まじで意味がわからなかった。

 

ある時を境に、いわゆるスピリチュアルとかが好きな奴らが、どんどんこの小さな町に押し寄せてくるようになった。

この町の湖に浮かぶ神の島とやらに行くために、わざわざ小船をチャーターして、パワースポットなんたらに行くことが、特別なことであるような顔をしながら受付にやってくる。

 

事務の女の子を雇うまでもない小さな釣り船屋だから、受付から船での送迎も全部俺がひとりでやっている。

だからいつもそんな客たちに何度も同じことを聞かれてうんざりしていた。

あまりに同じことを聞かれるもんだから、カレンダーの裏にマジックで質疑応答を書いて貼っておこうかと思った。

釣り船屋なのに、パワースポットブームに乗っかろうとしているみたいでみっともないからそんなことはしないけれど。

 

 

 

 

 

あの島は特別な場所なんかじゃない。

俺たちの住む町の湖に浮かぶ、人も暮らせないほど小さい島のひとつだ。

この辺りで釣れる魚が目当てで釣り人たちがやってくるだけの普通の島で、ただそこに祠があるだけだった。

 

昔の伝説かどうかは知らないが、訪れる人たちがそこまでありがたがる意味がわからない。

船の上でこの辺のことを得意満面に解説している客の話を聞いていると、ちょっとイラつくことがある。

地元でもないくせに、観光でただやってきただけのくせに、まるで自分がこのあたりの主だって勘違いしているのかと思う。

 

 

 

 

 

だけどまぁ、わずか往復二十分ほどの行程にまぁまぁの金を落としてくれるから、改めて考えればありがたいことではある。

湖の女神は金運の神様らしいけど、確かに地元の人たちにとって、ありがたい金運の神様だ。

 

今日もいつものようにスピリチュアル系の客がやってきた。

「ここから船で島に渡れるって聞いたんだが」

入口に立っていたのは八十代になろうかと言う婆さんだった。

 

こんな歳にもなってパワースポットをめぐっているのかと驚いたが、何故だろうか。その婆さんはなんだか他のスピリチュアル系の奴らとは違っていた。

なんていうか厳かなのだ。

そう。厳かと言う言葉がぴったりなのだ。

偉そうではなく、得意満面に何か言ってくるでもなく。

不真面目そうな様子が何もなくて、黙って言うことを聞きたくなる空気を持っていた。

 

婆さんは黙って金を払い、黙って湖を見つめていた。

連れ添った爺さんが湖に沈んでしまったのかと思うほど、それはそれは神妙な顔で湖をじっと見ていた。

だからいつもみたいにちょっと小ばかにして、スピリチュアルな奴らと呼ぶのが憚られた。

 

婆さんは年齢にそぐわない機敏さで船に乗り、背筋を伸ばして対岸の山を見ていた。

不思議なもんで、まるで婆さんに反応するかように、湖はいつもより波が高かった。

湖を巡る白波の立ち方を見ると、本当に龍がうごめいているようにさえ見えた。

波が強すぎて船が転覆しないかとヒヤヒヤした場面もあったが何とか島にたどり着いた。

 

「着いたよ」

俺がそう言うと、自分の足ですっと立ち上がり、よろけることなく船から下りた。桟橋に両足をつけて婆さんが振り返る。

「あんたも来なさい」

「いや、俺はちょっと」と渋っていると、いいからおいでと威厳のある声で再び言った。その声にはある種の畏怖さえ感じてしまった。

 

まぁ相手は客なわけだし、こんなこともたまにはあるさと言い聞かせて、仕方がなく俺は婆さんについていった。

木の根っこがそこら中の地面から這いまわるぬかるむ地面なのに、足を取られることなく婆さんは進んだ。

むしろ俺の方が足元がおぼつかないほどだった。

 

祠の前に来ると婆さんは聞いたこともない不思議な言葉を唱え始めた。陰陽師の映画で坊さんが唱えていた呪文のようだった。

すると、さっきまで青空だったのに、突然雲がどんどん走ってきて、一瞬であたりが真っ暗になった。

 

天気予報では一日中快晴だったし、何よりこんなにも局地的に一瞬で雨雲が集まるさまを俺は見たことがなかった。

何が起きるのかと見上げていると大粒の雨が降ってきた。

 

