ま、いっか。のブログ

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「ま、いっか」で人生の悟りを開いた男の、
呑気なスローライフブログ!

もう20年前のこと。

 

東京の府中本町駅の近くにある、東芝府中事業所でエンジニアとして働いていたことがあります。敷地面積がとにかく広くて、ひとつの町ほどの大きさもありました。

 

仕事で良い思い出は全くないのですが(笑)、忘れられないことが一つあります。

この巨大な事業所には当時、たくさん野良猫が住み着いていたんです。そうですね、数でいえば20~30匹ぐらいはいたと思う。天気の良い日なんかはよく建屋の側でお母さん猫と子猫が一緒に日向ぼっこしていたのを覚えてます。通常なら追い出されるところでしょうが、社員の方も割とゆるいというか、猫好きな方も多くて、仕事疲れの後の癒し相手にもなってくれたり。その”町”では社員と猫が共存する、本当に不思議な空間のようでした。

 

でも、ある日事件が起きました。

 

敷地内で猫に餌やりをしていた社員を目撃した、ある動物愛護団体の方(自称なので本当かはわかりません)が、エサの内容について事業所にある提案を申し込んできたのです。餌やりという行為ではなく、餌の内容についてだったと記憶してます。もうちょっといいものを食べさせてあげて、みたいな感じだったと思います。この方にとってはおそらく悪意ではなく、動物に対する善意の気持ちがあってのことだったのでしょうが、そこから招かれた結末は驚くものでした。

 

この愛護団体からの連絡が入った翌週には、事業所内を住処にしていたすべての猫が駆除されたのです。

子猫を含め、一匹残らず処分されました。

 

親猫に寄り添って日向ぼっこしていた子猫たちが、社員の方たちと一緒になって事業所内の横断歩道を歩いて渡っていた光景が今でも思い起こされます。まあ、本来なら事業所内に猫がいることがおかしいですし、ここまで猫が増えさせてしまった側にも責任があるのでしょうが、ここまで鬼になれるところを見て東芝は怖いところだと思いました。

 

それからしばらくして、その拠点を離れましたが、東芝と言えば、いつもその猫たちのことが浮かんできます。

良かれと思って進言することが、必ずしも正の結果を生むわけではない。時には真逆の結果を招くことがあるのだ、と強く学んだ出来事でした。余計なことは言わない方がいい。

 

 

 

 

 

 

 

10年程前に見つけたお気に入りの1枚。

 

絵葉書になっていたもので、調べたところによると京都の宇治 上林茶舗の茶摘み娘らしい(1895年撮影)。

夏の暑い中、仕事を終えた後なのだろうか。つかの間の休息をくつろぐ娘たちの表情からいろいろうかがえて楽しい。


 

左のふたりが右の子を凝視してる理由が気になる(笑)

右の子が笑顔だから、鼻歌でも歌っていたのかもしれないし、さぼっているのかも(笑)

こうやって、何の変哲もない日常にあれこれ考えを張り巡らすのもたまには面白い。

 

しかし、3人とも綺麗な娘。

とくに、立ってる娘は今風な感じもあって、少し驚きました。

もしかしたら上林茶舗の看板娘の番宣写真かもしれないですね。

 

いずれにしろ古き良き時代の、のどかな時間の流れが伝わってくるような素敵な写真です。

 

2023年11月5日、

コディー・ドーマンさんが亡くなった。

 

享年、17歳。

 

競走馬で大親友のコディーズウィッシュのブリーダーズカップ優勝を見届けた翌日の出来事でした。

ケンタッキーの自宅へ向かう飛行機の中だったそうです。

 

生まれつき遺伝性の難病ウォルフ・ヒルシュホーン症候群を患ったコディーさんは、「20歳を迎えることは難しい」と医者から言われ、小さい頃から車いす生活を送っていましたが、5年前に地元のボタンティア財団が主催した”あなたの願いを叶える”イベントに参加した際、少年の膝の上に歩み寄ってきた生後6か月の仔馬に巡り合いました。この運命的な出会いから、仔馬は”Cody’s wish(コディーの願い)"と名付けられ、コディーさんには与えられなかった2本の足を持つこの馬に、競馬で世界一の大レースを勝つという願いを託したのです。そしてまさかまさか、この馬が本当に世界一の馬になるなんて…。

 

 

◇第40回ブリーダーズカップ・ダートマイル(GI)

 

ブリーダーズカップは一年に一回、世界各国の最強馬を米国に招待し、真の世界最強馬を決めるグランプリファイナルのようなレースだ。

 

コディーズウィッシュが出走した世界一決定戦

 

 

レース、凄かったですね。

最後はもう負けるんじゃないかと何度も思ったけど、馬と騎手が泥だらけになりながら、凄まじい意地と執念で勝ちをもぎ取った感じでした。ゴール前の競り合いで馬体接触があって審議対象になった時は、失格になるんじゃないかとヒヤヒヤしたけど、セーフで良かった。観戦に来ていた家族、そして少年への最高のプレゼントになりましたね。レース後のインタビューでコディー君のお父さんが笑顔で泣いていたのがとても印象的でした。

 

じつはレース当日、コディーさんの意識はかなり朦朧としていて容態が非常に悪いことは明らかでした。これは推測に過ぎませんが、もう”その時”が刻々と近づいてることは皆わかっていたのだと思います。兄想いの妹のカイリーが、大粒の涙を流しずっと泣いていたけど、授賞式での家族や関係者たちの涙はとても複雑でいろんな想いが詰まったものだったのかもしれませんね。

 

 

コディー君に寄り添う愛馬コディーズウィッシュ


 

コディーさん、最後までよく頑張ったね。

どうか安らかに。

 
そしてコディーズウィッシュが立派な種牡馬になってコディーさんの名前を永遠に語り継げますように。
 

兄にキスする妹のカイリー

 

