ダスティン・ホフマンになれなかった男たち

ダスティン・ホフマンになれなかった男たち

山形で大塚博堂を育てた男の物語

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再び彼らの席に戻った。



「決まったって!どんなふうに?」と私。


「さっきの提案・条件でコンサートをやってみたい。これがみんなの気持ちだ。」


そう話す「 I 氏 」の言葉に仲間たちは大きくうなづいていた。



そして続けて、主催は「ダスティンホフマンになれなかった男たち」。


私たは何になるのかなあ?と「 I 氏 」は尋ねてきた。



『協力』ではどうだろう!と、私は答えた。


分かった『協力』だね!!


じゃぁ、名前はなんとしようか?と「 I 氏 」と仲間たち。



この日そこに集まったのは8人の男たち。


そのうちの一人が、


「ちょうど今夜集まったのが8人、


       なんとかなんとかエイト」というのはどう?と口を開いた。



その後、8人の男たちはてんでに思いついた名前をあげていった。



しばらくして決まったのが・・・・・


『 Music Planning Group カントリー8 』だった。




そして彼らは、


今回だけでなくいろんなアーティストをここ庄内に招聘したい、


その思いも盛り込んだネーミングだと、「 I 氏 」と仲間たちは熱く語った。




その夜、


『 Music Planning Group カントリー8 』 のメンバーと 私 は


「 大 塚 博 堂  コ ン サ ー ト 」 の成功を祈念して痛飲した。



異業種間の仲間たち


『 Music Planning Group カントリー8 』 のメンバーは


各自 仕事をこなしながら 「大 塚 博 堂  コンサート」に携わり


成功に尽力してくれた。



了解を得て、実名でその仲間たちを記す。



  伊藤   一     江口  了二     石田  元   

         


  真田  通夫     阿部   弘     松田  秀一   

    


 富樫  繁保    上野 勝彦  の 8人。



  もう会えない仲間もいる『 Music Planning Group カントリー8 』



山形県庄内地方で


「 大 塚 博 堂 」 の 存在を広く知らしめてくれた、恩人たちである。・・・・・




その翌日、私は鶴岡市文化会館に赴き、 


「大 塚 博 堂  コ ン サ ー ト 」 の諸手続きを済ませ、


足早に山形へ戻った。



山形ではいろいろなことが待ち受けていた。







私は彼らに、


「 大 塚 博 堂 コンサートツアー」はもうすでに動き出している。



鶴岡会場は、鶴岡市文化会館で9月15日(祝・木)に、


山形会場は翌日の16日(金)に決定している。



「博堂とメンバー」のスケジュールはおさえた。


会場の仮予約はすでに入れてある。


コンサートに関わる事務的な手続き、庶務はすべて私が、いや私たちがやる。


みんなにお願いしたいのは、「チケット販売の委託」と「当日の会場運営」だと。



「 I氏 」は、「素人の私たちに出来るだろうか?」


「1200枚のチケットを捌けるだろうか?」・・・種々の疑問をぶつけてきた。



私はその一つひとつに、丁寧にキチンと答えていった。



そして、山形会場の「チケット」と「ポスター」のゲラ刷りをみんなの前に広げた。


「おぉ~っ!」「いいねぇ」「かっこいいね」とみんなは食い入るように見ていた。



ややあって「 I氏 」は、


「きょうこの場で即答しなきゃいけないか?」と聞いてきた。


「この先何度も鶴岡に来るのは大変なので、出来ることなら・・・」と、

                                      