婆さんは動じずに祠に向かって一心に呪文を唱え続けている。

その時だった。割と近くで稲光がしたのと同時に爆発音のような雷鳴がとどろいた。

 

雷がそばで落ちたんだ。

振り返り木々の向こうから見える対岸の森の様子をうかがう。

不思議なことに、岸のほうは雨が降っているようには見えなかった。

さすがに俺は怖くなる。これはいったい何なのだ。そしてこの婆さんは何物なのだ。

 

前を見て婆さんの背中をじっと見つめるが、婆さんは祠に向かって相変わらず呪文を唱え続けていた。

婆さんが両手を空高く持ち上げて大きく何かを叫んだ。

婆さんの上空の雲間を抜けて白い太い光が婆さんが立つ場所に向かって勢いよく降りて来て、婆さんを通り抜けて光は地面にめり込んでいった。

 

「うわっ」そう叫ぶと尻もちをついてしまう。

光りが婆さんをすり抜けていく。婆さんは呪文を唱えるのをやめて身体ごと俺のほうにゆっくり振り返った。

「お前も子どもの頃にこの光のことをよく見ていただろう」

「はあ? 知らねえよ」

足に力が入らなくて立ち上がることもできないくせに俺は婆さんに強めにそう答える。

 

だけど本当は思い出していた。

そうだ。俺は子どもの頃よく親父の船で湖に出ていたが、時々この島に白い光が降りているのを確かに見ていた。

子どもだったし、そういう島だと俺のばあちゃんが言っていたから、そのことを特に不思議に思うこともなく、誰にも言わずに黙って見ていた。

そんなことをどうして忘れてしまっていたのだろう。

 

「あれは白龍だよ。

この湖に住んでいる龍のことをお前は知っているだろう」

「どうして俺があの光を見たことがあるって知っているんだ」

そう尋ねると婆さんはニッと笑った。

「だってお前にわざわざ見せていたからね」

 

わざわざ見せていた。婆さんの言葉の意味が呑み込めなかったが、そんな俺にかまわず婆さんは続ける。

「お前は小さい頃からいつも自分以外の人のことを思い、この町のことを思っていたのを知っているよ。湖のほとりの家に生まれ、毎日この湖にやってきては白い光を見ることができないかと眺めていたね」

 

ああ、そうだ。子どもの頃から俺は、時々空から下りてくる白い龍みたいな光がこの湖に降りてくるのを何度も見ていた。

見たからって何かあるわけじゃいけど、いつ湖から出てくるんだろうって、ずっとそれを眺めているのが好きだった。

ほんとうになぜそんな大事なことを忘れていたんだろう。

 

「そうだな。人は子どもの頃は自然の中に誰もが神を見ている。だけど世界が広がって楽しいことが目の前にどんどん現れてくるから、いつの間にか自然に神を見ることをやめてしまうのだ。

大人になるとほとんどの人間が忘れてしまうのだよ」

 

婆さんの言葉を聞いて、湖にやってくるようになったスピリチュアルが好きな客たちのことを思い出す。

いい大人なのに、見えない世界の何が面白くてそんなに夢中になるんだろうって理解できなかったけど、あれはもしかしたら、大人になっても自然の中に神を見るのを忘れずにいただけなのかもしれない。

馬鹿にしていたことを申し訳ない気持ちになった。

 

婆さんは俺の気持ちがわかったのか、またニっと笑った。

「お前は優しい男だ。そしてこの町を、故郷をとても大切に思っている。だからよそ者たちにむやみに荒らされないかと心配なんだ。特にこの島は聖地だから、汚されてしまわないかと、心配していたんだろうよ。

そのことにお前が気づいていたかどうかは知らないがね」

 

そうかもしれない。俺が腹が立っていたのは、俺らの聖地を荒らされているような気がしていたのかもしれない。

「それは間違っちゃいないよ。でもね、もし荒らされるようなことがあったなら、白龍が懲らしめるからお前が心配しなくてもいいのさ。

それよりもお前にはもっと重要な役目がある。この地に人々を運んでくる重要な役目だ」

 

役目なのか。そんな風に思ったことはなかった。それはもしかしたら誇らしいことなのかもしれない。

 

「この町に人が集まることは、力が集まることでもある。すべては悪いことではない。

そう思えばまた違う景色が見えてくるもんさ。

それにもし誰かがここを荒らすようになったら、その時はお前は船を出すのをやめることを選べるのだ。その一方でこに来てくれる人に感謝の気持ちを持って接することもできるのだ。どちらがいいのかよく考えてみるんだな」

