まきおの隠れ宿

劇団スタジオライフの牧島進一です。
皆様との交流の場をコソッと増やそうとブログを始めてみました(^_^;)
内容は徒然、不定期更新になると思いますが、
宜しくお願い致します!

  

    お月様ご訪問頂きましてありがとうございますお月様




                  




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すもぽぴも終演から10日あまり。

メンバーはそれぞれの日常へとしばし戻ったのも束の間、既に次々回公演「はみだしっ子」の製作発表準備や、次回公演「卒塔婆小町」の稽古が始まっています。


さてさて、前回コアラチームを振り返って記事を終えてしまいましたので、今回はカンガルーについて徒然と書きたいと思います。ちょっと懐かしくなるタイミングになってきてしまいましたが、お付き合いいただければ嬉しいです。


カンガルーチーム。

主軸となるクリント、テオ、レップにそれぞれ岩崎大、船戸慎士、松本慎也。ウォルシュ先生に緒方和也が入ったこのチーム。
メンバーを見れば一目瞭然ですが、コアラチームとは全く趣の異なったすもぽぴになりました。


クリントを演じた大さん。
劇団内外を問わず高身長を生かした豪快な役を務めることが多い大さんですが、久々のスタジオライフ出演となったデイジーのシビル、続くエッグ・スタンドでのマルシャンと、その役の振り幅に改めて驚かされました。

大さんはスタジオライフの中ではきっと誰よりも純粋です。本当に子供のような純粋さを持ったまま大人になったという感じで、かつ信じられないくらい優しい。そして芝居に対しては真摯な姿勢を決して崩さない人です。

大さんのクリントは、そんな大さんの個性が色濃く反映された本当に純粋な少年でした。
作品中に起きる出来事たちをただ真っ直ぐに受け止めて、受け入れて、そこに対峙していく。

離れて生活しているパパへの想い。
そんな中恋人を作って自分と引き合わせようとするママへの葛藤。
マリアが転校してしまい、一人で学校に行かなければならない状況への苦悩と軋轢。

序盤からこういった身の回りの出来事を一つ一つ丁寧に受け止め、気持ちを繋いでいく。
だから、大さんのクリントは序盤から感情の振り幅が大きく、ただママに縋る姿を見ているだけでも胸に来るものがありました。

でも、さすが大さん、それだけじゃなくて。
ベースとして丁寧に作品に置かれたクリントの状況を追いながら、大さんならではの、一見「クリントらしくない」大胆なキャラクターを随所に放り込んでいきます。

その純粋な少年のラインと時折見せる大胆な表現が、このすもぽぴが「大人が子供を演じている」という二重構造と合致して、ただクリント少年を全うするだけだとやはり重たくなってしまうところを、気持ちはそのままに笑いに昇華させる。そういった表現になっていました。

これって、実は凄いことで、ベースとなるクリントの性格やその時々の心持ちを本当にしっかり捕まえていないと、ただの悪ノリになってしまいます。大さんの場合は常に「クリントの気持ち」のまま「クリントらしくない」行動に敢えて踏み込む、という道を選んでいました。そして、常にクリントの想いからブレずにいたからこそ、場合によってはネタ入れにも見えるような場面の直後でも、一瞬でシリアスな空気に引き戻すことができる。

これを僕が一番感じたのが、「かたじけない」でした。

ブレナンと学校へ行く行かないの場面で、ブレナンのお遣いに走りお駄賃を貰った際のアドリブです。

直後船戸さんのブレナンが

「いきなりぶっこむねぇ」

と返し、座って見ている僕らは正直

「マズい、戻せるか?」

という空気になりました。

というのもこの場面は、作品におけるクリントの成長過程を示すとても重要な場面。素ネタを放り込むことで作品意図がズレてしまうリスクが大きいところだったからです。

しかし、

「僕、学校へは行かないよ」

大さんのクリントのこの一言でスッと作品世界に戻ったのです。ただ台本に戻った、ではなく、舞台上、客席を含む劇場の空気がたったこの一言でシリアスな作品世界の空気に一変したのです。