                                   私は返答した。



「 I氏 」は、「少し待ってくれ・・・」と。


そして、その晩集まったメンバーたちは座卓を挟んで話し合っていた。


私はそのあいだ、


カウンターに席を移してお店の大将との世間話についやした。




どのくらいの時間がたったころだろう。


座敷の方から、「おーい、決まったぞ!!」と大きな声が聞こえてきた。


久しぶりに会うメンバー。



みんな元気だった。


再会を祝し、グラスを合わせた。



初めて見る顔もそこにはあった



その居酒屋は 「 I 氏 」のなじみの店。



ポータブルレコードプレーヤーを持ち込んで


「 博堂のLP 」を聴くことを許してくれた。



少しの間、メンバーは流れてくる「 博堂の歌声に 」耳を傾けていた。



「 このレコード・大 塚 博 堂 を 知っているか?」と


私は集まったみんなに問いかけた。



「 I 氏 から集まってくれと言われた日に、早速レコードを聴いた。 」


「 とりあえずシングル盤を買ったよ 。」


「 いい曲を歌っているね。 」


「 声がいいね。 」


「 男のロマンがあるね。 」


「 どんな男なんだろう。 」


「 若くはないね。何歳なんだろう? 」


「 今までいなかったタイプの歌手だね。 」


「 彼女がこのLPを持っていて聴かせてくれた。俺もすごくいいと思う。」


「 今年の始め、鶴岡に来たんだったね。 」


「 知り合いがそのコンサートに行ったんだ。 」


「 そのときは、博堂とギタリストの二人だったって。 」


「 2枚目のLPは? 」


「 今流れている曲もいいね。 」



集まってくれたメンバーは口々に言った。



私は、メンバーに


自分がこれまでに感じていた


『 博 堂 観 』 と 『 博堂の歌の世界 』 を 熱っぽく語った。



みんなはじっと耳を傾けてくれていた。



そして、

「山形 と 鶴岡 で コンサートを企画している。」


「 生で聴いてみたくないか? 」


「 ここにいるみんなで 『 博 堂 』 を鶴岡によんでみないか?」



重ねて、「 博堂 招聘の意気込み 」 を伝えた。



そして、メンバーを代表して 「 I 氏 」 が、


「 なにを、どうしたらいいんだい? 」 と 聞いてきた。・・・・・


その日に作った「DJプログラム」は確か2本。


1本目は彼らの希望で日本のアーティストを取り上げたもの。


2本目は私の選曲で構成した洋楽もののプラグラムだった。



この時の資料がないか探してみた。


すると、カセットテープが見つかった。



「MAKIのDJプログラム:1971・8・15 at セシル」のタイトルが書かれていた。


テープには1本目だけが録音されていた。



そして・・・


OP/TM 「♪オール・マイ・ラヴィング♪」
      ハーブアルパート&ティファナブラス


TALK かぶせ
F・O


TALK


M1 私の城下町: 小柳ルミ子


TALK


M2 さらば恋人 : 堺正章


TALK
 
M3 翼をください:赤い鳥


TALK


M4 沖縄の願い:ソルティー・シュガー 


TALK


M5 天使になれない:和田アキ子


TALK


M6 さよならをもう一度:尾崎記世彦


TALK


F・I


END/TM 「♪オール・マイ・ラヴィング♪」
      ハーブアルパート&ティファナブラス




そのカセットテープの中には簡単なQシートが入っていた。


懐かしくもあったが、最初のトークのところだけを聴いてやめた。


聴きたかったのは、2本目の私の選曲で構成した


洋楽もののプラグラムだったから。



この時から、帰郷した時には「セシル」を訪れては


音楽談義に花を咲かせたものである。


もちろんそこには「 S R K 」のメンバーが居たのは、言うまでもない。


そして、東京渋谷の「音楽喫茶 ブルボン」でのDJプログラムを


定期的にカセットテープに録音しては、送っていたのが懐かしく思い出される。



その後、「 S R K 」のメンバーは自分たちの会社を立ち上げた。


高級オーディオ製品を中心に一般オーディオ製品の販売を手がける


「オディオン」という会社だ。


本業としたものもいれば、副業的に業務に当たっているものも居た。



「セシル」を初めて訪れてから1年7ヶ月後1973年4月、


私は山形のテレビ局に就職した。


その後も「 S R K 」のメンバーとは、親交は続いていた。




そして、「大塚博堂コンサート 鶴岡公演」の成功を考えたとき、


この人たちの協力無しにはありえないと思ったのである。



コンサートまで6ヶ月を切った4月の初め「 セシルの I 氏 」に、


「お願いしたいことがある。 S R K のメンバー全員へのお願いが。


そっちに行くので集めてくれないか!」と電話した。



「 I 氏 」は「どんな話なんだ?」と聞き返してきた。



私は手短に、「大塚博堂コンサート 鶴岡公演」の協力を願いたいと伝えた。



「 わかった。


   それじゃ S R K のメンバー 以外の人たちにも声をかけていいか?! 