 

確かに一方的にすべての人をやみくもに胡散臭い印象を抱くのは間違っていた。

肩の力が抜けて落ち着くと俺はこの状況は何だろうとおかしくなってきた。

これこそが、俺が馬鹿にしていたスピリチュアルってやつじゃないのか。

 

「この湖はお前だけのものじゃない、自然は誰かのものじゃないんだ。

みんなで分かち合い、みんなでしあわせになっていくことを考えるんだよ」

最後の声は婆さんというよりは、若い女の声だった。

はっとして婆さんを見ると、地面から白い光が上がってきて、婆さんの身体をどんどん包んでいるところだった。

光が当たった場所から婆さんの皮膚みたいなものがするする溶けていき、中から真っ白い着物を着た美しい女神のような女性が浮かび上がってくる。

 

 

 

 

 

「頼みましたよ」

そう告げると、婆さんだったその女性は、見たこともなく高貴な微笑みだけ残し、光が上昇するのに合わせて身体ごと空に上がっていった。

驚いて声も出せずに見ていたら、雷鳴が遠く響いて、かなり上まで上昇していった白い光が、龍のようにうねりながら空高く上がっていった。

 

惚けて見上げていたが、いつまでもこうしてはいられないと立ち上がった。

一応島を一周して探したけれど婆さんはどこにもいなくて、俺は帰ることにした。

消防や警察に届けるべきかと悩んだが、船に戻った時に婆さんが座っていたベンチに、手のひらほどの大きな真っ白い鱗を見つけたとき、このことは黙っていようと決めた。

 

嘘のような本当の話だ。

 

 

※阿寒のヤイタイ島に行った時、白い龍が上から下りてくるのを見た気がして、そのイメージで書きました。

こんな聖地に地元以外からどんどん人が来たら、わたしが地元の人ならどんな気持ちになるかなと想像して書きました(*^_^*)

 

白龍の女神は自分の姿をいつもキラキラの目で見ていた少年に豊かさのチャンスを与えたのに、感謝が足りないので、もっと素直になるよう伝えたかったのしれないですね。

 

「今日の夜、サンタさん来てくれるかな」

妹のまりかが、心配そうにそう聞いてきた。

「昨日もお弁当のにんじん残していたし。まりかのところにサンタさんが来るなんて半分半分だよ」

お姉さんのイゲンをタモつ声でそう言ってやる。

 


 

 

私がまりかに話す態度がいつも偉そうだとママが言ったら、パパが

「違うよ、ゆきなは姉としてのイゲンをタモつためにそんな言い方してんだよな」と庇ってくれた。

「小学二年生の子がそんなこと思うはずないでしょ」とママは呆れていたけど、ママは間違っている。だって私はちゃんと姉としてのイゲンをタモつためにそんな言い方をするのだから。

本当は意味がよくわからないけど、イゲンをタモつって、お姉ちゃんのほうが大人だとわからせてやることだと思っている。

 

「にんじん残すなんてまりかだけじゃないもん。すみれ組のみんなだって残しているもん」

「あ、出た、みんなシリーズ」

そうからかってやると、ぷっくり頬を膨らませて睨みつけてくる。妹のくせに生意気だ。

「みんなじゃないかもしれないけど、でもみんなだもん」

「はあ? 意味わかんない」

「意味わかんなくないもん。それに去年もまりか、にんじん残していたけど、ちゃんとサンタさん来てくれたもん。シルバニアのおうちをちゃんと届けてくれたもん」

ムキになるとまりかはめんどくさいので、その話には乗らずに無視をした。

 

まったくまりかは憎たらしい。いちいち口答えしてくることが腹が立つ。

それになんだかんだとサンタさんは甘いのだ。こんなにもわがままなまりかと、いつもママの言いつけを守る私のどちらにも、公平にプレゼントを持って来てくれるのだから。

 

だからどうせまりかは今年もプレゼントをもらえるって私は知ってるけど、だけどギリギリまで不安にさせてやりたくなる。

そんなふうに思った私は、にんじんを残すだけじゃないでしょと、まりかのダメなところをどんどん並べてやった。

 

私の言葉を聞くうちに、まりかの不安そうな顔がだんだん崩れて最後は泣き出してしまった。

 

