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まきおの隠れ宿

劇団スタジオライフの牧島進一です。
皆様との交流の場をコソッと増やそうとブログを始めてみました(^_^;)
内容は徒然、不定期更新になると思いますが、
宜しくお願い致します!

2017年6月16日。

劇団スタジオライフ本公演「THE SMALL POPPIES」が両チームの幕を開けました。

という訳で久々にブログ更新です(笑)

僕は現在事務所に常勤して、スタジオライフの制作運営にも参加しています。その都合でここ一年、なかなか出演するタイミングが作れませんでした。デイジーも、エッグ・スタンドも、本当は出たかっのですが、客席で皆さんと一緒に見守る立場におりました。それは勿論、とても素敵な時間でしたが、観るたび「出たい」という衝動が湧き上がるのは止められませんでした。

そんなやきもきする中ついに決まった出演。
そして新作。
もう稽古初日ワクワクしまくりだったことを鮮明に覚えています。

そして、長いようであっという間だった稽古場を経て、僕らのスモールポピーズは幕を開けたのです。


今回のスモールポピーズ(以下すもぽぴ)は、舞台中央の円形の盆を中心に物語が展開され、出番でないキャストはその周りに置かれた椅子に座って見守るというスタイル。見守りつつ舞台転換や小道具の準備、そして出番が来れば出演という動きをほぼ全員がしています。

そして、今回のすもぽぴ、ストーリーとして3人の子供たちのそれぞれの想いや葛藤を綴った友情の物語なのですが、その構成や物語の展開はとってもコメディタッチ。それを周りで見守っているみんな。

稽古場からもう、舞台上で堪え切れず笑いが起きるのは勿論、場合によっては普通に声を出してツッコミまで入れてしまう、これまでの作品にはない空気が溢れていました。

「本当はガマンした方がいいんだろうな」

きっと誰もが思っていたはずなのですが、

「いや、無理だって(笑)」

ともみんな思っていたような気がします。

でも、作品の根底に流れるテーマはみんな共通で持っていて(そのテーマはあえて説明しませんが)、それを、ある意味「日常」を描いたこの作品の中でどう表現していくか。それをみんな真剣に試行錯誤していました。

だから、稽古場は笑いが絶えず、かつそれぞれの想いが溢れる、すごく心地のいい空気が漂っていたような気がします。

それぞれが、それぞれの想いを抱えながらも
お互いを想い、繋がっていく。

言ってしまえば、それだけ。

でもそのそれだけが、僕らにとって限りなく尊いものに思える。

そんな作品になっていきました。

とっても温かい、優しい空気の漂う舞台になりました。

手前ミソかも知れませんが、きっとスタジオライフじゃなかったら、この空気にはならなかったんじゃないかって思います。

スターがいる訳でもなく、
ものすごい仕掛けや装置がある訳でもなく、
ただ芝居と、スタジオライフを大切に想う劇団員がいるだけの座組。

でも僕らは本当に、家族のように日々を過ごしていて、なんのわだかまりもなく素直に互いを想うことができる。

それが、今回の作品の空気を生むことに繋がっている気がするのです。

大人と子供を演じ分けるとか、そういったギミックの魅力もありきの作品ではありますが、正直大人と子供を同時にやるって、ライフでは日常茶飯事です(笑)

でも、僕らはそれ以上に大切なものをこの作品の中に見つけた。
そんな風に感じています。



まだ両初日を終えたばかり。

まだまだお話したいことは尽きませんが、未見の方も多いかと思うので内容に踏み込むのはちょっとだけ先送りにします(笑)


改めまして、両チームの初日に駆け付けて下さり、僕らと一緒に子供たちを見守って下さった皆様、本当にありがとうございました!