 

 

 



かつての愛猫の遺影の前で、ロウソクの灯を消そうとするけれど…

 

 

TikTokからの転載です。

@karenrdz1805 Imposible de creer, la velita por mas fuerte que soplaba no se queria apagar🥺 mi bello angelito vino de visita #viral #parati #altarparamascotas ♬ sonido original - animadas

 

 

見れない場合の予備↓

 

 

 

◆心臓病、骨折、出血・・・闘い続けたオセアニアスプリント界の「伝説」


「頑固でズル賢くて、喧嘩っ早いところもあったけど、レースではまるで”風”に乗るような走りをみせてくれるんだ・・・。今でも彼を愛してるよ。」

主戦騎手を務めきたG.ウィレッツは、後年、マニカトについて聞かれると、そう回想した。
 

「Austrasian Sprinting Legend(オセアニア・スプリント界の伝説)」と呼ばれ、数々の不滅の金字塔を打ち立てた名スプリンターが、わずか8歳という若さでこの世を去ってから20年・・・
多くのホースマンたちにとって、彼のような偉大な馬を世に送りだすことは宿命となり、超えなければならない一つの「ステータス」となった。
南半球史上最強と呼ばれたキングストンタウンをはじめ、サンライン、オクタゴナル、マイトアンドパワーなど、
”ミドルディスタンス(中距離)専門”で活躍する名馬がひしめくオセアニア競馬界において、スプリントを”専門”に走り続けた当馬の栄光と奇跡の生涯は、今も輝きを放ち続けている。

 

                       

現役時代に爆発的な瞬発力とダイナミックな走りでファンを魅了し、オセアニアを翔け抜けた名馬、マニカト。

生涯で挙げた重賞勝利数、なんと「25」うちの9つはGIレース勝利で、わずか2戦を除いて全てがスプリントレースだった

デビュー4戦で不可能といわれた2歳戦最高峰のブルーダイアモンドS(GI)とゴールデンスリッパーS(GI)の2冠制覇。
トラックレコードで連覇圧勝した1980年のジョージライダーS(GI)をはじめ、前人未到というべきウィリアムレイドS(GI)の5連覇、フューチュリティーS(GI)4勝など、輝かしい記録をいくつも残した。2~3年間が選手生命といわれる過酷なスプリント界で、6年間もの長きにわたってオセアニア・スプリントの頂点に君臨し続けた当馬の息長い活躍ぶりは、今日、「競馬史における最も”タフ”な名馬の1頭」と評される所以である。

1982年には、キングストンタウン以来となる史上2頭目の100万ドル獲得賞金馬となり、スプリンターとして異例の競馬殿堂入りまで果たしたマニカトの登場は、当時は裏舞台ともいえたスプリンターの地位を飛躍的に向上させるものだった。マニカトはオセアニア・スプリント界に多大なる貢献を与えたばかりでなく、現在世界最強といわれるオセアニア・スプリント競馬の原点を担った1頭というべきだろう。雄大な馬格、輝く黄金の馬体は、他馬を圧倒する印象さえあったが、なによりファンを惹きつけたのは、苦境に負けなかった不屈の根性と、精神力の強さだった。

 

不遇の幼少期を歩み、後年は度重なる骨折の後遺症や心臓病に苦しんで、その都度「引退」を囁かれてきたマニカト。
体のあらゆる箇所に爆弾を抱え、死ととなり合わせの毎日をおくりながらも苦難を乗り越えようとした彼の不屈の魂は、同じように厳しい境遇で生きる多くの人々にとって、
勇気と希望の象徴であった。

 

 

◆GIレース21勝!? 無敵の快進撃を続けた”スピード・スター


1976年、マニカトはオーストラリアで父MANIHI、母MARKATOのもとに生まれた。父母共にオーストラリア出身馬で、父は18戦して11勝を挙げた活躍馬。
それほどマイナーな血統というわけではなかったが、見た目に地味で貧相な印象を与える栗毛馬だった。しかも他の当歳馬と比べても体が非常に大きく、さらに大きな頭がひどく馬体に不釣合いに見えた。これが人の目には大層滑稽だったらしく、「よくもこんな醜い馬が生まれたものだ」と大笑いする者さえいた。

 

南オーストラリア・イヤーリング(1歳馬売り)セールに出された時も、大きすぎるマニカトの頭の不恰好さは周囲の笑いを誘うだけで、買い手がつかないまま彼は1頭だけ売れ残ってしたのである。困り果てた生産者が、当馬の売価をタダ同然の価格まで下げ続けるとようやく買い手が現れたが、その時のマニカトの売却価格は、わずか$3500(約15万円、AUS$)だった。

 

周囲からもほとんど期待されることもなく育った当馬は、2歳になりボン・ホイステッド厩舎に入厩してからも、当馬の激しい気性を嫌うものは多く、周囲からも敬遠された孤立の存在だった。マニカトは苦労した幼少時の環境の影響もあってなのか、いたく人間不信なところがあり、日々の調教は困難を極めた。そのため、無理やり”去勢”という強行手段も施されたが、手術後もマニカトの難しい性格はほとんど改善されなかったという。(おそらく彼は手術などでは直らないような、精神面の奥深いところにまで傷を負っていたのだろう)

しかし、厩舎によく来ていた騎手のG・ウィレッツだけは、マニカトが調教で時折見せた素晴らしい素質を見抜かさなかった。ウィレッツは自分に敵対心さえ寄せるマニカトをこよなく愛し、もはや「廃用」寸前になっていた当馬について必死に調教師を説得し続けたのである。

のちにマニカトの生涯29勝のうち、実に25勝に按上したウィレッツとのコンビはこうして始まっていくのである。


                       