僕は盆の後方から眺めながら

「大さんマジすげぇ」

と心の中で感嘆していました。

自ずと船戸さんもブレナンに戻り、結果として笑いを挟みながら作品意図に沿った形のシーンが成立したのです。

大さんの大胆な舞台表現は、繊細で緻密な役作りがあって初めて成立しているんだなぁ。そんな風に思います。


さて、もう一人の我が息子、船戸テオ。
これがまたまた笠原さんに負けず劣らずのやんちゃっぷりでありました。

船戸さんのテオは、印象としては少し幼くて、強がりきれていない感じ。好き勝手やってるように見えて、実は甘えん坊で寂しがり屋の部分が透けて見える、そんな子供でした。

ママと3人のシーンも、僕と二人のシーンも、言葉や態度でやんちゃな素ぶりや反抗的な態度を示すのですが、でもどこかでちゃんと親の様子を気にしていて、「ちゃんとしなきゃ、やりたくなくてもやらなきゃ」というような、子供なりの葛藤とちゃんと対峙している子でした。
そしてそれが、「そうしないと怒られる」といった保身的な理由ではなく、ちゃんと何が正しくて自分がどうあるべきかがわかっていて、ただそこに向かう勇気が足りない自分をなんとかしようとしている。親として接する中で、ホントに一生懸命生きていることが痛いほど伝わってきました。

それでいて、パパと接するときは無防備に甘えてくるので、普段ガンバろうとしている姿を目にしている分なおのこと可愛く見えてしまうのです。

それにしても、体格はホントにどっちが親なのかわかりませんでした(笑)

初登校のシーンで船戸テオを抱き締めるくだりでは、「親子にはちゃんと見えてるのだけど、パパがテオにぶら下がってるように見える」とも評され、やってる方としては全く違和感なかっただけに驚いた記憶があります。

そう、不思議なもので、やってる僕ら自身は全く違和感ないんです。舞台上で僕は船戸さんを5歳のテオとしてしか認識していません。大きいとかゴツいとかオッさんとか全くないんです。確かに5歳児にしては大きいですが、テオはそーゆー子なんだと思うとそれで納得、というか慣れるというか。「船戸さんホントに可愛いですよ」と言うと、船戸さん含め誰もが「マジで?(笑)」と疑ってくるのですが、ホントに可愛い。むしろ何故息子の可愛さがわからないんだとプンプンしてしまうくらいです(笑)

甘えん坊な癖に、ホントは弱っちぃくせに、
一生懸命強く生きようとしてる健気で可愛い子でした。
きっと、凄く優しくて、ちょっとお馬鹿な、
船戸さんみたいな大人になるのかな、なんて思います。


そしてヒロイン、まつしんレップ。
客演で稽古合流が遅れたまつしんですが、合流後一週間足らずで通し稽古という環境の中、急ピッチで三ヶ国語の台詞をインプットするというところからスタートしました。

うさぴょんや僕が日本語での稽古からギリシャ語へ移行したときに恐ろしく苦労したにも関わらず、まつしんはギリシャ語もクメール語もまるで日本語の台本を覚えているかのように流暢に出てくる。

「最初の一文字出なかったら出ませんね、日本語だったら適当に似たようなこと言えるんですけど、さすがに外国語だと言い換えられないです」

とまつしんは話していたけれど、最初の一文字が出てこないまつしんというのが既に想像できない域である。


そして、今回のまつしんレップで一番僕が素敵だと感じたのが、まつしんが決して「5歳児を演じなかった」こと。
チーム問わず、5歳の子供役に就いたキャストはみな、いかに5歳児たるかという部分を役作りにおいて少なからず重きをおき、取り組んでいました。そんな中、たぶんまつしんだけがそこを拾わなかったのです。
まつしんが選んだのは「ただレップであること」だけだったのだと思います。
実は、台本上5歳児という設定がある以上、そこの表現をいかにしようと5歳児であることは揺らぎません。勿論見た目や台詞回し、動きで「5歳に見えない」と認識されてしまう可能性もあります。なので、このまつしんの挑戦はリスクも高いものであり、かつ「ただレップとして生きれば大丈夫」という確信がなければなかなか実現できません。

結果としてまつしんはレップという少女をとても感受性の強い、また物事についての思慮をしっかり持ち、目の前に突きつけられた状況と正面から対峙して立ち向かえる強さを持った人物として描き出していきました。

子供を演じていない故に、まつしんのレップはダイレクトに心の動きが見ている僕らに飛び込んできました。そして、彼が内包している「レップが5歳である」という事実は揺らぎなくそこに存在している。

だから僕には、様々な葛藤と対峙する彼の姿が本当の意味でリアルに映り、かつ「5歳の少女がこんなことを考えるなんて」「今どんな想いでここにいるのだろう」と想いを馳せずにはいられなくさせる魅力があったような気がします。

そして、ことカンガルーチームに於いてはこのまつしんの存在の仕方がそのままチームの空気にも繋がり、賑やかなシーンの中でもレップの想いが浮上し、またレップが一人舞台上に残されるとそれまでと空気が一変するような、ある意味支配力のようなものを持っていた気がします。

