遊びつつまたもや寝てくれて

私の試験中も2時間ベビーカーで爆睡でした


まぁ、授乳間隔が空いても私の手が空くわけではなく

抱っこの要求やかまって要求は相変わらずなので

あんまり負担は変わらんけど(笑)


それでも成長が見れて嬉しい旅行でした😆


そこから2週間後の結婚式では

親族集合時間から式が終わるまでの8時間!!

授乳で席を離れた時に少し泣いた以外は

みんなの前でお利口に過ごしてました!

いろんな音がするからろくに眠ることもできなかったのに

泣いて退場することなく、ただただ可愛くいい子にしてました

大人に気ぃ遣いすぎちゃうか?!って

心配になるくらいいい子でした!

そしてその一日の我慢を帰りの車で一気に放出してくれました(笑)


何はともあれすごく賢い1ヶ月を過ごしてくれ

言うことなしです


あ。でも最後の最後、5ヶ月を迎えた日に

私の風邪を移してしまいました

ごめんよ、、

風邪の時はどうやらしおらしくなるみたいで

鳴き声も甘える声も可愛くてたまりません


私も風邪でダウンしてたので

ブログが遅れたけど

風邪が治った昨日、ついに、

寝返りしました!!

ほんま言うことなしの成長ぶりです

いよいよ私の番!離乳食がんばるぞっ!
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市の4ヶ月健診が終わりました

6415g    62.3cm

ゆっくりですが順調に成長しているようです


アレルギーのこともインフルの予防接種のことも相談できたのでよかったよかった
予防接種の時はいつもギャン泣きをどう治めるかに必死で相談できてなかったから(笑)


この1ヶ月でまた変化がありました

正式行事のお食い初めもなんとか無事におわり

10月3日くらいから少しずつ首が座りだし

夜も5-6時間寝る日が出てきました!!

夜眠れるだけで体の負担が全然違う!

あと、お風呂が少し怖くなったみたい(笑)

入った途端ちょっと顔がこわばって

浮かせてみようとすると手足がつっぱる

水がかかると泣きそうになる

でもこれも最近ではまた変わってきて

浮かせてもびっくりしなくなったし

石鹸混じってないお湯がかかるだけなら泣かなくなりました

短期間でも違うもんです


そして初めての家族旅行に行ってきました

けんちゃんとけんちゃんのお母さんと4人で徳島へ

ドライブ中はぐっすり眠ってくれて

帰りは少しギャン泣きしたけど

徳島のひいばあちゃんとひいじいちゃんたちに愛想ふりまいてきました

うつ伏せで過ごせる時間も増えてきてて

最近はメリーよりもコロコロするおもちゃの方が楽しそうにしてます

育休も半分を過ぎてしまい

ゆうしとゆっくり過ごせるのももう少ししかないと思うと

毎日が貴重です

そろそろ離乳食のことも知っておかないとな


私個人のことではもうすぐ外科専門医の試験があり

ゆうしが寝た後にちょこちょこ勉強してますが

半年ほど職場を離れただけでも
仕事モードの頭の使い方を忘れてしまってるとこもあって

不安だらけ〰

ま、がんばります!


ほんとは英語の勉強もどうにか組み込んでいきたいんだけど

それはまた頭の隅に置いておこう(笑)


けんちゃんは肩身がせまいであろう私の両親との同居に頑張って生活してくれてます💫


まぁ、家出るの早いし帰るの遅いからほとんどおらんけど(笑)

私もけんちゃんのお弁当と家族の料理

なんとかやってます


1月からどんな生活になるんやろう…


ゆうしの離乳食も始まって

私の仕事も始まったら

けんちゃんのお弁当はできる自信ないな…

ま、今は大きな壁と思うことも

その時になればなんとかなって行ったりするのが

これまでの常なので

けんちゃんと協力してやってくしかないな!