うわーーーっと大声で泣くから、私たちの部屋にママがやってきた。そして私が叱られる。

「ゆきなはお姉ちゃんなんだから。小さい子にもっと優しくしなさい」

そのセリフを置き去りにママは、ワンワンと泣き喚くまりかを大事そうに抱き上げて居間に連れ去っていく。

 

ねえ、もしもし。その子もう来年小学生ですよ。赤ちゃんじゃないんですよ。

去っていくママの背中にそう言ってやりたくなる。

でもいい子の私はそんなことを言ったりしない。だけど、だけど…。

 

唇をかみしめてその場に立っていた私は我慢できなくなり、部屋にかけてあったコートを着ると、そのまま居間を通り過ぎ玄関から外に飛び出した。何も言わずに走って出て行く私の背後から、

「もうすぐ暗くなるわよ、どこに行くの」とママが叫んでいたが、玄関のドアを思い切り音を立てて閉めると、エレベーターにも乗らず、マンションの階段を駆け下りた。

 

マンションを出て大きな通りに出ると、山の上に大学がある坂道の方へ歩き出す。その坂の途中に、二年前まで通っていた幼稚園があって、その隣に古い教会がある。

少し暗くなってきた外を歩いている私の頭に、その教会の女神様の姿がありありと浮かんできた。

私は地獄坂と呼ばれる急な坂を上り始めた。すぐに教会の門が見えてきた。

門から教会の建物までまっすぐ伸びる坂道を駆け上がると、入り口の左側に、小さな祠がある。

私はそこにいる女神様が好きだった。

 

 

 

ママは「それは女神様じゃないわよ、マリア様よ」と言ったけど、マリアとまりかの名前が似ているので、あえて女神様、と呼んでいる。女神様の名前がゆきな様なら良かったのにとその時思った。

 

キリスト教の人じゃないけど、祠の前で私は、絵本で見たように両手を胸のあたりで組んで、頭を下げて祈ってみた。

 

「ママに明日はあなたの子どもの誕生日だって聞きました。だからお祝いを言いにきました」

そう言ってみたものの、次の言葉が出なくて顔を上げると、目の前に雪が降っていた。私は嬉しくて空を見上げた。

見上げた上にイエス様がいた。

教会の壁に貼り付けられたイエス様の像じゃなくて、ひとりの人としてそこに立っていたのだ。

 

蘭島の砂浜のような淡い色のワンピースのような服を着て、優しそうな茶色い目で私を見ていたので驚いてしまった。

 

イエス様の顔を見ていたら私の世界がぐるぐる回り始めた。頭の中に見たこともないようないろんな景色が見えてくる。

 

昔イエス様の近くでお話を聞いていたこととか、ヨーロッパの森の奥で暮らしていたこととか。

 

突然小さな女の子が眠っているのが見えた。

少し昔の日本だった。ママは着物を着て泣いている。体が弱くて長く生きられなかった妹だとなぜかそう思った。

 

あれはまりかだ。

そう気が付いた途端に、私の目から涙が溢れる。

「神様仏様、私の寿命を半分あげるから、どうかこの子を生き返らせてください。

それが無理なら今度はうんと元気な子どもにしてください。そして、また妹として生まれてこさせてください」

私は自分がそう神様仏様に祈っていたと思ってしまった。それは私じゃないのに私の思い出みたいで不思議だった。

 

突然その不思議な風景が消えた。

 

あれ?

今のはなんだったの?

イエス様はいつの間にか消えていた。

教会の壁にイエス様の像が張り付いているだけで、雪がどんどん上から私に向かって落ちているのが見えた。

 

 

 

でも、少しだけ反省する。

気がついたらずっといたから、まりかが生まれた時のことは覚えてないけど。

でも、こうしてみんな元気にいられることは、本当は奇跡なんだと思った。

 

祠の女神様に改めて

「私に元気な妹を与えてくれてありがとうございます」と声に出してお礼を言うと、

お姉ちゃん、と呼ぶ声がした。

 

「ママ、お姉ちゃん、いたよー」

坂の下を見ると門のところにママがいて、坂道を走ってくるまりかの姿が見えた。雪雲のせいで薄暗くなっていた街にはいつの間にか街灯が灯っていた。

 

走ってきたまりかが、私に抱きつきにっこり笑った。

なんとなく照れくさくて、だけど心から、元気に笑っていることが嬉しいと思えた。

 