きっとまつしんのことだから、コメディタッチに描かれるこの作品、油断すると危ないと認識していたんだと思います。そして、何があっても自分の軸がブレなければなんとかできる。そんな風にも考えていたんじゃないかなぁ。

それでいて、本人も遊べるところはガンガン遊んでいる。だからこそその「自分の軸がブレなければ」という部分も変に周りにプレッシャーを与えることなく存在できる。

今更まつしんに先輩面するのもどうかと思いますが、なんて視野の広い役者に育ったのだろうと正直圧倒されました。

「文句なしのヒロインだった」

公演ツイッターで僕が彼をそう評したのは、そんな理由だったりしたのです。


そして、カンガルーチームの屋台骨を支えていたとも言えるのがおがっちこと緒方和也のウォルシュ先生。

久々に共演して、なんてフットワークの軽い、適応力の高い役者なんだろうと改めて思いました。

おがっちは普段からいい意味でいい加減。
だけど本当はすごく思慮深く、また責任感も強い。でもそれをあまり表には出さないタイプ。

ウォルシュ先生もおがっちの個性が乗っかり、思慮に富んでいながらも小気味好いリズムで物語を進めていく素敵なストーリーテラーであり、また子供たちに対しても押し付けることのない愛情に溢れていたような気がします。

現実でもそうだと思いますが、すもぽぴに於いても子供たちは自由で、また脈絡のない行動が頻出するのが日常でした。おがっちはそれを全部見逃さず、スピーディに拾って拾って、かつ物語が大切にする場面を決して疎かにせず丁寧に紡いでいました。おがっちが初めてスリーメンに挑戦したときの、その日その時のお客様含めた劇場の空気に日替わりで対応していたあの感じに少しだけ似ていて、かつ今回は大人の女性という役の中でそれを実現している。そんな印象。

数年僕より後輩ではありますが、僕にはできないこと、あるいはできたとしても相当苦労するだろうというのとをサラリとやってのけている。

そして、おがっちのウォルシュ先生は、これはおがっちという役者の特徴でもあるのだけれど、

「決して台詞で勝負しない」

これがすごい。

ここいいとこだよなぁとか、重要だなぁと思うと、普通役者は自然とその台詞に重きを置いた表現になります。それも間違いじゃなくて、作品を実現するために必要なことです。
でもそこをおがっちはそういった部分こそ、さらっと、日常的にやる。でも、そこにおがっちがベースで持つ役の想いや戯曲の解釈が根幹に乗っかっているので、さらっと、日常的に発された言葉の中に、そこに込められた想いが浮上してくる。

これがまたまつしんのレップとの相性が抜群でした。まつしんの的確で丁寧な感情表現に対して、それを受け止めるウォルシュ先生が自己の想いを表現し過ぎると、すもぽぴというポップな作風に於いてはそこだけ重たくなり過ぎる。極端な言い方をすれば「お涙頂戴」のシーンになってしまう。でもおがっちは相手の想いを全部受け止めながらも、自分の想いを決して押し出さない。想いはただ、持っているだけ。
ショー&テルでレップのママのくだりでその想いを受け止めるおがっちのウォルシュ先生は、レップへの想いだけにただ始終し、決して自分の想いに入り込まなかった。でも、言葉の端々やちょっとした表情に先生の想いが零れ出て、それが逆に見ている僕らの琴線にそっと触れてくる。
このシーン、おがっちは客席に背を向けるまで決して泣かなかった。後ろから見ている僕らにだけ見えるところで、人知れず涙を零していました。
おがっちはこれらのことを、きっと計算ではなく、役者としての本能や感性でやっているのだろうと思います。
結果として、決して子供たちに弱いところは見せない。子供たちのことを第一に考え、自分は常に明るく、優しく振る舞える、そんなウォルシュ先生になっていた。

ウォルシュ先生役だったから、今回のおがっちがそういう芝居になった訳じゃなくて。おがっちだったから、ウォルシュ先生がそんな先生になった。自己の想いを表現することが求められることの多いスタジオライフに於いて、本当に稀有で、貴重な存在だと改めて思いました。



こうして振り返ると、コアラとカンガルー、全然違ったなぁ(笑)

