451

「できなくてもしょうがない」は、終わってから思うことであって、途中にそれを思ったら、絶対に達成できません。

イチロー
 
次々と大リーグ記録を塗り替える野手。打率2割そこそこで終わった昨年もそうだが、「壁」にぶち当たったことは山ほどあったはず。だが「壁」を、限界ではなく足がかりとして未知のゾーンに踏み込んでいった。そもそも「壁」というものは、もっと先へという気持ちがなければ現れてこない。「イチロー262のメッセージ」から。(鷲田清一)

2016.7.7


452

私たちは、ある場所の中で、ある時間の流れの中で、身体の働きの一部として考える

河野哲也
 
思考は頭の中でなされる抽象的な作業のように言われるが、じつは人それぞれが位置する特定の場所で、身体の運動として立ち上がる。人が身体ごと住み込む「自分の意図では制御できない」状況のただ中で紡がれる。そして他の場所から立ち起こる思考と交わり、夥(おびただ)しい経験に裏打ちされて、磨かれた単純なことばが生まれる。哲学者の「いつかはみんな野生にもどる」から。(鷲田清一)

2016.7.8


453

きのふいらつしつてください。

室生犀星
 
昨日の今頃やってきて、どうぞ昨日の私にお逢(あ)いください、と続く。ただし「行停(どま)りになつたけふも/あすもあさつても/あなたにはもう何も用意してはございません」。詩人は女になりきって颯爽(さっそう)と言い捨てる。失った恋の記憶を未練がましく「名前をつけて保存」したりせず、済んだことはさっさと消す「上書き保存」というやつか。詩「昨日いらつしつて下さい」から。(鷲田清一)

2016.7.9


454

不完全を厭(いと)う美しさよりも、不完全をも容(い)れる美しさの方が深い。

柳宗悦(やなぎむねよし)
 
人はだれしも過ちや矛盾をまぬがれない。完全からはほど遠い。巧みに描かなければ美しくならないような絵が、ついにまずまずというところまでしか行けないのなら、過ちや矛盾を取り去って完全をめざすよりも、完全か否かの分別へのこだわりを捨て、「不完全なままに謬(あやま)りのない世界に受(うけ)取られる」ことをこそ願うべしと、民芸の思想家は言う。「美の法門」から。(鷲田清一)

2016.7.10


455

「どこにいくのかなあ?」「というより なにから逃げてるかが 問題よ」

ムーミンとミイの会話
 
空の異変でも察知したのか、お化けのニョロニョロが逃げ出す。これを見てムーミン谷の仲間も、訳もわからずそれに続く。どうしたものかと思案するムーミンに、ちびっこ娘のミイがこう言う。何かから逃げているだけなのに、どこに行くべきかと、人もよく問題をすり替える。トーベ&ラルス・ヤンソンのムーミン・コミックス「彗星(すいせい)がふってくる日」(冨原真弓訳)から。(鷲田清一)

2016.7.11


456

古今東西 人間みなチョボチョボや

小田実(まこと)
 
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という、福沢諭吉が「学問のすすめ」の冒頭で引いたことばを彷彿(ほうふつ)とさせる。人の存在に価値の差はなく、またあってはならないという考えだ。が、作家はこれを、「天賦」のものとして上を仰いで評するのではなく、あくまで人々にまみれるなかで横向きに語る。兵庫・芦屋浜に設置された「小田実の碑」に刻まれたことば。(鷲田清一)

2016.7.12


457

同じ権利を持ちたいと思っただけで、男性になりたいわけではありません。

ニキ・ド・サンファル
 
銃弾で絵の具を飛散させ染め上げたレリーフや彫刻、とてつもなく巨大な女性のボディーや頭部のオブジェを造ってきた美術家。女性であることを、不安や諦めではなく解放や希望として生きたい、「これまでの女性たちと違う生き方をしたい」と語った。そのニキの美術館設立に、後半生を捧げたのがヨーコ増田静江。彼女の生涯を描いた黒岩有希の「ニキとヨーコ」から。(鷲田清一)

2016.7.13


458

「心をもつ者」として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長するのだ。

下條信輔
 
乳児に、ペットに、「心」はあるか? この問いは間違っていると認知心理学者は言う。私が語りかけ、また私に語りかけてくる者として相手を扱うことの結果として、「心」は生まれてくる。だから「心」は脳における神経生理的な過程として分析されるより先に、交わりという場面で問われねばならないと。「まなざしの誕生」から。(鷲田清一)

2016.7.14


459

これでもうさわってはいけない、というときってあるんですよね

内藤礼
 
作品をつくる中で、「ここだ」というのはわかるけれど、なぜかというのはわからないと、壊れやすいものへの微細な視線でオブジェを制作してきた美術家は言う。つくることは自己表現ではなく、自己を超え出るためにある。だから、つくるという意識からまずは離れ、自分を超えた何かが立ち現れるその瞬間に身を委ねるのだと。インタビュー記録「内藤礼〈母型〉」から。(鷲田清一)

2016.7.15


460

人間が……接触恐怖から自由になれるのは、群衆のなかにいる瞬間だけである。

エリアス・カネッティ
 
異質なものの出現に目を輝かすのではなく、それとの接触を恐れる者は、我先に群れの中に潜り込もうとする。密着すれば自他の境も消えてしまうから。群れの中に自己を消し去りつつ、他の個人ではなく他の群れと対峙(たいじ)する。異質なものに身を開いてゆく文化をこそ、人は長い時間をかけ培ってきたはずなのに。ブルガリア生まれの作家の「群集と権力」(岩田行一訳)から。(鷲田清一)

2016.7.16


(鷲田清一「折々のことば」/朝日新聞連載)




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