1977年、新馬戦を6馬身差で勝ったマニカトは、デビューわずか4戦目にしてオセアニア2歳戦の最高峰レースに挑むと、ブルーダイアモンドS(GI)とゴールデンスリッパーS(GI)を2つとも制し、なんとオセアニア競馬史上初の2冠制覇を達成。予想だにしない馬の快走に、周囲は度肝を抜かれてしまった。なにしろ、ゴールデンスリッパーS(GI)といえば、言わずと知れた2歳戦の世界最高賞金レース。毎年様々な地域からトップホースたちが集うことは勿論、レースは牡馬・牝馬の混在戦という厳しいものだ。
 

ブルーダイアモンドS(GI)も2歳馬最強決定戦の一つで、両者はメルボルンとシドニーを跨いで同時期に開催されること、地理的な差やトラックの差も大きくて、この2冠を制することは不可能に近いとされていたのである。驚くのは、マニカトがこの定石を破っただけでなく、2つのレースの間にさらに1レースを消化する(!)というとんでもない離れ業まで見せたという点である。とにかくタフさが尋常ではなかった。
 

マニカト以外にブルーダイアモンドS(GI)とゴールデンスリッパーS(GI)の2冠を達成した馬は3頭しかいないうえ、いずれもマニカトのように両者を中14日間などというハードスケジュールで成功した馬は1頭もいない。なお、この勝利は当時マニカトを管理していたボン・ホイステッド厩舎にとっても、40年以上という長いキャリアの中において初めてGIレース勝利を達成した瞬間であった。2冠馬となったマニカトはこの後、デリーナ・ハンデキャップ戦や強豪があつまる1800m戦フューチュリティS(GI)でも圧勝を飾り、たった6戦というキャリアでGIレース3勝も挙げる活躍を見せたのだ。
 

翌年、3歳になったマニカトの快進撃は止まらない。

マニカトは、名だたる強豪を集めて行われた1350m戦のロズマン(GI)をレース史上最高記録となる負担重量で楽勝すると、続くジョージライダーS(GI)もレースレコードでの圧勝ぶりを披露。さらにオアーS(GII、1400m)、ウィリアムレイドS(GII、1200m)、フューチュリティーS(GI、1400m)に勝利を収めると、マニカトの勢いはとどまる所を知らないのか、次のフレミントン競馬場で行われたマルボロカップ(1200m、GII)、1600m戦のコーフィールド・ギネス(GI)でも無敵の強さを発揮した。マニカトはこの年だけでもスプリント戦の重賞を7勝、合計8勝を挙げる大活躍を見せ、はやくもオセアニアの歴史的名スプリンターであったVain(1969)以来の”スピード・スター”の誕生だ、と紙面を賑わした。

 


        
         ヴェイン(Vain 1965-1991) 

 通算14戦12勝[2着2回]、オーストラリア競馬殿堂馬。
 1969年のフューチュリティS(GI)10馬身差、ジョージアダムスH(1600m)を12馬身差という記録的な大差で圧勝し、世界最速スプリンターの名を欲しいままにした名馬。マニカトが登場するまでは、オセアニア競馬史上に誕生したスプリンターの中でも最高傑作といわれる馬だった。
スプリント戦でレコードを連発し、大差をつけて勝つというVainの恐るべきスピード、そして手のつけようがない無類の強さ。その傍若無人のレースぶりは、当時の人々に今後このVainを超える馬は2度として現れないだろう、といわせしめた。現在でもマニカトと双璧をなすオセアニア競馬の伝説の名スプリンターで、種牡馬としても素晴らしい実績を残した。

 

・・・2年間という長期にわたり、信じられない快進撃をみせるマニカト。もう尋常の領域ではないが、彼が日本の数倍もある広大なオーストラリアの大地を舞台に、東西南北問わず長距離遠征を繰り返して、なんと5つもの競馬場をはしご回しに挑戦し続けたことを知ると、言葉を失ってしまう。
        
1980年(マニカト4歳)には、シドニーに遠征して今度は連覇がかかったジョージライダーS(GI)で圧勝劇で強豪馬を撃砕。前年に自らが作ったレースレコードを塗り替えてローズヒル競馬場のトラック・レコードを樹立する強さを見せた。さらにマニカトはムーンバレーに戻る強行スケジュールの中、まったく疲れを見せずウィリアム・レイドS(GII)を軽々と2連覇し、一流馬が顔を揃えたフューチュリティーS(GI)でも混戦を制して2連覇を果たした。もはや、オセアニアにはこの究極のタフさと強さを兼ねた怪物を前に対抗できる馬はいなかったのである。

 

マニカトはこの年、上記以外でも混戦となったオアーS(GII)2連覇や、ムーンバレーのフリーウェイS(GII、1200m)までを勝利鞍におさめ、まさに記録づくめのビクトリーロードであった。
                       

2歳のデビュー以来、一度も休むことなく戦い続けるマニカト。連戦の激しい戦い、そして長距離遠征の繰り返しは確実に彼の体を圧迫していた・・・。
1981年、マニカトはとうとうレース中に痛めた脚に無理がかかり、
靭帯損傷重度の骨折発症。症状のひどさに一時は再起不能とまでいわれたが、なんとか最悪の事態だけは免れた。だが、著しく疲労困憊していたマニカトは
「心臓発作」の兆候も見せ始めるようになっており、不安定な体調を慢性的に抱えるようになっていた。もともとあまり心臓が強い馬ではなかったらしいのだが、スプリント戦のような過酷なレース中に心臓発作が起これば・・・まず命はない。果たして競走馬として十分に活躍した当馬に、さらに危険なリスクを負わせてまでレースをさせる必要があるのだろうか。関係者たちはマニカトの「引退」という進退も考慮せざる終えなかった・・・。
       

◆なぜ、走り続けるのか

 

