こんばんは。
今日は3.11から2年たったんですね。
地震の当日のことをどこかに書く心の余裕がずっと
なかったのですが、今日はあえて、再現してみます。
そんなん、読みたくないひとはスルーしてくださいね。





地震があったあの日、私は職場で授業をしていました。
自分のクラスで、たしか学級活動で、楽しい球技大会のメンバーとか審判とかを
決めてたところでした。

私は子どもの頃、宮城県沖地震を体験していて、
ゆれには敏感です。

そして悲しいかな、あまり怖く感じません。
なので、あのときも、
「地震だ!」と一番に気づいたのは私でした。

鉄筋とはいえ、古い校舎の4階は、
それはとても揺れました。
私は、とにかく生徒を机の下に入れる、
自分は壁によりかかりながら、
安全の確認する。

ぶら下がり型の蛍光灯があぶない、と思い、
蛍光灯の下の子ども達によけるように
言ったこと、
窓ガラスが割れるかも、と窓側の生徒達に離れるように
指示をだしたこと。

女子の悲鳴と鳴き声と
先輩教師がすぐに見回りにきてくれたことが
ありがたかったです。


生徒はその後、解散し、
私たちも4時半をめどに帰宅OKの指示がでたのですが、
保育園には全く電話がつながらず。(停電していたらしい)
実家の妹からはすぐにメールで連絡がきて、弟とともに無事だったこと。
その後、しばらくメールでも連絡がとれなくなったので、この一報には
未だに感謝しています。

私が東北出身だと知っていた先輩たちが、

「おうちに着くまで絶対にテレビみちゃだめ。
きっと動揺して事故になるから」と声をかけてくれました。

職場ではテレビがあって
仙台空港が津波にのみ込まれる映像が流れていたそうです。

自宅まで普通なら30分程度のドライブが、
なんと2時間半。
途中の信号も停電で止まり、意外とみんな気をつけて、
譲り合いながら運転して自宅まで帰りました。

偶然にも、実家の母が上京していてくれて、
大きな地震を体験していたので、

「まず、ガスを確かめて、日のあるうちに夕飯をつくっておいた」
「それから孫(私の息子)を迎えに保育園へいった」
ナイス判断マミー!

私が自宅へ着いたのが6時。
自宅は停電していましたが、母と息子がろうそく(アロマ用のがあった)をみつけて
テーブルで誕生日ごっこをしてくれてまっていてくれました。

お店もしまってたし、私だけだったら
どんなことになっていたのだろうと思います。


停電は夜の9時半には復旧し、ほっとしました。
テレビをはじめてその時みました。

当時新幹線通勤だった、夫を迎えに夜12時に3駅むこうまで
お迎えにいきました。12時近くにもかかわらず、
駅からぞろぞろと人が歩いて帰っていきました。

息子を寝かせ、やっと家族そろってテレビをみて
故郷の惨状を目の当たりにしました。

小さい頃連れて行ってもらった海。

友達が住んでいた町

たくさんの人が亡くなり、
故郷は深く傷つき、
今なお復興には時間がかかっています。

私の実家は内陸で、家屋や人命は無事でしたが、
ライフラインの完全普及まで2週間かかりました。

私の母も新幹線のストップにより、半月も帰ることができず。







あれから終業式を迎え、春休みになってやっと母は東北へ高速バスで帰り、
私も新年度に向かって仕事を継続したのですが、

私の何かが深く静かに壊れてしまいました。

そして四月の最初の週に私は発病し、
休職することになりました。

震災だけが原因ではないけれど、
何かのきっかけにはなってしまったように思います。




お亡くなりになった方々、
未だ復興にがんばっている方々

私にはまだ、被災地をみる勇気さえないけれど、
故郷に思いを馳せる一人です。

今日は大きな決断を一つしました。
きっといつか故郷のために
なにかできる人になりたいです。