2020年5月、世の中が新型コロナウイルスに翻弄されている中、ばあばが亡くなった。
GWが本格的にスタートした5月2日(土)
AM10時40分ころ母から電話があり
「ばあばが40度の熱で施設から病院へ送られる」と。
先に一番近いたえねぇちゃんが施設に駆けつけてくれていた。
コロナ騒動のため発熱患者の受け入れ病院はすぐには決まらず、
12時頃にようやく名古屋第一日赤病院へ搬送されることになった。その間に一度けいれんがあり身体が動かなくなった時間があったらしい。
私は13時に病院へ到着。
いろいろ精査された結果16時ころようやく案内された。
その時お母さんと叔母ちゃんも到着しみんなで同時にばあばに面会できた。
幸い熱は少し下がっていて、意識もしっかりしていた。
HR:74 BP:120/76 SpO2:100(O2 2L) RR:12
バイタルはいたって正常だった。
私たちのことはかろうじて少しわかる程度だった。
先生からの説明を受け
「熱源はおそらく誤嚥性肺炎、ただしそれよりも深刻な心筋梗塞が起こったようだ」
ということだった。
CTを見せてもらうと、
長年の経過ですでに左前下行枝と左回旋枝は完全に石灰化しており、
右冠動脈からの側副血行路でなんとか心臓が動いていたところ、今回右冠動脈のどこかで梗塞が生じたようだった。
CK800
つまり もう心筋梗塞が発症してから数時間経過していると考えられた。
その中でよくその時意識もしっかりあり、誤嚥性肺炎も最低限で済んでいたものだ。
ばあばの生命力に驚いた最初の瞬間だった。
おそらく主治医からDNARを確認されるだろうと思い、お母さんに伝えたけど、
そんなすぐには決められないもので、
結局改めて主治医の先生から直接その説明があるまでじっくり相談もできなかった。
救急搬送されてすぐDNARなんてゆぅ話は家族だからこそ切り出しにくかった。
主治医の説明の後、私から母と叔母にもう一度、積極的な治療ができない理由を説明し直し、
半ば誘導するような形で、ばあばのDNARを決断した。
これまで何人ものDNARを確認してきたが、自分で家族のDNARを決めることは、やはり苦い経験だった。
その次の日母が必要物品を届けたときにはHR40だった。
感染が悪化して頻脈になっているよりはいい、
少しずつ徐脈になっていく方がしんどくはないだろうと思った。
5月4日夜、ばあばがいつどうなってもおかしくないと思い、やれることをやっておかないとという意識が働き、5月5日の朝4時まで仕事をしていた。
その1時間半後の5時半頃
「脈が30を切ってきた」という連絡が入り、
私と母、父も新幹線で駆けつけた。
6時半の時点で私たちはまだ最寄駅、たえねえちやんはもうちはるちゃんと病院に着いてくれていた。
一方、姉は母からの連絡に対して最初
「うん、じゃ、いってらっしゃい」と言ったらしい。
その後来ることにはなったものの、なぜか車で来ようとしていて、父に急かされてようやく新幹線に乗ってきた。
結果、私たちより1本早い新幹線に乗れていた。最初からそうすればよかったのに。
急かされた当て付けかのように喪服は持ってこなかった。もう会えないと諦めているのにどういう判断だったのか?