できるだけ楽しく


楽しくなる努力をしよう

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この笑顔にはどんな困難も吹き飛ばせる気がする
もぅ3ヶ月!

1-2ヶ月の頃から比べたら私も育児に慣れて来たのか
時の流れが早く感じるようになってきた


結士は確実にしゃべる量が増え
毎日ふにゃふにゃ喋ってくれます

そして確実に昼間と夜がわかるようになったみたいです


毎朝5時半から6時半に目が覚め

両足上げてフンフン言いながらキバってます

出ればご機嫌に笑い

出なければ泣きます

なぜにそんなににこだわるのか…

キバってる様子が可愛すぎて

体操手伝いながら毎朝笑ってます


日中は私の都合で散歩したりして


夕方5-6時くらいでお風呂に入り


8時までには寝るようになりました


とはいえまだまだ日中も夜も授乳間隔は2-3時間程度


だんだんまとまって寝るようになると言われるけどそれはいつになるのやら…


ま、今は仕事してるわけでもないのでそれでも構いません(^^)


悲しかったことは…

アトピーっぽい湿疹が出てきたこと


9月上旬から急に汗の量がどっと増えて

両肘に汗疹が出来たなぁと思って

入浴回数と着替えの回数を増やしてたけど

だんだん両膝、大腿、前胸部、額、

最終的には腹部全体に一気に広がったので

さすがに病院へ行きました


アルメタ軟膏で2日くらいで軽快し
今はステロイド軟膏(ヒルドイド+ボアラ)と
プロペト軟膏塗って落ち着いてます


私が食べたものの何かかハウスダストか??
とりあえず遺伝的なアレルギー素因があるので
これから気をつけていかなあかんなぁと


ま、なるようにしかならんので

私にできることは
離乳食開始前に採血してもらうことと
呼吸症状でるかもしれない覚悟をしておくこと

採血でアレルギーわかったら
あらかじめ吸入薬もらえたりせんかな?


とか考えてます


私自身のことといえば

8月に初めて書いた論文が掲載されました!

American Journal of Case Reports

という雑誌

ほとんど上の先生の協力を得ながらだけど

妊娠でオペ件数減った分

論文に費やしてがんばりました

だいぶ嬉しいですね😂


あとは…

来月からうちの1階をリフォームすることに!!!


おじいちゃん、おばあちゃんが過ごしたこの家とは
あと数日でサヨナラです


小さい頃

風邪を引くとおばあちゃんの部屋に行って寝てた

ようわからん子守唄歌ってくれてた

夏はキリンレモンをストックしてくれてて

ガムとか551のアイスキャンデーとか

お母さんにアカンって言われてるものが

おばあちゃんのとこでは許されて(笑)

冬の掘りごたつにはどれだけお世話になったか

中でうずくまってよく寝てました


私がただただ甘えられる場所

それがおじいちゃんとおばあちゃんの部屋でした


まさか30になりそこに住むようになるとは



私が仕事に通える範囲であり

旦那の勤務先にも近く

公園とスーパーと郵便局が徒歩10分以内にあり

他にマンションを探すメリットが全然なくて


旦那がマスオさん状態になることを了承してくれたので

ここにほぼ永住することにしました


そしたら親がリフォームしようと

びっくり仰天でした‼️


しかもそれがこんなに早く進むなんて


いずれ両親が足腰悪くなった時に住みやすいようにという意味も込めて

でもまずは私たちが住まわせてもらいます


ほんまにありがたいというか


甲斐性なしの娘で申し訳ないというか

いつまで経っても親孝行ができずにいます


さぁ、来週からリフォーム完成までは
旦那と結士と両親との5人生活のスタートです

その間に結士はどんどん成長することでしょう


楽しくなるといいな

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生後2ヶ月になりました。

あれから…

ミルクを1回40gだけ足しながら
メインは母乳で頑張って来ました

少し増加量も増えた所で
夜間のミルクをなくして
日中だけミルクを足していって

今日ようやく5キロ超え!!
増加量も1日50g以上になり

これから日中のミルクも半分にしていきます✨


生活は
生後1ヶ月を迎えた後から
上げ膳据え膳を卒業し
旦那と3人の暮らしが始まりました

結士の1ヶ月健診も無事に終え
お宮参りも終了

少しずつ外出にも慣れて来ました✨


そうそう!
この間、地域の助産師さんに
「頭の形キレイやね〜
お母さん頑張って抱っこしてるんやね〜!」
って言われてめちゃくちゃ嬉しかった!