まりかは私から体を離すと祠の前に行き、

「マリア様ー」とまるで友達にするみたいに女神像に手を振った。

 

「もう、心配したわよ」

マリカに追いついたママはそう言って水色のマフラーを私の首に巻く。

 

「マリア様にね」

寒さで鼻が赤い妹の顔を見ながら

「まりかにもサンタさんがちゃんと来てくれるようにお願いしておいたよ」

そう伝えると

「ほんとう? 」とまりかの顔中が笑顔になる。

 

「さすがお姉ちゃんね」

そう言うと、ママは私の頭を撫でてくれた。お姉ちゃんだからそういうのはいらないって思っていたけれど、やっぱり撫でられると嬉しかった。

 

「さあ、パーティーするんだから忙しいのよ、もう帰りましょう」

とママに促され坂道を降り始める。

バイバーイとマリア様に嬉しそうに手を振ったまりかが、私とママの間に入ってきて、ふたりそれぞれと手を握った。

 

「お姉ちゃん、姉のイゲンタモっていたよ」

まりかが嬉しそうにそう言った。

「意味わかんないくせに」とつぶやくと、ママが静かに笑っていた。

 

振り返ると女神様、ではなくてマリア様も笑っていた。

サンタさんはきっと二人ともに来てくれるだろうとそう思った。

白石弁財天

 

鯉が池で跳ねた音で目を覚ますと、新緑の木々に覆われた階段を、ひとりの女性がゆっくりと降りてくるのが見えた。池に浮かぶ祠の女神に願かけにやってきた人だろうか。

私は池のそばの高い木の梢に腰掛けて、その子のことをぼんやり見ていた。

橋を渡り始めたとき、その子は突然こちらを振り返った。その子と目があったので、ああ、私が見えるのだと思った。

すると、「見えています」とその子が言った。

「ずっとここにいるのですか? 」

 

そう語りかけてきたがその意味がわからない。

ずっとここにいる?

わたしはずっとここにいたのだろうか。

そう考えた途端に、突然木々の緑が消えて、吹雪いている寒そうな風景に変わる。

 

 

粗末な玄関の隙間から雪が吹き込んで寒いので、私は幼い弟や妹たちと体を寄せ合って座っていた。

玄関でしゃがみ込んで母さんが泣いている。父さんは泣いている母さんのすぐ隣に立ち、上から母さんを叱っていた。

父さんと母さんの前に立っていた知らない男の人が口を開く。

「その子はね、ここで暮らすよりずっといい暮らしができるんだよ。

あったかくて美味いもんたくさん食えるし、綺麗な着物も着れるし、いい旦那さんにみそめられたら、夫婦になることもできるんだから。そしたらうんといい暮らしができるんだ。安心してくれや」

 

母さんは顔をあげて悲しそうな目で私を見た。

私は母さんに頷いて見せる。そのおじさんのいうことが本当なら、私はいっていいよとそう伝えるために。

 

それから私は家族と離れ、船と列車で遠い街まで来た。連れて行かれた先はおじさんの話していたいい場所なんかじゃなくて、故郷よりずっと寒い北の国だった。

美味しいものなんか食べられなかった。確かに少しは綺麗な着物を着ることができたけど、それだけだ。与えられた粗末な部屋と仕事をする部屋の往復で、心と身体がどんどんすり減った。そしてある日私は血を吐いて床に倒れてしまった。

人と会える場所にいただけ幸せだったと気付いた時はもう遅く、窓のない狭い部屋で寝たきりになった。

 

なぜまだ生きているのだろう。

目覚めて薄暗い部屋の天井を見ながら何度もそう思った。

 

ある朝目覚めると、私の周りを真っ白な光が覆っているのが見えた。動けなかったはずの身体をすいっと起こすことができた。

光りの中で起き上がると私はふらふらと外に出た。十歳で故郷をあとにしてから初めて建物の外に出た。

私は嬉しくなった。見てみたい景色があったから、あちこちふらふら彷徨っているうちに、強い光に誘われてこの池のほとりまで来たのだ。

 

池の中には真っ白な着物を着た綺麗な女神様が立っていた。

女神様は何か私に話してくれていたけれどその声は聞こえなかった。だけど優しい空気が私を包んでくれたから。私はずっとここにいたいと思った。その日からずっとここにいるのだ。

 