一連の行動が相変わらず理解できなかった。
とにかく「なんとか間に合いますように」と祈りながら向かった。
病室に着いた時ばあばは比較的穏やかそうに見えた。
HRは50ほどまで戻っており、入院した時より意識もしっかりしていた。
到着した私たちのこともある程度わかってくれた。
そこから長い長い最期の時間が始まった。
時々心筋梗塞による完全房室ブロックが起き、アラームがなるものの、また脈が復活するという経過が繰り返された。
それでも10時頃には一緒に郡上踊りを踊ってくれた。
「おばちゃんも杏奈ちゃんも来るよ、もうちょっとかかるからゆっくり待とうね」というと頷いてくれた。
11時頃2人が到着し、話をした時も時折笑顔を見せてくれた。
みんなでこうしているうちにまた徐脈が進んで亡くなってしまうのかな、、
この時はまだそんな風に想像していた。
仙台から駆けつけた達也が到着するのは18時くらいだった。
そのちょっと前が少し不安定で、何度も心停止が起き、何度もみんなで声をかけた。
18時過ぎに全員が揃った。
そこから21時頃までも変わらない時間が続いた。
みんなの顔を一人一人じっと見つめ、誰がいるかちゃんと把握しているようだった。
「まほだよ」と言うと頷いて「かわいいね」と言ってくれた。
夜は付き添いの人数を少し減らす必要があり
姉は一旦大阪に帰り、喪服を持って旦那ともう一度車で戻って来てホテルに泊まった。
杏奈ちゃんと達也もホテルに泊まり、
私と母、おばちゃん、たえねえちゃんが病室で付き添った。
22時頃初めて硬直間代性けいれんを伴うてんかん発作が起きた。
酸素化は悪くないし、脳血流が不足していることが原因かと考えた。
その後3時頃まで数回繰り返したが、その間でも少し話せた。
「なんでこんなことになっとるの」
「私はもう死んじゃうの?」
「私は仏さんになったの?どうやったら仏さんになるの?」
自分の状況をなんとか理解しようとしていたのかもしれない。
でも、上手く説明してあげられなかった。
「なんでいるの?」と言われても「一緒に寝ようと思って」と答えるのが精一杯だった。
しばらく眠るような沈黙があった後突然
「あの人たちどこいった?」
「誰?看護師さん?」「ちがう、ちがう、あの人たち」
もしかしたら三途の川の向こうの人たちか?と思うような発言もあった。
ばあばは時折右手を上げて、空に降ろす仕草をした。「何とも言えん」「どうにかならんのん」と言われたがどうしてあげることもできなかった。
えもいえぬしんどさがばあばを襲っていた。
それでもばあばはなんとか自分を取り戻し
「明日の予約入ってないでしょ」
「1人だけいるよ、私(たえねえちゃん)がやるで大丈夫だが」
「私聞いてないよ。予約入ってないでしょ、そんなの初めてだもん」
これは認知症初期に繰り返された問答そのものだった。
あぁ、少しずつ記憶を辿っているんだね、と思った。
3時ころから6時半ころまでは少し落ち着き、アラームもほとんど鳴らなかった。私たちもようやく少し眠ることができた。
朝、もう死ぬだろうと予想されているはずのばあばに、採血とレントゲン検査があった。
何のためにするのか?と思ったが我慢して黙って見ていた。
身体が起き出すとまたアラームが鳴り止まなくなった。てんかん発作も再び始まった。
てんかん発作が起きる直前は心筋壊死の痛みが襲うようで、ばあばはベッドの柵にしがみつき、歯を食いしばって無言で堪えていた。
そのあまりに懸命に耐える姿を見る度に涙が溢れた。
看護師はてんかん発作には見向きもせず「陰洗しますけどいいですか?」と入ってきた。
私たちが今は発作も起きてるし汚れてないからいいですと言っても、決まり事のように陰洗を強要した。
「うんちが出そう」と話した後、本当に大量の固形便が出た。可哀想に、もう一度陰洗が必要になった。
10時頃から目に見えててんかんの回数が増えてきた。
目が上転するし、呼吸が一瞬止まったようになるし、、
だから、見ているみんなも辛いだろうと思い、思わず目を隠した。
それに、直前の痛みを堪える様子は本当に辛そうで、ばあばを呼び戻したいけど、呼んでもう一度その姿にさせてしまうのが申し訳なく、声を潜めるしかできなくなった。
途中呼吸がいつもより長く止まった瞬間があり、タイミング悪く看護師が入ってきた。
そして突然頸動脈に手を当て、死亡確認するかのような仕草をした。
「ちゃんと止まったらこちらから申し出ますので」と出ていかせたが、