どっちが好きとか僕には全然なくて、同じくらいみんな好きだったし、同じくらいどっちのチームも大切でした。

テオ役の笠原さん、船戸さんに対してお客様から

「どっちのテオが可愛いですか?」

なんて聞かれたりもしたけれど、どちらも大切な息子。どっちがなんて選べないです。本当に同じくらい、二人とも僕の中で振り切ってかわいかったんです。

そしてまた、今回のブログで触れていない面々も含め、この座組の全員が、僕にはかけがえのない大切な存在でした。


スタジオライフがみな家族のような仲だったからこそ実現したスタジオライフ版「THE SMALL POPPIES」

決して壮大でも重厚でもない、何気ない風景を切り取った作品。

でもこの作品で僕は改めて

スタジオライフの劇団員で良かったな、と
この家族の一員として生きている今が、本当に幸せな生活なのだな、と

そう思ったのでした。

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7月2日。

稽古期間含め約2ヶ月の僕らの「THE SMALL POPPIES」生活が終わりの時を迎えました。

稽古初日、久々の本公演参加でドキドキしながら稽古場に向かった道程。
キャスティングが決まり、笠原さん、船戸さんの父親役を自分が演ることになったときの、嬉しくも「マジ大丈夫か?」と思わずにはいられなかった瞬間。
そして、稽古場にあの盆が仕込まれて、稽古外で無意味に乗っかって回してもらってはしゃいだ時間。
稽古場の盆の周りに座り、「これ本番中ほぼ給水できないよね」なんてとなりの役者と話した記憶。

ついこの間なので当たり前かもですが、あまりに鮮明に蘇ってきて、懐かしむよりむしろ、まだ終わっていないんじゃないか、なんて心持ちさえしてしまうのです。

それくらい僕らは、毎日すもぽぴと向かい合い、その世界に生きることが、当たり前になっていたのだと思います。

だから、ほんのちょっとだけ立ち止まって、頭と心を整理して。それから、また次の世界へと歩き出したいと思っています。

今日は、その立ち止まる時間。
ちょっとだけすもぽぴを振り返りたいと思います。
僕個人の解釈を多分に含みます。役者本人及び劇団の意図と必ずしも一致するとは限りませんので、あくまで一人の観客でもあった、牧島の個人的感想としてお読み下さいまし。


コアラチーム。

クリントに山本芳樹、テオに笠原浩夫とベテランで固めながらレップに宇佐見輝という絶賛成長期の若手を加えたチーム。
3人の担任であるウォルシュ先生には関戸博一が参加。

この一見アンバランスに見えた組み合わせが、稽古を重ねるに連れ、実ににバランスのいい組み合わせだということが見えてきた。

クリントはママ離れができず、ママの恋人に心を許せないナイーブな少年。
過去数々の少年役を経た芳樹さんは役の根幹をしっかり捉え、かつ山本芳樹タイプB(これは僕が勝手にそう呼んでいる、芳樹さんが裏キャストなどで見せる「遊び」部分)を本役であるクリントに果敢に取り入れ、クリントという少年をより子供に、また置かれた境遇に対し重たくなり過ぎないラインを作った。

一見無茶だろうとも見えるこの試みが、逆に5歳故の喜怒哀楽の振り幅の広さに繋がり、かつ決してリアリティから逸脱しない行動線を生み出した。

また、僕が芳樹さんのクリントの凄さを感じたのは、言葉の重さの調整力。
ママに対する自分の想いを伝える場面では決してブレることなく(一部タイプBを入れてはいるものの)5歳の少年の想いを打ち出していく。
しかし、少年故に出てしまう残酷な発言。
序盤のテオに対しての中傷や、終盤、これはクリントにとっては全く悪意がない発言だが、レップに対しての「君お母さんいない」や「レップのお母さんは死んじゃったんだ」という発言。これを子供故の純粋さからくる発言に昇華させ、クリントとしてはその意図なく結果レップが傷ついていくという場面を自然と成立させる。

そして、ブレナンとの会話から繋がる終盤への心持ちの変化の階段の作り方は、一見すると全く違和感がないので当たり前のように映るが、一つ一つクリントの心に響いたワード、出来事を内包していくことで「特に特別な表現をせず」にクリントを成長させている。結果として「これが理由でクリントは変わった」というきっかけを限定させず、5歳の少年が様々な出来事を経て、ほんのすこし大人になった。そんな印象を僕らに与えてくれる。

どこまでが意図で、どれだけが結果としてそう見えているのかは僕には判別できないけれど、少なくともこの階段の上り方は僕にはとても真似できない。針穴に糸を通すような繊細な役作りを長年続けてきた芳樹さんだからこそ生まれたクリント。僕は毎回笑わされまくっていたけれど、役者としてはそれ以上に、この役を構築するセンスの部分で圧倒されていたように思う。

そして何より、芳樹さんの物腰の柔らかさがその繊細なクリントの行動線と相まって、本当に可愛らしく映る。直接絡むことが多くはなかった僕も、沢山幸せな気分にさせてもらいました。

余談ですが、テオパパ登場シーンでクリントママに挨拶した後、クリントにも声をかけていたのはアドリブです。思わず声をかけたくなる。そんな少年でした。


テオは笠原さん。
スタジオライフに入団して以来、ずっとライフ作品の中核を担ってきた大先輩。

いやー

かわいい!