「そうだったんだ」その子がそう声に出したので、やっぱり声が聞こえていたのだと思った。

「いいえ、あなたの人生が見えてきたの」

 

何故かわからないけれど、その子に見つめられると心のどこかでほんの少し炎がともったみたいな明るさを感じた。よく見ると、その子の背後に女神様のような白い光がゆらゆら見えた。

「あなたの人生を見ていたら、ひいおばあちゃんの話を思い出したの。

若く死んじゃった私のひいおばあちゃんの家はとても貧しくて、食べるものも着るものもろくになくて、生きているのが大変だったって。だけど生まれてしまったから、生きるしかないんだといつもそう言っていたって」

その子の後ろの光は切なそうにもっと揺れた。まるで私に何かを語りかけているみたいだった。

「だからね、あなたには一日も早く成仏してほしい。空に登って生まれ変わって幸せになってほしい」

 

その子の言葉に私は驚いた。

成仏?

私は死んでいるというの?

そんなこと、考えたこともなかった。生きているのか死んでいるのか、そんなことどちらでも良かったから。

 

『空に登って』と言われた私は空を見上げた。

遠い昔、この場所に連れてこられる旅の途中で見上げた空と、同じ青い空だった。

 

ああ…、空が青い。それに…お日様が光っている。いったいどれくらい長い間お日様を見上げたことがなかったのだろう。

そう思った瞬間だった。

 

私の体はどんどんお日様に向かって上昇しはじめる。どこまでもどこまでも昇る。

池も小さくなりやがてあの子の姿が見えなくなった。

どこまでも昇っていくと、やがて真っ白い世界に着いた。雲の中にいるのかと思った。

 

「お龍(たつ)」

 

そう呼ぶ声がした。それはとても懐かしい声だった。

ああ、そうだ。私の名前は龍だった。

「みんな生まれ年をそのまま名前につけたんだ。そうしたら生まれた年のことは忘れないだろ」

父さんがそう言っていたっけ。

振り返ると母がそこに立っていた。離れ離れになった日と同じ姿のままだった。

 

「ごめんな。お龍。おいしいものをたらふく食わせてくれるって。きれいな洋服を着せてくれるって。そんなの嘘だって、ほんとうは違うって母さん知っていたんだ。だから本当に…ごめんな」

「だからここで私が昇ってくるのを、ずっと待っていてくれたの? 」

私の問に答えず母さんはただ泣いていた。私は母さんのところに歩み寄り、その手を握った。

「母さん、ずっと待たせてごめんね」

「お龍」

母さんが私を抱きしめてくれた。女神様が包んでくれた時よりも、ずっとずっと暖かくて柔らかだった。

「母さん、会いたかったよ」

そう声に出したら涙がどんどんあふれてきた。涙が頬を伝い、首から胸に落ちていく。涙が通ったあとはどんどんぬくもりが蘇る。

生まれ変わりたい。今度こそちゃんと生きて幸せになりたい。はじめてまた生まれてきたいとそう思えた。

 

「母さん」

母の顔を見て私は言った。

「母さんも早く生まれ変わってほしい。そして早く私を産んで」

母は驚いて目を見開いた。

「私またお母さんの子供に生まれたいから」

 

「お龍・・・ 」

母に強く抱きしめられながら、ああ、そうだ。こんな風に誰かのぬくもりを感じたいとずっと思っていたなぁと母の胸で静かに泣いていた。

 

白い光の中に美しい女神のような存在を見た。池の上にいた女神様だ。光が私たちを包みこむと、私の心の奥から暖かい光が溢れてくるのを感じた。自分の体が溶けていき、光の中に消えていく。

やがて母の姿が見えなくなった。そして光だけが世界の全てになり、私の意識も消えていく。

光の粒子の中に溶け込みながら幸せな気持ちでいっぱいになる。遠くに暗闇が見えた。でもそれは悲しい暗闇ではなく、どこか清々しくもある暗闇だった。その証拠に私は怖くなかった。

 

誰かの声がする。その声がする方に進んでいくと暗闇の遥か彼方に小さな白い光が見えた。その光に吸い込まれるように進むと最後の最後に暗闇が渦になり、その渦はどんどん狭くなった。少し苦しかったけれど、私はくじけなかった。あの先にもっと輝く場所があるとわかっていたから。

 

やがて小さな光は大きな光になり、とうとう光が世界の全てになった。

私はまぶしくて目を閉じた。

 