その後も無理やり当直医を呼び、本当に死んでないかの確認があり本当に嫌な気分になった。
ばあばも危険を感じたのか、その後が本当に凄かった。
一番最初は「名古屋場所に行かないかんでしょ」から始まり、あぁ、大好きな思い出を辿っているのかなと思った。
その次のてんかんの後は、名前を呼んでお母さんと叔母ちゃんを隣に座らせ遺言を言い渡すかのような時間があった。
みんなで思い出話をしていると
「2人を競争させることで…」という教育ママ発言もあり、
お母さんには「叔母ちゃんをよろしく」と
叔母ちゃんには「杏奈と達也はどうするの?」と心配し、母にもう一度「杏奈と達也もよろしく」と話した。
「人のマネしても長続きせん」という名言も出た。
「もうすぐ母の日だね、何が欲しい?お肉?お花?」というと
「それは消えて無くなるものだから。形に残るものがいいよねぇ」とも。笑
本当にもう、認知症のばあばではなくなっていた。結局「ルビーのネックレスがいい?」と聞くとしみじみと「そうだねぇ」と頷いた。
ばあばとお母さんと叔母ちゃんの親子の大事な時間に見えた。
なのに、横槍を入れるかのように姉が割って入った。「私には何かある?」と。。
病室の外で旦那とイチャつきながら、時々見にくるような感じなのに
「ばあばありがとうね、着物もピアノも雛人形も全部もらうね」と貪欲な発言を繰り返した。お願いだから黙っていて欲しかった。
ばあばはふと私にも目を合わせてくれた。
「ぶどうがあるからもらってね」
まるでばあばのところに遊びにきた時のようだった。
その後も少しずつみんなの顔を確認しながら話をしてくれた。
「みんなかわいいねぇ、こんなに集まってもらって私は幸せ者だわ。」と言ってくれたのが嬉しかった。
こんな風に周りに感謝して死ねるようになりたいと思った。
夕方、てんかんが数分おきに起こり、さすがに見ているのがつらくなった。
鎮静について当直医も含めて相談したが、死を早める行為はどうしてもできなかった。
だんだんてんかんの間に話すことも難しくなってきていた。この頃には右手を上げて何かをよじ登るような仕草があった。
結局19時ころまでみんなでそばにいて順番に休憩することになった。昨日お風呂に入っていない私と母が先に病室を出た。
姉は若干帰りたそうにして見えたので、一旦大阪に返すことにした。母の提案をすんなり受け入れ
「じゃ、次は告別式で」と立ち去ったらしい。
ばあばはてんかんのせいで舌を切ってしまったが達也が上手に向きを変えてくれた。
姉が立ち去る直前にばあばの目にタオルをかざすとその後てんかんはもう起きなくなったらしい。
眠るような時間があった後、下顎呼吸が始まったようだ。
私たちは20時半ころ病院に戻った。本当はここで休憩を交代するつもりだったが、
下顎呼吸を見て、みんなに留まるように言った。
もしかしたら間に合うかもと思い、姉も呼び戻そうとしたが、
「私が行って何かすべきことあんの?」と言われた。もう本当に人でなしだと思ったがいない方がいいなとも思った。
そのまま残る全員で見守った。
だんだん下顎呼吸も弱まっていき、
20時52分頃止まった。
母は明らかに動転していた。
休憩から戻った時に下顎呼吸だったことがまずショックだったのと、姉との連絡で気持ちを落ち着かせられなかったせいだ。母が慌てて医者を呼ぼうとしたけど、もう少し待てるよ、と落ち着かせた。医者を呼ぶのはみんなが受け入れてからでいいんだから。
20時58分死亡確認
ばあばが生き切った。
これまでの医者人生で総勢20人ほど見送ってきたけど、こんなに生死を行き来した人はいなかった。
明らかに認知症はどこかへ吹っ飛んでいたし、
止まろうとする心臓を少しずつ休ませながら、まるで自分で操作しているかに見えた。
壮絶だけど、ばあばの気持ちが詰まった、不思議な奇跡の2日間だった。
辛いこと、しんどいことに負けず、強く強く生きてきた人だった。それを証明する最期だった。
ばあばの死を悲しむだけじゃなく、その生き様を胸に刻もうと思った。こんな凄い人の孫だということに誇りを持とうと思った。
コロナの最中だったけど、連休中だったから、ばあばをみんなで囲んで長い時間一緒に過ごせた。
コロナだったから、混雑に遭うこともなく、すぐに駆けつけてこれた。
コロナだったから、お葬式も近しい人だけできちんとできた。
そして最期を飾る写真は、かつて私が撮った一枚だった✨
ありがとう、ばあば👵
どうかみんなを見守っていてね✨