かの米国3冠馬のアファームドはよく、「天性の素質ではなく、精神力で走る馬である」といわれた。
 

マニカトの最大の武器。
それは天性に備わったスピードはなく、類まれなる
「ファイト精神(スピリッツ)」であった。主戦騎手だったG・ウィレッツを含め、今も彼を愛し続けるファンの中には、この類まれなるファイト・スピリットに魅せられた人も少なくない。

もしかしたら、ここまで話してきた内容から勘違いされてる方も多いと思うが、彼にはいやゆる「名馬」にありがちな、レコードを連発して勝つような桁違いの強さというものもなかった。むしろレースは予想に反していつも際どいものが多く、苦戦し他馬と接戦となることが殆どだった。ただ、出遅れて勝機を失い、悪化していた心臓病に苦しめられることもあっても、ゴール前必死の形相で走り続ける彼の姿には、他の馬にない何かが・・・たしかにあった。

6年間にわたる47戦において着外はわずか4回。決してあきらめることのない「勝利への執念」。過酷な幼少時代の記憶から、人間不信となり、人と向かいあうことが出来なくなっていたマニカト。誰よりも早くファンの待つゴールへ駆け抜けようとしたその姿を見ると、本当は人間不信の馬などではなく、愛されること知りたかっただけなのかもしれない・・・

 

                       

それは、靭帯損傷と重度の骨折を発症し休養に入ってから1年も経たたないうちのことだった。持ち前の気力でこれを克服し、奇跡的な回復力を見せたマニカトは、ふたたび彼の故郷ムーンバレー競馬場へ帰ってきたのだ。それだけではない。すでに5歳になっていたマニカトは、長期休養明けというハンデを負ったにも関わらず、なんと強敵を揃えたウィリアム・レイドS(GII)で劇的に3年連続同一レース勝利の大記録を打ちたて、復活を願った多くファンの声援に応えたのだ。

確実に残っていた骨折の後遺症。悪化し続け、圧迫する心臓の苦しさ・・・。
だがそんな苦しみさえ跳ね除け、マニカトはムーンバレー競馬場で次のオアーS(GII)で3連覇を果たすと、その年の最強馬が顔を揃えたフューチュリティーS(GI)でも信じられない3連覇記録を達成し、休養明けから無傷の3連勝を飾ったのである。6歳になるころには、やはり度重なる骨折から慢性的な脚部不安からマニカトは敗戦を繰り返すようになった。少し前からレース中に
鼻出血までするようになり、いつ起こるか分からない心臓発作と胸の痛みは彼を苦しめ続けた(鼻呼吸しか出来ない馬にとって鼻腔を塞ぐ「鼻血」は死活問題だ。一瞬で呼吸困難に陥る「鼻出血」は、「心臓発作」を引き起こして死亡する危険性さえあり、それが極端に酸素不足状態のレース中となればなおさらである)。

 

持病に苦しみながらも遠くシドニーにまで遠征すると、重いハンデ戦となったキャンターバリーS(GII、1200m)、大接戦となったフリーウェイS(GII、1200m)等々を制し、史上初のウィリアム・レイドS(GII)4連覇まで遂げて不屈の闘志を見せた。そして35戦目のモアS(GII)で勝利を挙げたマニカトは、ついにキングストンタウンに次ぐ史上2頭目の100万ドル獲得賞金ホースに輝いたのである。

 

実はこれには面白いエピソードが残っている。

1982年にキングストンタウンがオセアニア史上初の100万ドル獲得賞金ホースに輝いたが、マニカトはキングストンタウンがレースに勝った当日、全く同じ競馬場の同じコースで行われてたCaulfield Gns(G1)で圧勝し、キングストンタウン同様、100万ドルの獲得賞金を超えていたのである。しかし・・・キングストンタウンのレースはマニカトのレースよりも1時間早く行われていた為、”わずか1時間”の差でマニカトは史上初の栄光を取り逃がすことになった、というのである。中長距離の大レースなど高額賞金レースを制することでミリオネアとなったキングストンタウンも凄いが、さらにハードルの厳しく、当時はそれほど高額でなかった短距離戦という裏舞台で達成されたマニカトの偉業は驚くべきものがある。


マニカトは翌年、7歳にして古馬スプリント戦の最高峰、ウィリアム・レイドS(現GI)で空前絶後の5連覇を達成。続くフリーウェイS(GII)、メムシーステークス(GIII)も勝つと、前年度賞金王となった記念すべきモアーS(GII)では圧勝で2連覇を決めた。最後は3連覇が途絶えていたGIレースのフューチュリティS(GI)を勝ち、同レース通算4勝という前代未聞の新記録を打ち立てて6年間という長い現役生活に終止符を打った。

                       
 
マニカトはスプリンターとしては
異例ともいえる25勝もの重賞勝利数を挙げ、9つものGIレースに勝利GIレース9勝うち、実に8勝までがスプリント戦のGIレースだった(最後の一つは1800m戦)。勝利鞍の中には、5連覇を成し遂げたウィリアムレイドSを含め、後にGIレースへ昇格したレースが12個(全てスプリントレース)にも及んでおり彼が残した足跡がいかに計り知れないものだったかを物語っていた。
 

もしかしたらマニカトは、名馬ジョン・ヘンリー(米)の世界記録を抜き、史上最多の「GIレース勝利数 :通算21勝」という究極のタイトルに最も近づいた競走馬なのかもしれない。当馬のオセアニアでの伝説的な存在は後世に多大なる影響を与えた。ミスターティズやスキラッチ、ベルエスプリッツなど多くの
名スプリンターたちを生み、いまやオセアニア地域は名スプリンターの宝庫として世界に名を馳せており、短距離戦のレベルはアメリカを超えて実力世界一である。


◆ Gone、for the Wind 


                   


 