正直、昨年の「デイジー」で主演のデイジーに決まった時はびっくりしました。でも、劇場で観てあまりのかわいさに衝撃を受けていたので、「笠原さん5歳、全然いける!」と思ってはいたのですが…いざ父親として対峙すると本当にかわいいのですな。

親目線でしか見ていなかったので分析なんてできる訳もないのですが、笠原さんはブレナン先生含め、とにかくライブで舞台に立っている人なんだなと改めて実感しました。

毎日全然違う。

表情、瞳の動き、声、言葉のニュアンス。
実は笠原さん、テオに於いてはほとんどアドリブを入れていません。
でも、毎日全然違う。
その回だけのテオなのです。

でも、もし本当に息子がいたら、

「おい、昨日と全然違うじゃないか!」

ということが当たり前のことなのかも知れません。その日、その時、感じることも考えていることも、全く同じ環境だったとしてもきっと違う。
それは大人にも言えることですが、大人だったら上手く調整して普段通りに振る舞うでしょう。
でもきっと、子供はその時感じたままに表現する。そして親はその日その時の我が子の想いを受け止める。

笠原さんは本当に読めない、好き勝手やってくれる息子でした。

でもだからこそ、僕も常に何があっても全部受け止めようと舞台に臨んでいました。

結果それが、親子だったのかも、と思うのです。

プールでのレッスンシーンは日に日にエスカレートしていきましたが、お気付きとは思いますが、全く打合せ等はありません(笑)

笠原さんがお客さんの反応で感じたままに言葉を出すので、僕も事前準備は全くしていませんでした。本当に何が起こるかわからない。でも、それがその時を生きてるってことなのかな、とも思います。基本アドリブ苦手なので、毎日ドキドキしながらあのシーンに立ってました。

それにしても、笠原さんのテオは本当に優しい、柔らかな子でした。素直で、でも、ワガママで、ふくれっ面ばかり見せていたけど、父親である僕に心を許してくれていることが何も言わなくても伝わってきて。初登校の日にテオを置いて去るのが本当に胸が痛かったなぁ。

笠原さんが僕の息子でいてくれたから、
僕は自然にパパでいられた。

本当に、感謝しかないです。
ありがとう、息子。


そして、この作品の中核とも言えるヒロイン的立場に存在するレップ。コアラチームでこの役を担ったのはある作品以来勝手に僕が娘扱いし続けているうさぴょん。

「女子にしか見えない」説は今回も健在。でもそれ以上に、スカスカアジャデ!で体験した異民族の役を演じた経験が生きているのか、本当に自然に「カンボジアから逃れてきた幼い少女」を全うしてくれました。

「スカスカの時は、現地の言葉が使われている外国映画を探してずっとヘッドホンで音だけ聞いてました。意味はわからないんですけど、音の使い方とか言葉の響きを身体に染み込ませるというか、そんな感じです」

僕がギリシャ語に苦戦していた時期、同じくギリシャ語を話すテオママを演じるうさぴょんはそんな風に話してくれました。

僕はと言うと言語指導の方の録音をひたすら聞き込んでコピーするやり方で稽古に臨んでいたので、うさぴょんのやり方にはちょっとびっくり。
でもだからこそ、今回彼が演じたレップのクメール語はその響きから普段の彼の声や言葉とは全く違っていて、芝居とわかっていながらも母国語で話しているのではないかと錯覚する程でした。

あと、今回久しぶりに共演して強く感じたのは、うさぴょんがかなり「舞台上で自由になれてきた」ということ。
まだまだ新人と呼ばれる世代だった頃から決して不器用ではなかったうさぴょんですが、役のキャラクターや演出意図を強く意識し過ぎて彼の持ち味がなかなか出てこない、という時期もあったような気がします。
レップを観ていると、本当に彼の心が動くまま、気持ちの赴くままに生きていて、あぁ、うさぴょん本当に自由になってきたなぁ、と感じる瞬間が沢山ありました。

ちなみに、その例という訳ではないですが、テオパパがお迎えに来てレップとノイを引き合わせる例のシーン。

隠れ宿的発言ですが、アレ、台本上はト書きのみです。確か、
「テオパパがテオを待っているとレップが通りかかる。一人待つレップ。テオパパ、ノイの姿を見つけ、レップの手を取って連れていく」
こんな感じです。台詞なんてありません。

稽古当初。
台詞がないので無言でやるしかありません。
僕はレップの肩を叩くとノイのいる方向を指します。そして、その意図がわからないレップの手を取り連れていきます。

変質者か!