褒められるってこんな嬉しかったっけ?!って
思うくらい嬉しかった(笑)

子ども産んでから
おっぱいのことで
親とケンカしたりしてたから
私はダメな母親なんかなと思うこともあったし
不安もいっぱいやったから
ちょっと褒められたことにすごく救われました

仕事復帰したら
治療頑張ってる患者さんたちも褒めてあげようって思いました

んで
いろんな不安がなくなると
育児って楽しいもんですね✨

しんどいけど…
毎日寝不足で 
もぉ!ってなるときもあるけど

寝顔みたり
変な顔みたり
でっかいオナラの音聞いたり
たまに笑ってくれるの見て

毎日笑顔にさせてもらってます

それでも
1日のほとんどを口の聞けない我が子と過ごすと
誰ともまともな会話をしないで1日が過ぎてしまう日もあって
妙に虚しくなるので

1ヶ月健診終わってからは
積極的に誰かと関わることにしてます

友達たくさん呼んだり
前の職場に遊びに行ったり
地域の親子の会に行ってみたり


旦那の友達や生徒、卒業生も来てくれます

ただ、いっつも
今から来るらしい!とか
今日子ども見に来たいねんて!とかやから……

いや、私にも都合があるねんで!
ただでさえ子どものことでいっぱいいっぱいやのに…!って思うんです…

そら、いつでも誰でも呼べる家が理想やけど
私もできるだけそうしたいけど!
人の家来る時くらいもう少し前持って予定たてへんか?と思うわけです…ふぅ…


でもね
きっと旦那が急に呼んでしまってるんでしょうね…
旦那のキャラからしても
急に行ってもいいとこやと思われてるんでしょうね( ̄∀ ̄)

いや、けども!
自由に人呼びたいなら
せめて自分の荷物は片付けといてほしいもんですよ

そうできないなら余裕持って予定立ててほしいんですよ


まぁ、、それはちょっと無理みたい(笑)


なので旦那側の人はいつも突然訪れます

おかげで私はある程度のキレイさを
常に保たなあかんなという気持ちになり
家事を後回しにすることがなくなりました(笑)

もしやそれを狙ってたのか?!と思うと…

悔しいな(笑)


そぉいえば昔

我が家が
大人から子どもまで
いろんな人が集まりやすい場所になったらいいな
って2人で話したことがあったなぁ

私もそれが理想なんですよねー

なのでやっぱり私がんばります
旦那も私の友達来る時は頑張ってくれてるし!
私も旦那のムチャぶりに応えれるようがんばります(笑)


産まれて2ヶ月

そんなことを考えてます。



結士はまだまだ夜中も2時間ごとくらいに目を覚まします
日中もほとんど寝なくて抱っこを外せないことも多いです

それでも
少しずつ周りに興味が広がって来て
ジムで遊ぶのも上手になってきました
数日前からは
私や旦那のことはしっかり目で追うようにもなりました

日々成長を感じます

私たち親もまた

おっぱいが欲しいのか
ウンチが出なくてイヤなのか
オムツ替えてほしいのか
眠くて寝かしつけて欲しいのか

泣き方の違いがわかるようになり

日々親として成長してます

あまりマメではないので
育児日記はつけないけど
月イチくらいでこうして振り返るブログにしていこうと思います

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大きくなぁれ♡