1984年2月、6年間にもわたる長い競争馬生活を終え、ようやく悠々自適な第2の馬生を歩み始めていた矢先のことだった。マニカトは、原因不明の伝染病にかかり、激しい痛みと高熱に苦しんでいた。権威ある医師団のチームが組まれ、すぐに彼を救命する処置が試みられたものの、伝染病の一種と思われるこの病気は、マニカトの脚を壊死させ、凄まじい速さで彼の体をむしばんでいく。医師団と関係者たちの必死の看護にも関わらず、最後は体の免疫機能をほとんど失うまでに衰弱し、どうにも手の施しようがない状態だった。自立歩行出来なくなり、呼吸困難に苦しむマニカト。見かねた医師が最後の注射を打とうとした時、マニカトは小さな声で、一度だけ嘶いたという。
 

現役時代、さまざまな困難を乗り越え、不死鳥のように蘇ってきた名スプリンターは、2度と目を覚ますことはなかった。
享年、8歳。

あまりに突然の死に彼を愛した人たちは大変悲しみ、そしてこれだけの名馬でありながら年度代表馬のタイトルなど彼の功績を称える栄誉も表彰も殆ど無いことをそれ以上に悔やんだ。不遇に思った当時の関係者たちは、彼の遺体をムーンバレー競馬場に運び、7歳時にウイリアムレイドS(GI)5連覇を成し遂げた
栄光のゴールポストのすぐ側に埋葬し、20世紀が生んだ偉大なスプリンターの死を悼み、栄誉を称えた。さらに競馬場の正門前には「Manikato Garden(マニカト・ガーデン)」と名付けた庭園を設け、彼が一年中美しい花に囲まれて喜べるように、と庭園の真ん中に大きなモニュメントまで飾ったである。ムーンバレー競馬場の運営委員会も、ムーンバレーを愛したこの功労者への栄誉と敬意と表するため、1990年にはウイリアムレイドS(1200m)を”マニカトS(Manikato Stks)”と改名し、レースのグレードもGroup1(GIの意)に昇格させた。

数年後、マニカトが残した功績は競馬委員会でも検討され、オセアニア競馬界に与えた偉大なる貢献馬として最も栄誉あるオーストラリア競馬殿堂馬として表彰された。スプリンターとしてはVainに次ぐ史上2頭目の快挙だった。

                                 



今から20年前。

オセアニアを駆け抜けた1頭の名馬は、

その後多くの馬の「ステータス」となった。
 

どんな困難にも立ち向かい、弱音も吐かず、
ただ他の誰よりも早く駆け抜けようとしたスプリンター、マニカト。
 
忽然と現れ、

そして風と共に去っていったその短い生涯は、

まるで最後まで「スプリンター」としてのプライドを守り通した、

王者のようであった。 
 

( 2003.8.28 ) 
                          
                            

 

1987年に絶滅したとされるハワイ島の固有種、キモモミツスイ。

その美しく、悲しい最後の音声が残されていた。

 

 

動画1:キモモミツスイ、最後の求愛の声

1985年にカウアイ島の奥地で撮影されたキモモミツスイの最後の個体(オス)。既に絶滅し、いるはずのないメス鳥に向けて求愛を続ける姿が心苦しい。
 
 

動画2:今、地球では1年に100万種の動物が絶滅しており、多くの鳥の歌が”殺されている”

 

 

 

”ピポパッ…” 


もしも就寝前に、深い森の奥からこんな幻想的な声が聞こえてきたら。

きっと私なら、知らず知らずのうちに深い眠りについてしまうかもしれない。

なにか不規則な笛を吹いてるようで…どこか心地良い音色。

 

でも、なぜだろう。この声には今にも消え入りそうな、何か寂しくて、もの悲しさを含んでいるように感じてならない…。

 

じつは、この声はオスがメスを求愛する時のものなのだが、音源にはメスからの返事は入っていなかった。

一体、どういうことなのか。

 

19世紀にはごく一般の鳥として、カウアイ島で見ることが出来たキモモミツスイ。しかし19世紀後半には急速に個体を減らし、20世紀初頭には手で数えるほどしかいなくなってしまった。1981年には、遂に1組のつがいを残すのみ(2羽)となり、翌年、ハワイを襲ったハリケーンでメスが死んだと推定された。これにより、オス1羽が最後の個体となったのである。

 

そしてこの残ったオス鳥が最後に目撃されたのは1985年。それ以降は探しても探しても見つからず、鳴き声すら聞こえなくなってしまった。しかし、誰もが諦めかけた2年後の1987年、キモモミツスイの声を聞いたという報告を受け、現地に赴いた研究者が録音に成功した。先の動画は、その時の音源だったのである。

 

 カウアイ島の切立った大渓谷を覆う深い熱帯雨林の奥で、ただ1匹鳴き続けるオスの悲しい笛の音色だけが夜の静寂を包んでいる。この声の主は、もう地上に存在しないであろう仲間たちのことをいざ知らず、そして決して戻ってくることはない求愛相手の返事を何年も何年も待ち続けていたのだろうか。先に私が感じた悲愴感や哀愁は、もしかしたら彼の心情そのものだったのかもしれない。

 

そしてこれ以降、キモモミツスイの声を聞いた者はいない。

ゆえにその答えを得ることも永遠に不可能となってしまった。

 

13年後の2000年、国際自然保護連合(IUCN)は正式にキモモミツスイの絶滅を宣言した。1900年代前半まで、島で普通に聞くことができたと言われるこの幻想的な鳴き声を、我々はもう二度と聞くことは出来ない。

 


キモモミツスイは蜜を吸うフサミミツスイ科の鳥で、ハワイには他に3種存在していたが、19世紀以降の大規模な土地開発や、豊潤な黄金色の毛並みが好まれて乱獲されたため、1930年代にほぼ絶滅してしまった。一方でカウアイ島の土地開発が比較的遅く、20世紀に入ってからだったため、人里離れた原始林の奥地の深いところを住処としたキモモミツスイはなんとか戦後まで生き延びることが出来た。また、他の3種と違ってハンターの標的にされた黄金色の毛並みが、足の太ももの一部分にしかなかったことも幸いしたと思われる。