誰かが言った。

「生まれてきておめでとう」

あの子の声かもしれないと思った。だけどそれが誰だったのか、曖昧で思い出せずにいた。

「やっと会えたね」

優しくそうつぶやく母さんの声がして私は光の中で大声で泣いた。

 

 

※あくまでもわたしの創作なので、この場所がそのような場所であるということではありません。

哀しい人生を生きた女性を救ってくれるエネルギーを感じたことから創作したものです。

 

結構前のことだ。

大陸でウィルス性の病が流行り、有名な巨大遺跡に行くはずの観光客たちが、アジアの端にある小さな遺跡を見るために、小樽に来ているらしいとニュースで見た。

幼い頃に遊びに行ったその遺跡が懐かしくて、20年ぶりに見に行った。

その遺跡は3000年前からそこにあった。

 

東日本で1番大きいと言われている、平地にある明るいストーンサークルを見たあとで、広場の目の前にある、小山の頂のストーンサークルを見に行った。

赤茶けた地面の山道を登り、てっぺんまで行くと、背の高い木々がストーンサークルを覆い隠しているように囲んでいた。

 

 

頂上で風が吹いた。
私たちを歓迎するかのように優しく梢が揺れていた。

 

何もないただの遺跡だからと飽きてしまったこどもを連れて山を降り始めた時だった。

どこからか『語り継ぐ者よ』、と呼びかける声がした。振り返ったが誰もいない。

気配があるほうを見上げた私の目に、真っ白な光に包まれた大きな羽の生えた女神のような存在が見えた。

 



女神の意識のようなものが私の中に入り込んでくる。


それは一瞬の出来事だった。宇宙の星が瞬く刹那に、私の中に1人の人生の全ての記憶が入ってきた。入ってきたのでは無く、もともとあったのだ。それが突然開いたのだろう。
それくらい当たり前に、自分の記憶になっていた。

 


私はかつてこの場所で生きていた。
遠いはるか昔、私はこの地で生まれ、巫女となるよう定められた。
運命の夜に女神と出会い、一気に能力が開花した。

女神から授かった預言は、大地に線を引き所有しようとする者達が村に押し寄せてくること。
村の人々を守るため共に旅立ち、やがて長い旅路の果てにある場所にたどり着いた。
私たちはそこにとどまり、小さな集落を作り、寿命を全うした。

それから何百年もの時が流れ、私はそこで、かつて巫女として生きた女性の子孫として生まれた。
その時の私は、かつて巫女に故郷を捨てさせた時と同じく、大地に線を引き所有する人達の手により、狭い世界に閉じ込められていた。

今と同じだ。


私は目を閉じ、いくつかの人生が流れていく時空の中で、悲しみの思いが重なるのを感じた。

あの時も自由を奪われていた。
こんなにも自由が欲しいというのに。
あの岩山を超えて、まだ見ぬ広い世界を見たいのに。

なのにずっと閉じ込められている。あの時もそして今も。

自分の運命の意味がわからなかった。困惑する私に女神は言った。

 

『閉じ込められし肉体の中で、これからもあなたは多くの経験をしていくことでしょう。
その場所に留まらなければいけない理由がわからず、苦しむ日もあるでしょう。
ですがその呪縛から解き放たれる日は必ず来るのです。
強い風が吹く時代、あなたの魂は自由となり、世界を駆け巡るのです。それまでに見てきたこと、感じたこと、あらゆることをその胸に、真実を口にするために、あなたは自由に世界を駆け巡るのです。

語り継ぐものよ。
この星が生まれた時からの記憶を全てその中に止め、世界を駆け巡り語り継ぐのです。

この星がなぜ生まれたのか。
この星をつくった神々がどのような思いでいたのか。
神々がどれほどあなたたちを愛しているのか。

その全てを語り継ぐのです。

語り継ぐものよ。
その足で立ち、その目で全て見てくるのです。

さあ、安心してあなたの人生を生きなさい。
わたしたちはいつもあなたを見守っているのですから』

 

そうして女神は消えた。

あれは幻だったのか。古代の人たちの記憶の断片だったのか。
真実は誰にもわからない。

だけどわたしはわたしの人生を歩いていく。
そして見たこと感じたことを、確かに語り継いでいく。

そう微笑んだ時、山を守るように茂る木々の梢が再び優しく揺れた。