     頼りになる奴を集めておくよ!!」と「 I 氏 」は 電話口で話してくれた。




数日後、私は鶴岡のとある居酒屋でみんなと会っていた。



 そしてこの話を切りだした。・・・・・


 

「セシル」は、カウンターに8人の席。


そして4人のテーブル席。


それだけのこじんまりとした音楽スナック喫茶。



テーブル席にマイクが2本。


カウンターのそばにラック。そこに機材が設えてあった。


カウンターの席には、「 S R K」のメンバーと「 M君 」が待っていた。



「ミキサー」 に 「マイク」 と 「カセットデッキ」を2台つなぎ、


録音には 「TEACの2トラ38」。 


レコードプレーヤーを再生する手間が面倒だと思い、


まず、この日使う レコードの音源をカセットテープにRECすることから


準備が始まった。 


勿論私が持参したレコード。そして 持ち込んだカセットテープもつかうことに。



その作業を、「 S R K 」のメンバーにお願いし、


私は「Eちゃん」と打合せをしながら、


簡単なスクリプトとQシートを書き上げていった。


カセットの頭出しやミキシングは、私がしようと思っていたのだが、


「S R K 」のメンバーが、やってみたい、手伝いをしたいと申し出た。


レコードの頭出しが、カセットに変わったことだけの違い。


自分でこのくらいのことは平気にこなせるのだが、


それでは本番は 真剣勝負のつもりで、お願いしますと私は言った。



そして、、「 S R K 」のメンバーは 「マイクチェック」


「カセットデッキの頭出しのチェック」 「音量バランス・RECバランスの確認」 


「ミキシングのタイミングのチェック」をこなしていく。


そしてハンドQの確認を済ませた。



一瞬、静寂が訪れる。 「 S R K」のメンバーと「 M君 」が その時を待つ。



私の右手のQで、オープンリールが回りだす。


次のQで、私のDJプロのテーマソング、


ハーブアルパートとティファナブラスの


[♪オール・マイ・ラヴィング♪]が流れ出した。・・・・・









その夜 訪れた音楽スナック喫茶 「セシル」 は、

そう大きな店ではなかった。


いつもこのお店に集まる仲間たちは、

自分の好きな歌手やグループのレコードをここに持ち寄っては、

お店のオーディオ装置で流してもらい、音楽に身をゆだね

その楽曲の持つ魅力を語り合っているのだという。


「Eちゃん」は、昨日知った私の東京での仕事ぶり?を

詳しく話し始めた。


話を聞いた「S R K」のメンバーたちは、感嘆しながら

「Eちゃん」と私の二人のおしゃべりで、

DJプログラムを作ってみたいと言った。


話しをしていくうちにほぼ同年代の人たちと分かった。



私を連れて行ったのは

「ラジオ局でリポートをして人気を博しているEちゃん」。


私のことはそこにいた人たちは誰も知らない。


あくまでもメンバーたちはメインは「Eちゃん」で

私はサブでとのことのようだった。

しかし「Eちゃん」は、「ラジオでリポートはしているけどDJは初めて、

アシスタントならできるかも」とみんなに告げた。


「セシル」のマスター「 I氏 」はそのことを聞いて私に、

「ミニDJプログラム」を録音させてもらえないかと切り出した。


「 I氏 」は、「今すぐには機材もここにないので無理だが

 あすの午後なら準備が出来る、どうだろう。必要なレコードは揃えよう」と。


「大丈夫だ。音源は私に用意ある。
今ある音源でプログラムを作っていいのなら、明日でも大丈夫だ。」と言った。


この帰郷の時も、私は退屈紛れを癒そうと、何枚かのEPとLP

それに音源を録音したカセットテープを持って来ていた。 

明日来るときに、それを持参しようと考えていた。


メンバーのほとんどは、「ミニDJプログラム」を作るその様子を見たい!。

じゃあ明日と言って解散した。


私と「Eちゃん」は、そこに残り「 I氏 」と数人のメンバーで

明日のことについていろいろ話し合った。


話しているうちに分かってきたのは、

機材もアマチュアレベルのものできちんとしたDJマシンセットではないこと。


マイクとミキサー、ターンテーブル、それのカセットデッキ、アンプ、スピーカの

寄せ集めだという事。


私ひとりでオペレート出来ないシステムだという事。こりゃ大変だと私。


でも、この機会に作っておきたいなあと残ったメンバーは

熱っぽく訴えかけてきた。


渋谷や新宿のDJ喫茶のブースでは、自分ひとりでレコードをセットし、
おしゃべりをはさみ、リムドライブのプレーヤーをスタートさせ

ミキシングをこなしている私にとっては、じれったい作業になるなあと

このときに感じていた。


私と「Eちゃん」は、明日のプログラムのことについて話し合って

「セシル」からをあとにした。



翌日の午後約束の時間に再び「セシル」を訪れた。


階段を上がったすぐ左に少しの空間=コーナーがあった。


そこがDJスペースとなるようだった。・・・・・

「 M 君」とはさっきまで、お互いの大学生生活を語り合っていたのだった。



私は彼に、学業とは別に


[ニッポン放送で制作アシスタント・公開放送のテクニカルアシスタント]、


[NHKの公開録画の制作アシスタント]、[都内の喫茶店のディスクジョッキー]、


などのアルバイトが忙しすぎて、


「学校に行く時間がほとんど無いなあ!