 

しかし、他の3種を襲った鳥マラリアだけは別だった。

1800年代に貯水池の水や船舶に紛れてハワイに運ばれたと考えられている蚊がマラリアを媒介すると、免疫を持たないミツスイ科の鳥たちはあっという間に駆逐されてしまった(メスの蚊にさ刺された場合、ミツスイ科の鳥の場合、数時間以内に命を落とすこともあると言われており、死亡率は最大で90%にも上るという調査報告もある)。気候変動に伴う気温の上昇により、ハワイ固有種の鳥が生息する高地に蚊が移動しはじめたことも原因だ。これは現在進行形の問題でもあり、実際2種のミツスイ科の鳥が絶滅にひんしている。

 

 

 リンク:Kauai Oo / Moho braccatus – World Bird Names

 

 

 キモモミツスイ 

  現地名:Kauai Oo /学名:Moho braccatus

 

ハワイのカウアイ島に住んでいた固有種。20センチほどの小さい鳥で、名前は脚の毛が豊かな黄金色(キモモ)を持っていたこと、そして花の蜜を吸う習性をもつミツスイ科から命名された。また、上の画像ではわからないが黄色い虹彩の綺麗な目をしていたと言われている。同じ種族は4種いたが、いずれも乱獲や森林伐採、蚊を媒介とする病気、そして度重なる巨大ハリケーンの襲来で20世紀半ばまでに、キモモミツスイ以外の3種は絶滅。そして1987年、デビッド・ボイントンによって記録された音声記録をもって、科目すべてが地球から姿を消した。

キモモミツスイは非常に警戒心が強く、人間の居住地域では過去に1度も目撃されたことがなく、人里離れた熱帯雨林の奥深くでしか確認されていない。この為、人間に発見されず、わずかに生存してる可能性もあるが、特徴的な大きな鳴き声を持つこの鳥は、過去何度かの大規模な捜索でも見つからなかったこと、そして1980年代後半に発生した2つの巨大ハリケーンがハワイに与えた被害が甚大であり、生存は極めて困難であると言わざるを得ない。

2000年には国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅宣言され、アメリカ合衆国魚類野生生物局(the US Fish & Wildlife Service)も2021年に絶滅宣言を提案したが、キモモミツスイが1940年代以降2度の絶滅宣言の後に再発見されていること、カウアイ島にわずかながら人間の未踏の地があることから、きわめて少ないながら、わずかな希望をもってDefinitry Extinctionではなく、Probably Extinctionと考えられ、絶滅ではなく絶滅危惧種に指定されている。

 

 

キモモミツスイが住んでいたハワイ州カウアイ島

 

 

先の動画で専門家が、今後数十年で地球上の生物の絶滅速度は加速し続けるだろうと警告していた。過去と比較して1000倍の速度で地球から姿を消していくだろう、と。鳥たちの”殺された歌声(Killer song)”はもう永遠に聞くことが出来なくなるのだ。

 

19世紀後半までニュージーランドに多く生息していたワライフクロウやカロライナインコ、そして18世紀には推定50億羽という史上最も多く生息していたとされるリョコウバコ。数の多さから簡単には絶滅しないだろうと思われていた彼らは、21世紀を待たずにすべて地球から姿を消してしまった。特にリョコウバコは、1878年にはまだ推定で10憶羽いたものの、1890年には観測が困難となるほど個体数が減少し、1906年に野生種が絶滅した。しかしキモモミツスイのように生態系の変化に対して、極めてシビアな反応をみせる種は、仮に人間の手による環境への介入がなかったとしても、活発化する活火山の影響や気候変動の影響、疫病により、遠からず自然淘汰される運命だったのかもしれない。

 

今我々が日常当たり前のようにみる鳥たちも10年、20年後には見られなくなる日が来るのか。そして我々人類という”種”も、決して他人事とは言えないのだ。

 

 

 

 

 

 

MBS/TBSMBS放送の冠番組のひとつである、「情熱大陸」。

 

様々な分野で活躍する人たちをひとりひとり密着取材して取り上げ、紹介していくドキュメンタリー番組だ。

長い歴史の中でもとりわけ、2003年6月15日に放送されたプロロードレーサー、沖美穂さんの回で流れたナレーションが記憶に残っている。番組の締めくくりに流れたものだが、苦しい時の自分への励みの言葉としているので、皆さんにも共有したく、今回記事にさせていただきたい。

 

■沖美穂さんの紹介:

全日本選手権ロードレースは11連覇(1998年~2008年)。

キャリアのほとんどでチャンピオンジャージを着ていた。

 

サイクリスト あの日の夢~これからの夢 沖美穂さん(前編)「自転車の本場ヨーロッパ 日本人の考え方を捨てて戦う」【ファンライド】 (funride.jp)

 

以下、Wikipediaより引用。

2002年、日本人女子として初めて、欧州プロチームと契約を果たし(フランス籍のCA・マンテ・ラ・ヴィル・78)、同年のトロフェ・デ・グランプールを優勝。2004年のジーロングのレースで3位に入り、日本人選手として初めて、UCI女子ロードワールドカップ対象レースの表彰台に立った。その後、2006年のジーロングのワールドカップ第1戦で2位となった。この成績は現在もアジア人最高位である。オリンピックには、個人ロードレースでシドニー、アテネ、北京の3大会に出場した。
ジャパンカップサイクルロードレース(オープン女子の部)では1998年から2005年まで8連覇を達成し、2007年と2008年に2連覇、合計10回優勝を果たした。2008年の同大会を最後に現役を引退。

 

 

■番組の最後に流れた、窪田等のナレーション

 

…沖はうまく集団に入り込み、

十番手ほどの好位置をキープしていた。
 

だがその時、

アクシデントは起きた。

 

