「月蝕」か「月食」か。
私は月蝕の方が由緒正しい表記だと認識している。
「月蝕」が所謂ゲッショクを表記するのに由緒正しいと言っても誤りでは無いようだが、
「月食」はでっち上げられた表記ではないようだ。なぜなら、千年以上前から両方とも
使用されているからである。

では、その「でっち上げられた漢字表記」とは、一般に何を指すのか。
それはズバリ「同音の漢字による書きかえ」によって書きかえられたもののうち、
それまでまず使われることのなかったものや、誤用であったもの達である。

この「同音の漢字による書きかえ」とは、例えば「沈澱
という漢字は当用漢字に含まれていないから、同じ音で当用漢字に含まれている
別の漢字「沈殿」に書き換えてしまえ、というものである。
「沈殿って…殿様が沈んでしまうのか。」という意見も出そうなところ。
この件に就いては後述する。

先ほど、「当用漢字」という言葉が出たが、特に若い方の中には「常用漢字」
の誤りではないのか?とお思いになった方もいらっしゃると思う。
しかし、これは書き誤りではなく、現行の「常用漢字」の前身として「当用漢字」
というものが有ったのだ。

名前を考えてみてほしい。
「常用漢字」は常に用いる漢字。もしくは永久(とこしなえ=常)に用いる漢字と捉えられる。
「常」は「諸行無常」で「無常」と使われるように、決して「いつも」という意味だけではなく、
「永久(とこしなえ・とこしえ)」という意味も持つ。
(というよりも、「つね」自体に「とこしなえ」という意味もあるのですが、
「つね」ですと「いつも」と勘違いされたり、伝わりづらかったりするため、
あえて「とこしなえ(永久)」という言葉を用いました。)

「当用漢字」は、当分の間用いる漢字、と一般的に解される。

「常用漢字」は個人に対して漢字の使用を制限しないが、
「当用漢字」には「当用漢字外の漢字は用いるなよ」という縛りが有った。

「将来的に漢字を廃止するぞ」。「だからまずは使われる漢字の字数を減らす」。
そうして最終的には漢字を廃止する。
こういう計画が有ったと言われているが、結局、漢字は廃止されずに済んだ。
「当分の間用いる」から「常に・永久に用いる」に変わったというのは、劇的な変化だ。

何はともあれ、当時漢字使用制限が有ったわけで、だから先述の
「同音の漢字による書きかえ」を行わざるを得ない状況に陥ったのだ。
※「拿捕(ダホ)」などは書きかえ対象にならなかった為、「だ捕」
と平仮名で表記されています。これを「交ぜ書き」と言います。

閑話休題。
字義用例云々より、やはり現代日本人の感性として「食」=「たべる」と
「蝕」=「虫食む(むしばむ)」とを見比べると、「月蝕」としたくなる。
また、大字典によれば、「虫が食い行くという意味が、転じて日蝕・月蝕
の意味となった」そうで、日蝕および月蝕の表記に特化した字であろう。

ところで、「蝕」は何偏であろうか。見た目から推測すると「食偏」と言
いたくなるが、実は「虫偏」である。これは例えば音読みから推測できる。
「絵」の音読みは「エ」であるが、「会」の音読みにもエがあり、これは
「一期一会」「会釈(エシャク)」等で慣れ親しんでいる。

音につながりが出るのは、形声文字の典型である。形成文字とは、周知の
とおり、意味と音とが合わさって出来た字である。そして部首というのは
基本的に「大枠の意味」ごとに分類されるから、結果的に形声文字の「音
でない側」が部首とされる。だから、「絵」の部首は「会」ではなく「糸偏」だ。

同様に、「蝕」の音は「食(ショク)」が担っているから、虫が部首とさ
れる。ここで何が言いたいかというと、「三国志」の例を思い浮かべても
らいたい。「三国の志?」となりがちだが、ここでは「志」は「誌」の意
味で用いている。つまり、歴史的に「日食」と書かれている例も、決して
別モノではなく、ただ単に「日食」という表記を以て「日蝕」を表わして
いたと言え、とどのつまり、「日蝕」すなわち(イコール)「日食」である訳なのだ。 

先述のとおり、当用漢字の時代には、当用漢字外の漢字を個人さえも用い
てはいけないとされていたが、常用漢字の時代の今、個人に漢字の使用制
限は一切無い。漢字検定二級までは常用漢字外での解答は不正解とされて
しまうが、こういったところにさえ気をつければ、個人個人がそれぞれの
表記の背景を鑑みて、好きな表記を用いることは差し支えない。
例えば「ら抜き言葉」を無理にでも推進するのは「強引な変化」を生むだ
けであるが、例えば「沈澱」のように過去を振り返って正しいとされるその用例を
参照するのであれば、それは差し支えなかろう。

勝手に新しい表記は作らず、既存の表記を活用すれば、長い目で見て幸せ
な言語活動を送ることができる。目新しさが有るところや、現役の特定の
語よりも語感がよいことなどは、流行り言葉の流行る所以の一つにあろう。
しかし、昔使われていた言葉も掘り返せば、これらを感じられるものはお
そらく無数にある。
流行り言葉とそれ以外とをろくに区別も出来ない人間は大勢いるが、
「流行り言葉は流行り言葉で楽しみ、それ以外はなるべく変化させない。」
この考え方は必要不可欠だ。
逆に今後、今は使われなくなった昔の言葉を流行り言葉として流行らせる
ことができたならば、それはこの「区別できない人」にとっても、その周囲で
流行語を聞かされて不快な思いをする人間にとっても嬉しい話かもしれない。
尤も私は、流行語を聞いて不快にはならないが、それを使用する時と場合を選べない人間は大嫌いだ。

たとえば、最近の若者言葉かと勘違いされる場合もありそうな「だべる(駄弁る)」だが、
戦前の辞書にもきちんと載っている語である。
方言から流入したのか、普通に使われ続けていたのか、はたまた突然復活したのかを
私は知らないが、「パソコン」やら「発行ダイオード」やら、新しいモノが出現した場合以外には
新しい語が生まれないことを私は望む。

死語になっては復活し、また死後になっては復活し…と言葉も再利用されたならば、
これは非常によいことだ。

話はそれたが、結局この考察の中で見えてきたことは、
「月食」はでっち上げられた表記ではない。
ということ。
しかしまた、「月蝕」はいわゆるゲッショクを表記するのに特化した文字
であるということ。
そして、「月蝕・月食」は「同音の漢字による書きかえ」により「月食」
に統一されたという形であること。

今日私めが述べた内容を以て、どちらをあなたが今後用いることになさる
かは、当然ながらあなたの判断に委ねたい。

よく「月蝕」は旧字体だよ、と自信満々に言いふらす輩がいるが、これは赤っ恥ものである。
フォークと匙(さじ=スプーン)とを「形が違うだけで全く同じものだよ」というくらい恥ずかしい。

それぞれに使える場面、向く使い方というものがある。
しかし、食べ物を口へ運べるという面では全く同じとも言える。
このような「一致する一部分」を以て異体字とは言えない。
裏・裡などの例外を除けば、意味も読みも用法も全て一緒で形だけが違うものが異体字である。
是非気をつけていただきたい。

話が長くなってしまって苦痛も極限に達されているところで、ここまでとしたい。
最後まで読んでくださったことを深謝するとともに、平成廿三年師走の十日本日、
この記事を最後までお読みくださった方が幻想的な月蝕をご覧になれるよう、
お祈り申し上げる。