      どっちが本業なのかわからなくなるんだよ」と話していた。



「 M 君」は「 E ちゃん」に、私がその輪に加わる前に


「あいつもその業界には詳しいぞ!入り込んでいるぞ」と


ついさっき私が語った事柄を伝えていたのでした。



「 E ちゃん」は、その当時、こちらもアルバイト的に


地元ラジオ・テレビ局:山形放送でラジオカーに乗って出向き、


庄内地方の出来事やトピックスをそこかしこでリポートをする


人気女性リポーターとなっていたのでした。



今は、中央で活躍している『 荒川強啓 』の番組では


欠かせない存在だということでした。



私は、山形を離れていたので


その番組も『 荒川 強啓 』の存在を知るべくも無く、


彼女の出演番組を聴いたことも無く、ふふ~~んと聞いていたのでした。



    <ちなみに、『 荒川 強啓 』と実際に対面したのは、それから3年後,


          私が、山形のテレビ局に就職してからのことだった。・・・・・>



そして、「 E ちゃん」は私に、


『知り合いの人が音楽・スナック喫茶をやっていて


ディスクジョッキーまがいのプログラムを作ったりしているんだけど、


素人の域を出ない人たちばかりで、技術的にも番組構成的にも、


特に、音楽に詳しいおしゃべりのできる人がいないんだ。


さっきから話を聞いていて思ったんだけど、


プロとして東京で「ディスクジョッキー」を生業のひとつとしてやっているあなたを


その人に、そしてその仲間にぜひぜひ紹介したいなあ!』と


言ってきたのでした。



そんなことをしているグループが鶴岡にいるのかぁ!。


じゃ、、「 E ちゃん」がそこまで言うんだったら会ってみるかと


二つ返事で答えていました。


その日は「 M 君」、「 E ちゃん」等と遅くまで、よく飲み、よく食べ、よく話し、


久しぶりに鶴岡の夜を、満喫したのでした。・・・・・・



翌日私は、「 E ちゃん」に連れられて、


鶴岡市内の内川に架かる大泉橋と海運橋(現在名)の右岸に


肩をひしめくように建っていた飲食店街の中にある


狭い階段を上った2階にある 音楽・スナック喫茶 「セシル」を訪れた。


そして  その人、マスターの「 I さん」。


その仲間たちが、私達を待っていた。



『 Music Planning Group カントリー8 』の前身メンバー 


『S R K =庄内録音会』の人たちだったのです。・・・















『 藤沢 周平 』 の心の故郷は「海坂藩(うなさかはん)」。


海坂藩は時代小説家『藤沢周平』が好んで武家ものの舞台とした

江戸から北へ120里、三方を山に囲まれた北国にある架空の小藩、

「奥州海坂藩」である。


モデルになったのが『藤沢周平』の故郷、山形県鶴岡の庄内藩。


多くの作品の舞台に設定されている海坂藩、名称こそ変えられてはいるが、

はっきり場所を特定できるものが多いのも事実である


海坂藩城下の真ん中を貫いて南から北へ流れる五間川は、

現在の鶴岡市内を流れる内川であり

海坂藩の城は、言うまでもなく鶴ヶ岡城である。


歴史的・地理的な描写や、作品の中に出てくる産業製品、

農産物・魚介類をはじめ郷土料理などからも、「海坂藩」=「庄内藩」と

同一視されている。


「海坂もの」の大ファンとして最も有名な作家「井上ひさし」は

「海坂藩・城下図」を作成している。


これを見ると分かることだが、実に詳細に記されている。

このことは『藤沢周平』の地理描写がいかに細密を極めているからだと

わかる。・・・・・・・


実は、私の生まれ故郷も山形県鶴岡市。

鶴岡市天神町(今は神明町と名を変えている)。


15の春、中学卒業まで住んでいたところだ。

高校・大学時代には、年に数回東京から帰郷していた。


その鶴岡で中学3年時のクラス会があり参加したのは、

大学2年の夏休みだった。


大人の仲間入りを祝っての催し。

「飛島」のニックネームを持つ「O先生」を囲んでの初めての酒席だった。


