煙草の匂い 滲むマスカラ ユニットバス いくら流しても消えないのは何

午前三時の男を待っている。
床に左耳をぴったりつけて、暗くした部屋で消音したテレビを眺める。誰に言い訳するわけではないけど、出来るだけさりげなく横たわっておく。そうすると犬の鳴き声がして三十秒弱で階下の鍵が開く。ビニール袋の擦れる音、台所の金属音。キーホルダーを指に掛けたままコンロの横に手を付いて靴を脱いでいるのだろう。くしゃみや咳払いが聞こえるとなぜか安堵を覚えて、足の指でテレビを消してベッドに倒れこむ。水曜には決まって女が来ているからやらない。

地下鉄駅構内の修理屋で靴を受け取ってその場で履きかえた。苛々すると踵を擦り付ける癖があるせいかすぐ踵が駄目になる。夕方のラッシュアワーには今日がまた濃縮されそれぞれのワイシャツに吸い取られている。不快に思わない体臭もあるものだと思った。地上に出る階段に傘の垂らす水跡と雨の匂いがして少し嬉しくなる。夕立に振り回される振りをする街は好きだ。今から帰らなければいけない掃除していない部屋や溜まっている電話の請求書や、これからもこんな生活が続くのかなんて恒久的な命題なんかまでも、夕立時の芝居がかった巷にうやむやにできる。なんとなくトラムに乗りたくなくて茶沢通り沿いを歩いて、ちょっと表で迷って、古めかしいバーに入った。

ドアを開けると、ビジネススーツ姿の男がソファに座って酒を飲みながらセミアコのギターを弾いていた。店員を目で探していると男はギターを置き、私をカウンターに座らせると、冷蔵庫の中からビニール袋入りの枝豆を出し、そのまま皿に盛って私の前においた。くたびれたグレーのスーツと佇まいに狼狽し、メニューを見ずにビールを頼み次々と枝豆を口に運んだ。彼は戸棚の上からクリアケース入りの写真のコピーを渡した。カールのある長髪にチェックのシャツ。 「私の若いころの写真。」 どうしていいのかわからず、曖昧に笑って写真を眺め、彼に戻した。ビールが減るのが長く感じた。その間彼はずっと私の正面に立ち、時折流しに唾をはいた。
部屋の鍵を開けるとき、ちょっと可笑しくなって声を出して笑った。その日はすぐベッドに潜り込んで眠った。