僕は心の中で叫びました。

いかんいかん。

「うさぴょんさぁ、普通に考えて、こう手を出したら繋いでくれるもん?」

この頃まつしんはまだ客演中で合流前。うさぴょんに5歳児の立場の意見を求めてみる。

「普通の5歳児だったら繋ぎそうですけどねぇ。レップの生い立ちを考えるとちょっと違う気もしますね」

「だよなぁ。うーん。それに、指さしたらいくら言葉通じなくてもそっち見るよなぁ」

「ですねぇ」

3行のト書きに思いの外の難航。
ふと、僕は新聞を持っていることに気づく。

「そうか…新聞か…」

稽古終了後、稽古場の片隅でのシミュレーション。それまで新聞と逆の手で指さしていたところをあえて新聞を持つ手でノイの方向を指してみる。

すると、うさぴょんの目線が指した方向ではなく新聞を追い始める。

二度ノイの方向を指したところで僕がその視線に気づく。
あ、新聞気になってるんだな、と思い渡してあげる。すると俄かにうさぴょんが嬉しそうに笑う。そこで、手を取り連れていこうと僕が手を差し出す…と、

うさぴょんはその手にポンっと新聞を返してくれたのだった!

「そりゃそうなるわな(笑)」

「すみません(笑)」

「いや、当然そうなる、新聞やめるか〜」

と、そのやりとりをたまたま見ていた倉田さんが

「あら、今の新聞渡すの面白いわよ。いいじゃない」

と急に僕らに声をかける。

「そうですか?じゃあこのまま続けてやってみるか」

「はい」

返された新聞をしまう。
一度手を差し出して伝わらなかったパパは、今度はレップの手を指さし、自分の手のひらを指す。すると、レップは「わかった!」というような明るい表情になり、パパの手に手を重ねる。

「お、いけた」

「いけましたね(笑)」

直で手を出しても無理そうだったところが、新聞を中継して成立した瞬間。

改めてシーン頭からやってみる。

「でも、無言なのおかしいわよね」

とそれを見ていた倉田さん。

無言で突然肩を叩く、というところの違和感が解決していなかったからだ。

「喋っていいわよ、このシーン。台詞があった方がいいと思う。『お迎え待ってるの?』って声かけてみたら?」

突然演出が入る。

喋っていい、という倉田さんの後押しで、その後、「ほら」「あっち」や「おいで」「そう、こっちだ」と、うさぴょんとの稽古で作った動きに言葉がアフレコされていく。これは僕の中から勝手に出た言葉たちだった。

今回の稽古の中で一番芝居が楽しいと思ったのは(稽古時間外だけど)この瞬間だったかも知れない。僕とうさぴょんで作った芝居が台本を変えた瞬間だったからだ。もしもト書きを疑わず、その指示通りに腑に落ちないまま演じていたら、こうはならなかったかも知れない。本当に短い、ささやかな場面だけれど、それでもお互い納得できる道を模索したからこそ、こういうシーンになった。

この稽古を通過したからということもあって、僕はこのシーンがとても好きになりました。ありがとう、うさぴょん。

うさぴょんのレップはある本当に自由に、その場その場の出来事に新鮮に反応していく。その反応の仕方もまた彼独特で、前述のシーンで言えば肩を叩いた瞬間「ムムっ、何奴!」という表情を見せたりする。その前に声をかけてるのにちっとも解れやしない(笑)
でもだからこそ、意図が通じた時に見せる笑顔がパパには嬉しくて、ノイと引き合わせることができて本当に良かったと思わせてくれる。

僕が直接レップと対峙することは殆どなかったけれど、そういった、彼の自由でエネルギーに溢れたリアクションは、きっと共演するみんなに良い刺激を沢山与えていたのだろうと思います。

その結果、レップ自身も周りから多くの刺激を貰うことができて、より生き生きと存在していた。そんな風に感じています。


さて、コアラを代表する大人と言えば、せっきーによるウォルシュ先生。

元々女性役の資質が高いせっきーだけど、最近ことに母性が強く出てきている気がして、直接絡む絡まないに拘らず、みんなにとって居心地の良い空気を作ってくれている。

また、スリーメンの再来とも思われた芳樹クリント、笠原テオの他、シェーン含め沢山の好き放題な子供たちに囲まれて、この相手はせっきーじゃなきゃ務まらないなと思うに足る状況だったかも知れない。

