1.古代の差別(2)
 
 
 
ただ、律令国家は前章でもふれましたように、五色の賤といわれる賤民を、制度上身分として定めて、平民??公民(良民)と区別しています。官庁、国家に属する奴ヒが官戸と公奴ヒ。私人に属している奴ヒが家人と私奴ヒで、官戸、家人は家族を形成しています。しかしこの四種類の賤民は、まさしく奴隷で、犯罪奴隷、債務奴隷など、それぞれ理由はあれ、奴隷ということができます。ギリシャ・ローマのような労働奴隷でないにしても、特定の主に所有されている不自由民であります。
 
 
 
中世にはいっても、「下人」といわれた不自由民、奴隷がかなりおりますが、下人と非人とがまったく異なる存在であることは、多くの研究者が認めていることです。とすると、古代の賤民の中で、さきほどの四種類については、たしかに平民からは明確に区別された存在であるとはいえ、中世の非人のような賤視はされていないと考えられます。
 
 
もう一種類の賤民、良戸については学者の間で議論があって、よくわからないですが、天皇の陵を守る使命をもった集団であるこの陵戸は、いちばん良民に近いとされています。にもかかわらず、なぜ陵戸が賤民のなかに入れられたのかという事情がよくわからない。
 
 
 
これまでの考え方のひとつとして、これを死のゲガレと結びつけ、お墓というゲガレた場所にかかわりのはる人微動だになので賤視されたとする理解がありました。実際、現在の被差別部落にも、陵戸の流れをくむという伝承を持っているところがあるのですが、当時の墓、陵のあり方を見ますと、これはむしろ、一種の聖地であって、けっして死ぬケガレによって忌避される場所ではありません。聖地として厳重に守護しなければならない場所だったのです。
 
 
 
前の章でもふれましたが、中世にはいっても、墓守といわれる人びとのなかで、藤原鎌足の廟のある多武峰の墓守は、非常に権威を持って威張っており、はやり神仏の隷属民である神人で寄人として特権をあたえられて、商売もやっております。これはけっして賤民ではなく、聖地である鎌足の廟を守る聖視された存在とみなくてはなりません。陵戸も同様に考えることができると思いますが、それではなぜこれらの人びとが賤という身分にされているのかが大きな問題です。
 
 
 
古代には鹿島神宮に結びついている神賤が唯一史料に出てくるだけで、この人びとが神の直属民であることは明らかですが、平民よりもむしろ強い武力を持っているため、当時「蝦夷」といわれた東北人との戦争に、律令国家によって動員されています。ですからこれも近世以降の「賤民」とはだいぶ異なるものがあり、これらの人びと、陵戸や神賤は、聖なるものに直属しているという点で一般平民と区別されており、そうした存在を律令国家は、ともあれ唐の制度をまねて「賤」というかたちに位置づけたのではないかと思います。
 
 
 
これは前の章でお話ししたように供御人、神人、寄人と同じで、これらの人びとは神の奴隷なので「神奴」、仏の奴隷なので「寺奴」といわれており、一見、賤民??奴隷のように見えるのですが、むしろ特権を持つ人びとでした。おそらく古代の陵戸、神賤もそれと同じなのではないかと考えられます。
 
 
 
ですから、古代における差別の問題を身分の上で考えると、二種類あって、ひとつはいまの奴隷と良民との区別、もうひとつは、のちに中世に出てくるような、人間のち力を超えた聖なるものに属する人びとに対する区別があったことになります。
 
 
(83.84.85頁より抜粋)
 
 
 
律令国家は「五色の賤」の制度を定めましたが、不思議なことに天皇の墓を守る墓守を、なぜ賤民の中に入れたのかという疑問が出てきます。
 
 
 
ある説では、死のケガレと結びつけて、墓があるのでケガレの場所であり、そのケガレた場所を管理するから賤民とされたというのです。
 
 
 
しかし天皇の墓=陵は一種の聖地であって厳重に管理しないといけない場所です。中世に入っても藤原鎌足の廟の墓守は非常に権威を持っていました。
 
 
 
東北人との戦争に、鹿島神宮の神賤が動員されたとも史料に出てきており、つまりは平民より強い武力を持っているのと、陵戸や神賤は、聖なるものに直属していることで、一般平民と区別されたのではないかと思われます。