松井今朝子 『円朝の女』 (文藝春秋、2009) の初めの方で、牛込の軽子坂を登り切ったところに屋敷を構えていた 「殿様」 が自分の娘のことを

 「惜ったらものを落として生まれた」

と言ったと語り手が語る。

円朝を師としたものの、あまりパッとせず、噺家をやめて 「五厘」 と呼ばれる仕事をするようになった男が語り手だ。

「惜ったらもの」 の 「惜」 には [あ] とふってある。

その 「殿様」 には 「跡継ぎの若君」 が生まれず、娘は 「まるで凛々しい若衆のようなお顔立ち」 であったので、「これが若君ならどんなによかったか」 との嘆きらしい。


その部分に続いて、語り手が 「あたらしい」 という言葉についての講釈をする。

「新しい」 と書いて 「あたらしい」 と読むのは、ずいぶんと 新しい ことであるらしい。

本来は 「あらたしい」 が正しい。

「新」 という漢字を 「あらた」 と読むことがあることからも、それが分かる。

「あらた」 の 「らた」 を引っくり返して 「あらたしい」 を 「あたらしい」 としたのだ。

国語の歴史には素人だから、いつ頃そうなったのか、いつ頃そういう言葉遊びのようなことが行われて、しかもその遊びだった言葉が定着してしまったのかは知らない。

『円朝の女』 では

 本物のほうが消えて、あとから来た贋物が大手を振ってのさばるのは世の変わり目にありがちなことだと申します

とあるので、明治維新以降のこととしているわけだ。


「新しい」 が本来は 「あらたしい」 であったということは、何かで読んだか聞いたかして、知ってはいた。

ただ、ほぼ完全に忘れていた。

その部分を読んで、「あぁ、そういえば ・・・」 と思い出したというわけである。


せっかく思い出したのだから、メモでもしとこうということだ。

どこかで話のネタにすることがないとも言えまい。


なお、「あたらしい」 は 「あたらしぶ」 とか 「あたらしむ」 とか表現して、これを漢字で書くと 「可惜しぶ」 「可惜しむ」 となるそうだ。

逆に、こいつは読めそうにないなと思うけれど、とにかくそういう言葉があって、意味は 「惜しいと思う」 ことだと 『広辞苑』 (第4版) にあった。


* 「国語の乱れ」 を憂うる人だって 「あたらしい」 という言葉は使っているだろうに、それについては憂えている様子もなさそうなのは、いとをかし。



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