せっきーはその物腰の柔らかさと、本人曰く「芝居ではなくバラエティーの能力」と謙遜するアドリブへの対応能力が際立っているように見える。
芝居におけるアドリブは、発信するのは実は簡単。自分で思い着いたらそれでいい。けれど、それを拾って言葉を返すのはその一瞬の判断と発想の勝負。相手の言葉だけでなく、それが舞台上にどんな空気をもたらしているかを見極めて言葉を選ぶ。そのセンスが桁外れに高い。逆にそこが全く苦手な僕には理解不能だったりするくらい。

そして、それをさらに後押ししてウォルシュ先生を魅力的な人物にしていたのが、きっとせっきーの持っている普段の人柄だったようにも思う。

元々、せっきーは先輩後輩問わず物怖じしないで話せるタイプ。司会を沢山やってきたから、というよりは、その資質が元々あったからこそ司会に選ばれてきた、と僕は認識している。

先輩に対しては、敬意を損なわない、失礼に当たらないギリギリのラインまで崩して話せるし、後輩に対しても決して上から物を言わないので、後輩からも変に構えられずにニュートラルに声をかけ合える中になっている。

一番凄いのは、せっきーはほとんど人に対して分け隔てがないこと。僕のようなうさぴょんうさぴょんになってしまう偏愛タイプとは真逆の存在で(ちょっとここいらない情報だけど)、その時その場の状況で誰とでも同じラインで接することができる。だから、せっきーと話していると、誰もが明るく好意的な感情でいられる。

あぁ、だから先生役だったんだな。と、今になって納得する。ウォルシュ先生の資質とせっきーの資質がピッタリ重なっている。

だから僕には偏愛タイプの役ばかり来るのだな…とも急に思えてきた。パパはテオ一筋だものね(笑)

ともあれ、せっきー本人の魅力がそのままウォルシュ先生を司り、またその姿勢は実は謙虚さに裏付けされていて、それがすもぽぴの作品自体の進行を見守るというウォルシュ先生のもう一つの側面にもフィットしていたように思う。


こうして振り返ると、みんなそれぞれ、役者の個性がそのまま役の個性に繋がるキャスティングだったんだな、と改めて思います。だからこそ、登場人物みんなが魅力的で、無理なく自然体で生きていられたのだと。

だから僕は、このすもぽぴはスタジオライフという劇団がそのまま舞台になったような感覚がしていました。

それを、お客様と一緒に囲んで座って見て。
時に演じ、また座って観劇する。

役を生きると同時にお客様と同じ感覚で舞台を観て、時間を共有できる。
本当に幸せで、貴重な機を得た公演だったと思います。



さてさて、コアラ4名の紹介でだいぶ長くなってしまいました。執筆も、7月3日に始めて早4日目。実は筆が遅いんですよね(笑)
なので、カンガルーはまた改めて別の記事にしようかなと思います。


このすもぽぴに参加して、改めて自分がスタジオライフの劇団員であることの幸せを実感した気がします。
僕らのすもぽぴを支えて下さった皆様、本当にありがとうございました!

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6月24日。土曜日。

現在公演中の「THE SMALL POPPIES」がいよいよ折り返しました。

という訳で、本日はちょっぴりネタバレ気味にお届け致します。未見の方はご注意下さいね。


今回の作品、まさかこんなにも僕の中で大切な作品になるとは思いも寄りませんでした。

すもぽぴは本当にシンプルな戯曲で、オーストラリアのアデレードを舞台に様々な境遇の子供たちの日常を描いています。

でもそこにほんの少し、非日常があります。

カンボジアからの難民である、レップの存在です。

当時からオーストラリアでは難民支援が盛んでしたので、それも含め日常と言えるのかも知れませんが、今回のすもぽぴではそのレップの存在により登場人物たちが次々と動き出し、また作品に奥行きを与えています。

既にご覧になった皆さんには言葉で説明するのも野暮な話ですが、この作品、少なくともスタジオライフ版のすもぼぴは、レップを中心に登場人物みんなの想いが少しずつ繋がっていき、やがて一つになっていく。
そんな風に僕は感じています。

そして、それは役のみならず、周りで座って観ている全ての役者に於いて同様です。

だからこそ、全ての役者がレップに寄り添い、またそのレップに寄り添おうとするクリントに想いを馳せ、またそのクリントの想いに共鳴して動き出すテオにも心を寄せていくのです。

結果、一つになる。

それが、演じている僕ら自身が感じているすもぼぴの最大の魅力かも知れません。

どんな役についた役者も同じ気持ちで幕を閉じられるなんて、そんな作品今まできっとなかったような気がします。

勿論、例えば僕で言えばテオのパパ役ですのでテオのパパの想いで終演を迎えます。

でも、同時にすもぽぴは全員が同列に並ぶ「すもぼぴを上演している僕ら自身」です。そして、ずっと舞台上ですもぽぴを見守り続けているので、いつの間にか皆一つの想いになっていきます。
その想いはきっと、劇場でご観劇下さった皆さんと同じ想いです。