たぶん僕らが、
この舞台に集まった15人が、

小さな芥子の花なんだな。

小さな花だけど、一つ一つはちっぽけで、決して華やかではないかも知れないけれど、

みんなが同じ場所で、同じ空に向かって花を開いたら、

きっと、素敵な景色になるんじゃないかな。

僕は、そう信じています。

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2016年12月1日。
2007年の再演以来およそ10年振りに、『DAISY PULLS IT OFF』がShinyチームの幕を開けました。

初演を新人時代に体験し、再演も同じ役で出演したデイジー。音響仕込、ロビー飾りと手伝いを重ねている中、またグレンジウッド女学院での学院祭が始まることをワクワクして待っていました。

観劇する舞台の開演前にこんなにワクワクするのは初めてかな。と思うくらいの躍動。
出演したことがある作品より、予備知識がない新作の方がいつもはドキドキなのですが、今回はそれを遥かに凌ぐ期待をしてしまう。

「俺デイジー好きなんだなぁ」

と改めて感じる。

僕は初演、再演とこの作品でベリンダ・マシソンという役を演じていました。
特に初演は自身の怪我による休業からの復帰第1作目だったので、10年以上を経た今でも、舞台、袖、客席の空気、全て鮮明に記憶しています。

事故で怪我をして自身の新人公演を休み、役者を続けるか否かを悩んでいた当時。実は僕にとってはこの作品は役者として再スタートを切ったとても大切な作品だったりしたのです。出演しながらにして、本当に沢山の勇気をもらいました。僕がスタジオライフに入団したのはトーマやLILIESを観たからですが、今まで続けて来れたのは、デイジーという作品に勇気と希望をもらったからかも知れません。

と、話が逸れました(^_^;)

とにかく、僕はワクワクしながらサンモールの片隅で、関ちゃんと並んで開演を待っていました。




はい、ここからです。
ここから多少ネタバレします!
ストーリーに関する部分は極力避けますが、先入観を持たずにマイ初日を迎えたい方は読まないで下さい。すみません




やがて、例のテーマ曲と共に登場するグレンジウッド女学院の生徒たち。
そのエネルギーとテンションに、思わずニヤリとしてしまう。グレンジウッド女学院の学園祭が、始まった。みんな凄く元気に走り回っているけど、あの初登場ってみんな開演間際本当にドキドキしています。僕は初演を新人時代に、再演もまだ若手時代に経験しているのでいつも心臓バクバクでした。久しぶりの再演なので初デイジーを控えている方も多いと思うので、どんな幕開きかは劇場で体験して下さい( ^ω^ )


校長挨拶を経て、始まる劇中劇。
主人公デイジー役を演じる女生徒を演じるのは、我が愛娘うさぴょん。もはや劇団員にすらまくしものうさぴょん贔屓は有名だが、娘を贔屓するのは普通だろ!と開き直る。

設定上、今回の作品の客席に座るお客様は、グレンジウッド女学院の学園祭の出し物を観に足を運んだお父さんお母さん、兄弟姉妹やお友達といった存在となる。

「父兄になるんだなぁ今回は(笑)」

なんて冗談交じりで話したりしていたけれど、観れば観るほどに自分の娘たちを見守っている気分になってくる。

これはきっと、僕がリアルに身内だから、というだけではなく、Shinyチームを見守っていた皆さんが感じた想いであるように僕は思います。

理由は実はあるんです。

観ている最中は勿論そんなこと考えていませんでしたが、今、思います。

それは

「Shinyチームで生徒たちを演じたみんなが、本当に生徒たちだったから」

だと僕は思います。

つまり彼らは、スタジオライフ公演『DAISY PULLS IT OFF』を一俳優として演じる以上に、グレンジウッド女学院の一生徒として、父兄の皆さんに対して、学園祭でのお芝居で楽しんでもらおう!というスタンスでいたのです。

彼らがそういう想いで存在していたから、僕は自然にそれを見守る父兄になっていたのだと思います。

昨日父兄になっちゃった皆さんは、僕の気持ちがきっとわかると思います。

Shinyチームは若さ故、すごく純粋です。まっすぐに役と向かい合い、相手役と対峙して、結果生まれた感情を素直に作品に乗せていきます。
それが今回のシンプルで、飾らない、ただ率直な想いだけが随所に飛び交うデイジーという作品にバシっとハマった。そんな風に思います。


Shinyチームは主演のデイジーがうさぴょん、親友のトリクシーに客演の月岡さん、ジビルに久保ちん、モニカに松村という番手。
ベリンダ、クレア、アリスといった重要な役も客演の皆さんが担っているので、正直隠れ宿的本音としては、

