李 忠成って?? | まいMAIのブログ

李 忠成って??

李 忠成(り ただなり、1985年12月19日 - )は、日本のプロサッカー選手。東京都田無市(現・西東京市)出身。ポジションはフォワード。Jリーグのサンフレッチェ広島所属。東京都立田無高等学校卒業。



ルーツ
大韓民国国籍の在日韓国人4世として生まれる。2007年に日本国籍を取得して帰化した。通名は大山忠成、韓国語名はイ・チュンソン(Lee Chung-Sung)であった。

プレースタイル
豊富な運動量でチームのために前線から激しいプレッシングをかけ、機敏な動きと溢れる闘争心でゴールに迫る泥臭いストライカー。

家族
実家は西東京市田無で焼肉店を経営。経営者である父、李鉄泰も、元・実業団横浜トライスターSC所属のサッカー選手という経歴を持つ。

来歴

東京朝鮮第九初級学校出身。

少年時代は地元・こみねFCに在籍、当時のチームメイトに市川雅彦がいる。小学5年生で横河電機(現・横河武蔵野FC)ジュニアユースのセレクションに合格したため、6年生から同チームの練習に参加するようになる[11]。練習生として出場したFC東京U-15との練習試合で活躍し、相手監督の柴田峡から勧誘を受けたが、地元の田無から江東区のFC東京深川グランドに通う負担を考え、中学時代は横河電機ジュニアユースでプレーした。

2001年、東京都立田無高等学校に入学と同時にFC東京U-18に加入、同期生に梶山陽平、呉章銀、鎌田次郎、斎藤雅也らがいる。在籍時の3年連続で国体東京都選抜に選ばれ、2001年には第25回クラブユース選手権優勝、高円宮杯およびJユースカップ準優勝に貢献した。2002年、関東サッカーリーグ得点王に輝き、2003年にはプリンスリーグの優秀選手に選出された。

2004年、トップチームに昇格。同年にU-19韓国代表候補に招集されたが、AFCユース選手権2004に挑むU-19韓国代表には選ばれなかった。この際、在日韓国人をさげすむ「パンチョッパリ」という悪口まで耳にし、祖国の冷たい扱いにショックを受けた。結局、FC東京では出場機会は得られず、わずか1年で退団を志望した。

2005年に柏レイソルへ完全移籍。同年に柏はJ2へ降格するが、主力選手の多くが抜けたこともあり、2006年にはレギュラーに定着。同年、日本代表入りを希望して、2006年9月22日に日本への帰化を申請し、2007年2月9日に帰化が認められた[6]。日本に帰化をしようとしたら親戚から猛反対され帰化を迷っていたが、母親から「親戚中から縁を切られても私たちはいいから自分の思うようにしなさい」と言われたことで帰化を決意した。その他にも日本に帰化した理由として、「五輪がなければ国籍変更していない。人生を変える大きな決断だった」と語っている。その一方で君が代を斉唱したときの気分を聞かれて「最高の気分ですね」と語っている。6日後の2月15日に、北京オリンピックアジア予選に臨む、U-22日本代表メンバーに追加招集された。

J1復帰を果たした2007年には、10ゴールを挙げて柏のエース格となる。2008年には北京オリンピック本大会に日本代表として出場を果たしものの、柏では北京五輪出場など過密日程からくる疲労に負傷も重なり、わずか4ゴールに終わる。2009年、試合にこそコンスタントに出場するものの、ネルシーニョへの監督交代後はベンチ入りもままならなかった。

移籍期限が迫る2009年8月26日、怪我人などで前線の駒不足に陥っていたサンフレッチェ広島へ完全移籍した。移籍金は3,000万円(推定)。広島移籍後は佐藤寿人の前にほとんどが途中出場であり、得点を挙げられなかった。翌2010年4月13日ACL2010山東魯能泰山戦において広島での公式戦初得点を挙げるものの、その後一時はベンチ入りさえままならなかった。同年9月、佐藤および山崎雅人の怪我による離脱に伴い先発メンバーに抜擢されると、リーグ戦5試合連続得点をマークするなどシーズン終了までリーグ戦12試合で11得点、またナビスコカップの決勝戦においてもゴールを奪うなどゴールを量産した。

同年オフ、AFCアジアカップ2011に臨む日本代表に初選出。2011年1月9日のグループリーグ第1戦ヨルダン戦の後半開始から途中出場で国際Aマッチ初出場を果たした。1月29日の決勝戦オーストラリア戦では、延長前半から途中出場し代表初ゴール。これが決勝点となり、日本代表は同大会で4度目の優勝を成し遂げた。