沖が1人コースからはずれている。

 

無線でメカニックの助けを呼ぶ。
 

溝にはまった前輪は、”パンク”していた。
 

すでに先頭から2分以上の遅れ。

最下位に落ちていた。
 

不運は続いた。

 

前輪と同時に後輪もパンクしていた。
普通なら、もうリタイヤしてもおかしくない。


しかしそこには、前を空けてくれと叫ぶ沖がいた。

いったい、どれだけ全力で走りつづければ、
そこにたどり着けるのだろう。

だが、この道を懸命に走り続けなければ、
そこにはたどり着けない。

この道の先に、彼女のアテネがある。


沖 美穂 29歳

ごまかさない。

逃げない。

決して諦めない。

 

 

■この放送回の動画を探しています。もし手持ちの人がいれば、連絡欲しいです。

 個人の閲覧の為だけに使用するので連絡いただけないでしょうか。

 ぜひよろしくお願いいたします。

 

2003年6月15日放送、

情熱大陸 プロロードレーサー:沖美穂 

~自分に嘘はつかない▽アテネ五輪に照準▽欧州ロード全力疾走!日本最速の自転車女王ド根性日記

 

 

このブロブでも何度か紹介している韓国の人気歌手、ペクイェリン(Baek Yerin)さん。

6月5日、日本初のライブが東京、恵比寿で行われたので行ってきましたー!

(会場は撮影禁止だったため、掲載できるものは殆どありませんが…)

 

ライブは、ベースチケットとは別に様々な特典がついたVIPアップグレードのオプションも

販売されていまして、少し高かったのですが…頑張って購入しての参加です!

 

 

〇セットリスト(ファンの方がまとめられたツイッターの投稿から引用)

 

 

あっという間の2時間。最高の夜でした。

まわりが若い女の子ばかりで、会場前の列に並ぶのは中々緊張しましたが、

ライブが始まれば、いつの間にかそんな気持ちも吹っ飛んでいました。

何度聴いたかわからないほどの「maybe it's not our fault」。

ほとんど手が届きそうな距離で歌ってくれた時は、思わず泣きそうに。

 

本当にどの曲も素晴らしく、あれがいいこれがいいと決めるのは難しいけれど、個人的によく聞いている「 I am not your ocean anymore」の終盤で、イェリン嬢がアレンジをかけて高音のキーを引っ張る演出があったんですが、凄すぎて鳥肌が立ちっぱなしでした。大好きな「A Walk」,「Popo」,「Our love is great」,「0415」,「0310」も良き。中盤では、日本ツアーに合せてセットリストに用意されたと思われる、久保田利伸の名曲「LaLaLa Love Song」が。なるほど、ここに持ってくるか、と簡単に予想できそうで出来なかった自分の愚かさを痛感しつつ、でもまあその分、サプライズ感を味わえたのはラッキーだったわけで、終わり良ければ総て良し的な楽観的思考に置き換え、幸福感を堪能させてもらいました。

 

たしか「0415」始まる前あたりでイェリン嬢がヒールの靴を脱ぐと、ジャンプしだしたので楽しくなってみんなでぴょんぴょん跳ねまくったんですが、これがスゴク気持ちよかった。イェリン嬢含め、ライブ会場に来ていた観客全体に凄い一体感を感じました。また跳ねてみたい(笑)。

アンコールでは、まさかの東京事変の名曲「群青日和」のサプライズがあってビックリ。これもスゴクしっくりきて良かったです。そして最後は安定の「Square」で大団円でしたー。

 

(写真)VIP専用ラミネートケースと、物販で購入したピンバッジ、Tシャツ

 

ちなみにたぶん妄想だろうけど。

Maybe it's not~が始まった時、皆が静かに聞いてる中、嬉しすぎて口を大きく開けて、歌ってるよアピールをしていたら、ステージの反対側にいた嬢と目が合った気がした。そしたら、タタタッて自分の前に来てマイクを差し出されてビックリ!一緒に歌えて幸せだったけど、妄想だよね…(それと細かいけど、途中でMaybe it's not~のBGMが一瞬おかしくなって、イェリン嬢が”???”みたいな顔してるのが可愛かった)

 

ジャケットに写る彼女は、写真を見ても素肌の白さは伝わってきますが、実際に間近で見るともっともっと綺麗。まるで陶器のようにツルツルのお肌で、さらに雪の白さにうっすらと桃色がかった桃白色とでもいうんでしょうか。西洋のビスクドールやマイセンの陶器人形を見てるかのような美しさでした。バラ色の真っ赤なリップとのコントラストが、会場のスポットライトによってひと際彼女の美しさを際立たせていて、それはそれは幻想的な美しさでした。

 

 

最後は、VIP特典の最大の特典のひとつでもある、ミート&グリートと写真撮影。

撮影はフロアで行われ、10名1組となる集団撮影でした(全体では10組ぐらい?だったと思います)。しかし、自分の順番が来た時には既に21時を大きく回っていて、かなり時間が押しているようでした。スタッフが慌ただしく先導する中、先に入ったファンの方たちとの間で挨拶が続いていたため、自分の順番が来た頃には、カメラマンの指示ですぐに写真撮影に入ることに…。このため、イエリン嬢と握手が出来ない状況に。

あああ・・・なんという事態・・・これは辛い・・・・。

正直、かなり落ち込みました(笑)

でもまあ、こればかりはしょうがないこと。イエリン嬢も疲れているだろうから早く休んで欲しい、と思っていたら・・・、なんと!撮影の直前にイェリン嬢がファンの間を潜り抜けて自分の所に握手をしに来てくれたんです!