「果たしてどこまでスタジオライフの作品になるのか」

という一抹の不安がありました。
客演さんが新たな風を吹かせてくれる、というのは勿論プラス要素として認識される部分なのですが、Shinyチームに関してはシングルの谷沢さん含めてメインキャストの半数以上が客演さんという過去のスタジオライフ公演ではなかった試み。

きっとスタジオライフを応援して下さっている皆さんにも僕と同じ不安を感じた方もいるのかな、と思います。

しかし、全くもって杞憂でした。

デイジーとトリクシーの友情。

クレア先輩の温かさ。

アリス先輩の熱い想い。

ベリンダの正義感。

そして、ミスター・トンプソンの存在感。

何一つ違和感なく、『DAISY PULLS IT OFF』の世界に馴染み、むしろ彼らと共にあるからこそShinyチームのデイジーの世界は成り立っている。とすら感じました。



そして、何より今回感じたことは、ツイッターでも少し触れた、うさぴょん、久保ちんの著しい進化です。
いや、最近あまり彼らと共に過ごす時間がなかったので気付いていなかっただけかも知れません。

今回遂に主演に抜擢されたデイジー役のうさぴょん。パパの贔屓目抜きにしても、本当に立派に、デイジーとしてそこに生きていました。

うさぴょんに対して凄いと思うことの一つに、彼が本当に女の子にしか見えないこと、ということがあります。
これは以前から感じておりました。

うさぴょんは、衣裳やヘアメイクなしでも、例えば稽古場でジャージ上下にカツラなしで演じていてもしっかり女子なのです。というか女子にしか見えない。これ本当に凄いことだと思います。

今回は主演。デイジーはほぼ出突っ張りなので、実はその理由の一部を見つけてしまったのですが、そこは企業秘密ということで…というか、きっとうさぴょん無意識なんだろうなぁ。だから、普段から女子なんですよね…うさぴょん(笑)

芝居そのものに関しても、数年前とは見違える程の成長を見せています。というより、きっと元々出来る子だったと思うのですが、うさぴょんの場合何か自分の演技に対して自信がないというか、

「こう演じなきゃいけない」

みたいなプレッシャーと義務感に駆られていたようにも感じています。
徐々にそれが抜けていって、本来彼が持っていたポテンシャルまで辿り着いた、という印象。

役者としてはきっと体力的にも精神的にもかなり追い込まれる役にも拘らず、全くそうと感じさせず、本当にただ躍動感溢れるデイジーとしてそこに存在しています。

きっと、今うさぴょんは凄く芝居を楽しんでる。

それが、その躍動感につながって、デイジーという役に直結している。

以前から兆しは見えていたのですが、デイジーという役との出会いはきっと彼にとってかけがえのない糧になる。そんな気がしています。



さてさて、一方シビル役の久保ちん。
これはついに久保のフリータイムが発動した、という第一印象。

元々彼が持っている破天荒な一面がシビルという冠を得てついに舞台上に発現した、と僕は感じています。

素の久保ちんの面白さがシビルの奔放さとフィットして、初挑戦にも拘らず、まるで「もうずっとシビルでしたけど?」と言わんばかりに堂々と存在していました。

うさぴょんと同じく、おそらくは多大なプレッシャーの中に身を置きながらも、その中でシビルとして生きることを心から楽しんでいる。そして、『Blood Relations』を経たからなのか、「演じることをせず、ただ役としてそこに存在する」という芝居に置いて原点でありながら、なかなかに実現が難しい処に着実に近付いています。

砕いて言うと、一見アドリブ部分やキャラクターを際立たせた台詞や振る舞いが目を引くのですが、実はそうではないベースの存在の仕方が先にきちんとあって、「だからシビルはこういう発言をする、行動をとる」というところへ結果的に辿り着いている。この順序が逆だと何をやっても空々しく、時にウケ狙いとして見えてしまったりするのですが、先に礎があるのでシビルとして違和感なく受け入れることができるのです。

