蝶になる日 | Kizuki Forest〜気づきの杜〜

Kizuki Forest〜気づきの杜〜

京都、舞鶴を拠点に植木屋をしています、増茂です。

こんばんは。

最近、暮らしのなかに暦を取り入れることを意識しているShoです。

菜虫化蝶(なむしちょうとなる)

3月15日~19日にあたる七十二候の言葉です。

七十二候・・・古代中国において考案された暦で、節分を基準に1年を24等分し四季の移ろいを表した二四節気を、さらに5日ずつに分け、動植物の成長や行動、気象の変化などを表したもの。


青虫が春の訪れとともに、美しい蝶に生まれ変わるという、

ささやかながら美しい自然の移ろいを表しています。

僕はこの言葉から、

正木高志さんの『蝶文明』という本を思い出しました。

正木さんの綴る言葉に深く感銘を受けたのを覚えています。


その『蝶文明』の冒頭がコチラです。

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一本の木がありました。

春になって、イモ虫の赤ちゃんがいっせいに生まれました。

お日さまの光をいっぱい浴びたやわらかな木の葉を食べて、

マナもすくすく育ちました。


暖かくなるにつれて木のあちこちで卵がかえり、

イモ虫がふえ、大きくなって、食べる量もふえました。

みるみる葉を食べつくして、ほかのブループと競い合い、

争いながら、枝から枝へと移動してゆきます。


あるときマナは、

『このままみんなが木の葉を食べてゆけば、

きっと木は死んでしまうわ』

と心配になりました。

『葉っぱが食べられてしまったら、木が枯れて、

だれも生きてゆけなくなるのではないかしら?』


初夏になると、太ったイモ虫たちの食べる量はますますふえて、

葉は虫食いだらけになりました。

木はやせ細り、すっかり弱ってしまいました。

病んだ葉っぱを食べたイモ虫たちも病気になりました。


マナは木が燃えてみんな死んでしまう夢を見て泣きだしました。

この木はみんなのお母さんよ。私にいったいなにができるでしょう?

マナは木のために祈りました。

『ごめんなさい、ゆるして』


そのすべてを木はしずかに見ていました。

マナはサナギになりました。


木のお母さんがいいました。

『だいじょうぶ、心配しなくてもいいのよ。

あなたは愛にめざめたから、それでいいの。』

『もうじきあなたは蝶になる。

蝶になったらだれも葉っぱを食べないわ。

花の蜜をもとめるの。

そして蜜の甘さに、酔って踊りまわる。

そうすると花に実がつくのよ』


夏になりました。

木には花が咲いて甘い蜜の香りがただよっています。

蝶になったマナが透きとおった大きな羽を広げて花と遊んでいます。

枝にはすっかり緑がよみがえり、

花にはふっくら実がなりました。


正木高志『蝶文明』より
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僕たちは今まさにサナギから蝶へと生まれ変わろうとしている最中だと思います。

僕たちが食べつくそうとしている地球は

何も言わずにただ僕たちを見守ってくれています。

僕たちが蝶へと生まれ変わることが

これまでむしばみ続けてきた地球への恩返しになるように思います。


僕たちの意識は繋がっていて、


『気づき』はもう始まっている。


日本人というアイデンティティーから

地球人というアイデンティティーへのシフト。



その波紋は初めは小さなものかもしれませんが、

広がり続けています。

今も広がり続けています。


こんな話しがあります。

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明治維新の前、日本は60余りの小国に分かれていて

それぞれの国には国主がいて、

隣の国に行くにはパスポート(手形)が必要でした。

人々は藩に帰属し、藩主に仕えていました。

それが維新後になると日本人というひとつの国家の国民になりました。


維新の5年前には99%の人が、

自分のことを薩摩人だとか、肥後人だと考えていました。

日本人と考える少数の人は脱藩者になりました。


それが維新の5年後には逆に99%の人が

自分は日本人だと考えるようになりました。


ほんのわずか10年で

人の意識はそれほど変わるものだということです。

正木高志『蝶文明』より
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そう。だから『私は地球人だ』ということが当たり前の感覚になる日は

もうそう遠くない未来にあって、

そんな日、僕たちは地球に感謝し、地球とたわむれて、

踊りまわっているだろう。


・・・・・・・・・

そんなことを妄想した1日でした。


でもほんと僕もその蝶になりたいね。

ちょーーなりたいね^^;・・・(いやーごめんなさい。ついつい!)


はぁ今日も1日お疲れさまでした。

明日もがんばろ!


Mahalo