私にとっては、中学卒業後初めて会う顔がほとんどだった。

会ってしばらくはお互いにぎこちないやりとりだったが、

すぐに当時の仲間たちの、あの顔や声が甦ってきた。


いくつかの輪の出来、それぞれに車座になり、思い出話などに花を咲かせた。



その一つに「Eちゃん」を囲んだグループがあった。

そのうちの一人が少し離れていた私を呼んだ。

「ちょっとこっちにきて!」と声を上げたのは

さっき近況報告をしあった「M君」だった。






山形の会場は、初めてのコンサートということもあって無理をせず


山形市民会館小ホール=350人でやることは、すでに決まっていた。


「ダスティン・ホフマンになれなかった男たち」のお膝元でもあるので


そう不安は無かった。



鶴岡の会場は限られていた。


他にいくら探しても、コンサートの出来る小屋(会場)は無かった。


鶴岡市文化会館、


ここ1箇所しかコンサートの出来るところはなかった。


しかも、1,200人のキャパシティ。


2月にコンサートをしたといっても、


知名度からしても、


お客さんは来てくれるのか、


前回のコンサートの評判はどうだったんだろう。


どのくらいの入りが見込めるか私たち3人は不安であった.



山形と鶴岡は今でこそ車で1時間30分で行き来が出来るが、


当時はすこぶる時間がかかった遠隔の地。



そのため「ダスティン・ホフマンになれなかった男たち」は


鶴岡でのコンサートを成功させる為に「ある男たち」に登場を願った。



その男たちとは


「ミュージック・プランニング・グループ カントリー8 」だった。



鶴岡会場:1977年 9月15日(木・祝敬老の日)


山形会場:1977年 9月16日(金)と決定した「大塚博堂コンサート・ツアー」。



残された時間はこの時から6ヶ月弱。


山形公演・鶴岡公演それぞれの会場借用申請。ポスター作り。、チケットづくり。


ホテルの手配。乗車券の手配。などなど・・・


慌ただしくその準備に追われていた


クチコミはもとより、フリーペーパー、ミニコミ誌への掲載もお願いした。



それにしても心強かったのは、


協力メンバーをお願いした「T氏」のサポートだった。


かゆいところに手が届くとはまさにこのことと感服した。


我々がミスをしないように、転ばぬようにと、いろいろなシーンで


杖の役目をしっかりと果たしてくれてた。



ここで少し、「T氏」のことに触れておこう。



「T氏」は北海道旭川出身。


あのロックバンド「安全地帯」のドラムス「T」の実兄である。


仙台市を拠点とするイベンター「ミュージック・ギルド」にいたが、


独立して山形で「音楽工房・ハンドメイド」を立ち上げ、


積極的にコンサートイベントを手がけていた。



私と「T氏」との出会いは、彼が主催した「丸山圭子山形公演」の際、


私が担当していたTV番組「おはようジョッキー」で


催事紹介と招待券プレゼントを、


大学生(DJ)時代からの友人キングレコードの「A氏」からの口利きで


来社したのが初めだった。



その後いろいろ話をしていくうちに多方面で「T氏」と意気投合、


彼の招聘するフォーク系のコンサートを番組としてもまた個人的にも、


協力を惜しまなかった。



「T氏」が山形に呼んだアーティストは


「ふきのとう」    「浜田省吾」    「松山千春」    「チューリップ」  


「中島みゆき」   「加藤登紀子」    「長谷川きよし」    「N・S・P」       


「森田童子」   「絵夢」    「山崎ハコ」    「ハイ・ファイ・セット」         


「カルメンマキ」    「永井龍雲」   などなど全ての人を今思い出せないが、


フォーク・ニューミュージック界の、そうそうたるメンバーであった。



山形の新たなミュージックシーンをクリエイトする一人だった。



そんな「T氏」を巻き込んで?!「大塚博堂コンサート・ツアー」は


歩みを進めるのだった。