役者としては当たり前のことなのですが、コメディに於いては特に大事なポイントでもあります。そこを確実にクリアしてきた久保ちん。本人は

「今回は自由にやってます(笑)」

と軽く言うけど、その自由に辿り着けたのは、これまで経験した作品で着実にその「存在の仕方」を模索し続けてきた結果。努力の賜物でしかない。そんな風に感じました。

そして同時に、面白さだけでなく、彼の「人を大切にする心」がシビルという役の本質にある、実は純粋な心と真っ直ぐさが先にあって、結果としてイジメっ子の立場になってしまっている、という部分と見事に合致しています。役とのフィット感としては久保ちん至上MAXかも知れません。



その他の出演者に関しても感じたこと、素敵なところが沢山あるのですが、ただでさえ長いブログが大変なことになってしまいますので、キャストについては今回はこの辺で。




何より強く感じたのは、やっぱり『DAISY PULLS IT OFF』の世界は、観ているだけで本当に幸せで、優しく、前向きな気持ちにさせてくれるということ。

幼い生徒たちが、幼いが故にシンプルに言葉を紡ぐことで、ダイレクトに観ている者の芯に響いてくる瞬間が沢山あります。

彼女たちの何気ない一言や、

彼女たちにとっては当たり前のことが、

現代を生きている僕達にとっては忘れかけている大切なものとして、深く胸に刺さるのです。

少なくとも僕は、とりわけきっと感動的に描写されている訳ではないちょっとした会話の中で、二度ジーンとさせられ、二度泣かされました。

彼女たちの互いを想うこころが、客席で見守る父兄である僕達と繋がり、世界が一つになる、そんなデイジーという作品。

2時間半の上演時間が物足りないと感じてしまうくらい、本当に幸せな時間でした。



初日挨拶。

キャスト全員が、達成感と、未来への希望に溢れた明るい表情でそこに立っていました。

徹さんも話していましたが、みんなこの作品を通して皆さんに元気と勇気を届けたい、と思い臨んでいながらも、演じている出演者がお客様から沢山の元気をいただいてしまう公演でもあります。

劇団員として、申し訳なくなるくらいお客様に背中を押してもらっているのですが、

同じ父兄の側に立ってみて、

そんなの当たり前だよ、みんな、家族として応援しに来てくれてるんだから。お前らがそんなにガンバったら、背中押さずにいられないよ。

そんな風にも思ってしまいました。


そして僕は彼らからちゃんと、

数え切れないくらいに

元気と、勇気と、優しさと幸せをもらいました。


最後になりましたが、昨日の学園祭初日に駆けつけて下さった皆様、生徒たちを応援して下さった皆様、本当にありがとうございます。過去デイジーに出演していたから解るのですが、本当にこの作品はお客様と一緒に世界を紡ぐ作品です。
彼らを支えて下さったこと、心より感謝しております。



さてさて、本日ついに幕を開けるMysticチーム。

昨日のShinyとはきっとどう考えても全く違う作品になるであろう顔ぶれ。

今日はどんな学園祭になるのか、ワクワクは続くのです。

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2016年8月3日。
ジュニアファイブ「厚い雲に覆われた光」2日目を観劇。

昨年の食卓の華で初めてオノケン作品に触れ、一気にその虜となったまくしも。
今年も本当に待ち侘びておりました。

さてさて、この度は観劇に際して先入観が生まれかねないブログを書きたいと思います。ネタバレには程々に注意を払っておりますが、観劇に際し余計な情報の流入、また邪念が生まれる恐れがあります。取扱いにはご注意をお願い致します。



劇場は勝手知ったるウエストエンド。つい先日スカスカを観たばかり。スリーメン、ヤマガヲクと続けて観ているのでさすがに特に感慨も感じず入場。しかし、

「ここはどこだ?」

入ってびっくり。これから何が始まるんだと期待が高まる美術。昨年の食卓の華の部屋の中の一幕とは全く違う。開演前のひと時、舞台を眺めているだけで自ずと芝居の世界に入り込む準備が整ってしまう。