 

えええー!うれしいwww

 

絶対疲れているはずなのに、こんなに気を使わせてしまい、申し訳のない気持ちになりましたが、

でもすごく嬉しかったです。

 

しかも撮影が終わり、今度は女性ファンの皆様方がイェリン嬢とハグしあっていたんですが、

自分は男性なのでとてもとてもそんなことは出来なくて、そのまま帰ろうとしたら、またイェリン嬢が側に来てくれて

なんと自分とハグしてくれたんです。

 

昇天ー!!

北斗の拳のラ王の有名なセリフが頭の中の駆け抜けていきました。

ものすごくファンを大事にされる気持ちが伝わってきて感動しましたし、本当に感謝の気持ちで一杯です。

ありがとうございました。

 

もう、一生分の幸せをもらったような気持ちです。

2週間経ちますが、今でも信じられない。

 

 

 

最高に楽しかったです。また絶対に行きます。日本にきてくれてありがとう。嬉しかったです。최고로 즐거웠습니다. 또 절대로 가겠습니다. 일본에 오셔서 감사합니다. 기뻤습니다.

 

 すごくすごく楽しいライブでした!(客席のちなみに最前列に自分がいます)

 

 

 

■「”自殺はダメ”という言葉は、非常に乱暴で危険だと思うんです」

 

若干24歳、NPO法人「あなたの居場所」理事長の大空幸星さんの動画を拝聴し、大変衝撃を受けました。

 

 

 

 

TikTok 切り抜き

 

 

Youtube(切り抜き)

 

無料フル動画視聴(AbemaTV)

https://abe.ma/3Tx0a1c

 

 

「人にはそれぞれいろいろな悩みがあるし、それぞれの乗り越え方があると思うけれども、

 死ぬ怖さと生きる苦しさが本当にせめぎあってる時に、”その悩みは持続しない、将来はまた絶対明るい未来がある”。この言葉では救われない、と個人的に思っている。」
 

自殺をしようとしている人に、「自殺はダメだ」というのは逆効果になると主張。

また、自殺は死ぬ権利の行使ではなく、追い詰められた末の死であり、生きる権利を行使できなかった結果として起こっている、とも分析されていた。自殺という出口を確保しつつ、いかに生きる権利を行使してもらえるか、が自殺支援の本来の在り方であって、そこに向けて具体的な制度に落としこんでいくことが必要になると説明されていた。

 

今まで自分が考えていたことと真逆の持論の展開に動揺しましたが、大空さんの説明を聴くと納得できました。

 

これだけ難しいテーマにも関わらず、真摯に向きあい、自殺者に対する偏見や誤解、救済システムの問題点や必要とされる対策を理路整然と語られる姿が本当に聡明で感動した。私は今まで、この方ほど相手に寄り添った理解者を見たことがなかったです。

 

言葉ひとつひとつも、とても丁寧に選んでいて、たとえば

(自殺しようとしている方に)いかに生きる権利を行使してもらうか、ではなく

(自殺しようとしている方に)いかに生きる権利を行使してもらえるか、と言っていた。

もちろん自殺支援の現場では、こうした言葉ひとつひとつが悩まれている方にとってはどう作用するか予測できないため、慎重な言葉選びが必要と言うのは理解できますが、それでも上から目線ではなく、あくまで対等に、意見を押し付けないようにされているのは、聞いていてとても優しさを感じる話し方だったと思います。これは私自身の普段の生活でも取り入れていきたいと思いました。

 

論より証拠、ぜひ皆さんに見ていただきたい動画です。

 

 

 

 

 

■溜まり場に”下をみることで得られる安心感”

 

”キショ場”と呼ばれる歌舞伎町のトー横に集う若者たち。

取材班が、ある一人の若い女性に「なぜトー横に集うのか?」と問うと、

すぐにこう答えていた。

 

 

”(自分よりも)下の人たちをみることで得られる安心感がある”

 

 

一瞬、

聞き間違えかと思った。

 

残されたわずかな逃げ場所さえも追われ、手詰まり寸前の中で彼女たちは、逃げ場所を自分の内面に追い求めざるを得ない、そんな究極の精神状況に置かれてるのだと感じた。

 

 

今週、TBSで特集された「居場所を求める若者たち」。

 

若者たちの間で蔓延する孤独と貧困の実態、

親の虐待や暴力に耐えきれず、着の身着のままに日本全国から逃げ場に救いを追い求め、歌舞伎町やグリ下に集まってくる若者たち。しかし次々と逃げ場所は封鎖され、明日の逃げ場所さえも失う恐怖感に苛まれる。リスカ(リストカット)や薬物の過剰摂取(オーバードーズ)に走るものも多い。しかし、あるかもわからない明日へ不安を抱えながら、それでも身を売りながらも必死に生き続けようとする若者たちの姿もあった。

 

 

 

 

この社会的に”弱い立場”の者たちの救済に向けたと取り組みは今も昔もほとんど変わっていないようだった。番組では、警察が補導して親許に帰すも、親が受け入れを拒否するケースもあった。根本的な問題が家庭内にあるなら、それを解決しなければ前には進まない。

そして解決しない場合、児童保護施設へという手段もあるが、受け入れできないケースが多々あるといったシステムの欠陥があったり、保護中は通学できないこと、より厳格な集団生活になじめないものたちへ対策は不十分なままなのである。

 

 

後半、家出少女に「(売春を)やめた方がいいのではないか?」と聞いた取材者がいた。

 

変な正義の価値観を押し付けと、相手へ寄り添う気持ちの欠片もない対応が、本当に気持ち悪かった。今まで、一体何を取材していたんだろうか。

好きでやってると思うのか。

 

じゃあ、明日生きるための生活費を貴方が出してくれるのかい?

親の同意が下りないから身分証も作れない、バイトも出来ない。

家に帰れば虐待と暴力の毎日。

親から絶縁されて帰れない子も多い。


「最初は躊躇したけど、今は今日生きることしか考えていない。未来のことを考えるほどの余裕がない」

 

彼女たちはそう答えていた。