だから、終わった時は演じた役に関係なく、みなお互いが本当に大切な存在として映ります。

キャスティングも関係ない、先輩も後輩もなく、ただ大切な存在です。

そして、そこに勿論客席で観て下さっている皆さんも含まれている。

僕ら、すもぽぴを囲む椅子に座って観ているメンバーは、実は舞台上を通してずっと客席を観ていたりする訳です。

勿論、どんな作品でも客席が見えているのは同じですが、今回は「演じていない状態で一緒に作品を観ている」状態です。僕がどうにも泣くのを我慢し切れないシーンで、涙をを拭っている客席のお客様の姿を目にしていたりするのです。

これが、僕には堪らなく嬉しいです。

今まさに、舞台上の僕らと客席の皆さんが一つになっている。演じていないからこそ、そうリアルに実感できる瞬間だと思います。


そして、すもぽぴの魅力は、もう一つ。

みんな笑っていいこと。

これが役者にはホントに嬉しい。

本来演劇に於いて、舞台上で行われていることに笑っていいのはお客様だけです。
役者は役を演じ、その世界に生きているのですから、笑う理由がそもそもないのです。
役者として相手役やその他舞台上で面白いことがあっても、役の範疇から逸脱することはできません。

まあ、わかり易く言うと、夏の夜の夢のシーシアスがありますね。

ライサンダー、ディミートリアス、イジーアスがハゲネタで訳わからないことしてても(言葉が悪くてすみません)、決してそこで笑ってはいけない訳です。勿論、役を通して見ているので堪え切れないということはありませんが、正直笑いを我慢する瞬間も多々あったりするのは確かです。
しかも、お客様が笑っている中でポーカーフェイスを貫くのは少々寂しい気持ちもあったり。

でも、すもぽぴは、役を演じていない、観ている時間はなんと笑ってもOK!
厳密にはOKと言われてはおりませんが、基本は我慢、堪え切れなかったら仕方ない、稽古場からそんな空気に自然となっていました。

勿論、演技中の役者は笑ってはいけません。
芳樹クリントの例のお願いシーンに仲原ママは本当に耐え切れず、稽古中はほぼ100%笑ってしまっていて、その度倉田さんから

「どんなにおかしくても仲くんは笑っちゃダメよ」

と言われていました。本番中の今でも、お、今日はギリだな、などと思ったりしながら観ています。ガンバれ仲原、悪いが俺たちは笑ってるゼ。
てゆーか、昨日の芳樹さんトイレのシーン、完全に周りで観てる僕らを笑かしにかかってたしなぁ(笑)

それ以外でも、例えばマリアがクリントの鞄を蹴飛ばす場面で足に絡まったりといったハプニングや、ウォルシュ先生のお絵描きシーン、テオからブレナン先生への着替えシーンなど、所謂事故や日替わりに近い部分では結構ガマンできず笑っちゃってます。最近はお絵描きシーンのまつしんの「さかな?」が好きです(*´∀`)♪

もう中日とはいえ、まだ中日。
笑い部分はまだまだ色々ありそうだな、とちょっとだけ警戒しつつも、今後が楽しみで仕方ないのです。
お客さんと一緒に笑えるって、本当に楽しいんですよね。普段は耐えなきゃいけないから、尚更かも知れません。


すもぽぴは、まだまだスタジオライフにとっては若い作品です。
その日その回、全員がベストを尽くして舞台に立っていますが、まだまだきっと、想いにおいても、笑いにおいても、変化、進化、深化しいくのだろうなぁと思います。

お客様の想いや笑顔、それらを真正面から受け取って、エネルギーをもらって。
そしてその体験は、僕らの心と身体に蓄積されて、その後の公演にまた新たな息吹を吹き込む。

それはどんな演目でも一緒です。
でも、お客様と全く同じ目線で一緒に楽しめて、泣いて、笑えてしまうのは、僕の知る限りすもぽぴだけ。

だから、今回出演する機会を得ることができて、本当に嬉しく思っています。
大袈裟かも知れないけれど、一生記憶に残る大切な時間を過ごさせてもらっていると思います。


さあさ、ちょっとしんみりしちゃいそうなので今日はここまで、まだ中日ですしね!

千秋楽までの全日程を終えたら、もっと具体的なこともお話しできたらなぁ思います。


改めまして、中日までのステージを僕らと一緒に見守って下さった皆様、本当にありがとうございました!

残り10ステージ、皆様にもらった笑顔と、涙を道連れに、大切に過ごしていきたいと思います。

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