やがて開演。

僕は観劇の際予備知識を一切持たず観る。

観ながら設定や関係を理解していくのも楽しみの一つであるから、ということもあるが、直感として

「オノケンは絶対予備知識ゼロのお客さんに仕掛けてくる」

という予感もあった。

今でこそ原作のある作品が多く上演され、またレパートリーで上演されるミュージカルや戯曲も多く存在するが、小劇場ブームの時代はオリジナル作品が数多く存在していた。

かく言う僕も90年代に学生演劇で芝居作りに携わり、オリジナルだからこその

「お客さんに作品を理解してもらう道筋」

を作ることはかなり神経を使っていた。
情報過多になると説明的になりすぎて、それはお客様から「観る側自身で物語を紐解いていく」という観劇における一つの楽しみを奪ってしまいかねない。
逆に情報が不足し過ぎると、作品に着いて行けずにお客様が置いてけぼりになって話が進んでしまう。
その辺の計算も含む描き方は、例えるなら絵画を描きながらそこに数式を乗せていくような作業だ。
根っからの文系の僕はこの作業が苦手で、脚本を書き終えて尚、稽古を進める中で台本の直し作業を繰り返していた記憶がある。

と、話が逸れてしまった。
何が言いたかったというと、食卓の華でオノケンが見せてくれたその「道筋」は、僕の感覚では限りなく「絶妙」に近かった。

想像が膨らむ。
でもわからない。
一つ確信が生まれる。
また新たな想像が膨らむ。

そんなサイクル。
そしてそれは、予備知識がない程明確に訪れる。
作り手が「予備知識のない観客」を想定して構築しているからだ。

だからこそ僕は、空っぽの状態でこの開演の瞬間を待っていたのだと思う。

そして、その予感は的中。

おりなす物語は決してポップでキャッチーな作品ではなく、どちらかと言えば心に重くのしかかる。しかし、随所に温かさとユーモアが溢れ、決して暗くは感じない。言葉の妙には磨きがかかった感もあり、序盤から客席でクスクスと笑いが起こる。

日常の中で訪れた非日常。
そして、非日常が日常となった世界。

錯綜する世界の中を旅するうちに、徐々に人物像が組み上がっていくような感覚。

主人公の想いも痛い程に伝わるが、
それだけでなく、登場人物各々の想いが流れ込む。いつの間にか

「皆に幸せになって欲しい」

と願わずにはいられない自分になっている。


今回の作品では「家族」という枠を飛び出し、登場人物も多岐に渡るが、やはりそれぞれに想いがあり、ある意味で街全体が家族のような感覚も覚える。だから、やはり、家族のような温かさが常に舞台の上にある。


きっとオノケンは、登場人物全てを「生きた人間」として描きたいのだと思う。物語の都合で出てくるようなポイントの役は作らない。作品の生みの親としての責任感と、演者一人一人に対する愛情もあるかも知れない。

それ故、役者に課せられたモノも大きくなる。どの役でも中途半端は許されない。
舞台に於いては当たり前のことかも知れないけれど、そこに生きていなければならない。


歌やダンスがある訳でもない。
カッコいいアクションシーンがある訳でもない。
BGMは殆どなく、作品を通して聞こえてくるのは波の音と蝉の声。

でもだからこそ、役者はそこに真実を求めずにはいられなくなるはずだ。


そして今作品、本当に、観ているのが嫌になるくらい、みんな生身で生きて、苦しんで、悲しんで、泣いて、笑っていた。


「芝居のやり方って色々あるけどさ。俺は着飾るのってあんま好きじゃないのよ。俺にとって芝居は脱ぐ作業。どんだけ裸の自分を舞台上で晒せるかだと思うんだよね」


かつてオノケンと共演した時、彼が何気なく話していたことを思い出す。

そして、彼が演出となった今、彼と共に舞台を作る全員が、己の裸の想いを演じる役に内包して、舞台上で真実の想いを言葉と身体に乗せている。


多分僕はそれが堪らなく好きなのだ。


僕の芝居の原点は決してそこではない。
ダンスありアクションありの作品が大流行した時代を生きてきた。

でも、こんなにもオノケン作品に魅力を感じるのは、

僕が芝居を始めるもっとずっと前の、

家族5人が当たり前のように暮らしていて、それがこの先もずっと続くと信じていたあの頃と、


ほんの少し、同じ匂いを感じるからかも知れない。



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