前回のブログに続き、オウムの問題を考えます。今回は僧侶の小池龍之介(こいけ・りゅうのすけ)さんの意見を読んでみましょう。

前回の宇野さんが「資本主義とネットの潜在力がオウムの問題を半ば自動的に解決してしまった」と発言したのに対して、小池さんは「オウムという課題は中ぶらりんのまま残されている」と言います。



中ぶらりんのまま残された


地下鉄サリン事件が起きたとき、私は高校生でした。正直、オウム真理教はおかしな人たちが信じる特殊な宗教で、自分とは別の世界と見ていました。

しかし振り返ってみると、私たちの世代が抱えていたイライラした感じや、どこか「この世界なんてぶっ壊れても構わない」という感覚は、けっこう通じるところがあった。紙一重だな、と感じるようになりました。

私たちは、自分の「特別性」というものを獲得しなきゃいけない、と教えられた世代です。学校ではあなたならではの意見を述べることができる人になりなさい、と求められた。メディアは「あなたはかけがえのない存在。自己実現しなさい」といったメッセージを発し続けていた。

そうした「きれいごと」と、ささくれだった現実との間にはギャップがありすぎて、つらい。自己実現できる人は限られていて、ほとんどは交換可能な存在にすぎない。それなのに、個性という幻影が礼賛され続けられています。

ところが、オウムは個人を全面承認してくれる。ときには特別な使命も与えてくれる。現代社会は個性を与えてくれず、約束破りなのに対し、オウムは裏切らずに「かけがえのないあなたの実現」という、現代社会の約束を果たすかのようです。

本来、仏教は「人生や自分の存在に価値などない」と説く。現実認識で、冷徹さがある。それに対してオウムは、仏教の仮面をかぶっているので解脱や悟りを説くのですが、あたかもスーパーマンのようになれると教える。「自我肥大」の可能性を信じさせてくれるという意味で、オウムは甘いのです。信者たちが、現実を知らない坊っちゃん・嬢ちゃんに見えるのはそのためではないでしょうか。

新宗教であってもふつう、現世の価値は否定せずに「このやり方のほうがうまくいくよ」と説く。つまりゴールは変更せずに、ルール変更を語るわけです。ところがオウムは現実社会との接点を持たずに内に閉じた。「この社会は完全に間違っているから破壊するべきだ。別のゴールを設定しよう」と全否定に走ったのです。

宗教は「負けている人」の逆転勝ちしたいという欲望をかきたてるところがあるのだと思います。世の中に違和感を抱く人。「かけがえのないあなた」という甘いメッセージと「ちっぽけな自分」という現実との落差に苦しむ人。自分の価値が見いだせず、敗北者の気分になっている人。そうした人たちも、世界観を転換することで「勝利者」になれるわけです。

突拍子もない教義のオウムに理系出身者や高学歴の人が多く加わっていたことが不思議がられましたね。でも、人間には「正しい/正しくない」という価値判断のほかに「面白い/つまらない」という価値判断がある。想像を絶するようなファンタジー(幻想)は、正しいかどうかを超えて「すごい!」となる。それが事後的に「正しい」となるのでしょう。

自己実現や生きる意味を探す人はまだまだ多い。オウム的なものはまだ、一部の人を引きつける力を持っているでしょう。いまの社会に違和感を抱く人には「この世界を壊して逆転勝ちしたい」という方向とは別に、この世界に染まらずに超越するという考え方もあります。「社会は汚れているけど、自分は清らかで他人より勝っている」という発想ですね。実際、私のところで仏教を学びたいという人のなかには、そういう思考を持った人がちらほらいます。

実は、それはものすごく強烈な自己変容への欲望であり、自我肥大の一つのバリエーションなのです。私はもっと気楽に仏教を実践してくれる人のほうが迎え入れやすいんですけどね。

いまも一定数、新しい世代が「アレフ」や「ひかりの輪」に入信し続けているそうですね。社会の基本構造が変わっていないから、というのが背景の一つにはあるでしょう。それどころか、サリン事件のころよりも「自分の価値」は見いだしにくくなってはいないでしょうか?オウムという課題は中ぶらりんのまま残されていると思います。

(朝日新聞2012.8.25)




「かけがえのないあなたの実現」という現代社会のおためごかしは、今も続いています。

オンリーワンであれ、夢を持ち続けよう、そんな「励まし」があだとなって、今の若者たちは「ちっぽけな自分」という実像を素直に認めることができずにいます。

そこから「逆転勝ちしたいという欲望」や「強烈な自己変容への欲望」が芽生えます。

「この世界を壊して逆転勝ちしたい」という欲望は人をテロへと走らせ、「この世界に染まらずに超越するという考え方」も現実社会との接点を持たずに内に閉じたオウムと変わりありません。

自我肥大せずに、「ちっぽけな自分」のまま生きるすべはないのでしょうか。

「人生や自分の存在に価値などない」と説く仏教の教えからすれば、「かけがえのない」特別な人も、「かけがえのある」普通の人も、その価値は等価です。

夢を追い続けたい人はそうすればいいし、夢なんて特にない人は無理に夢を持つ必要もない。

自己実現や生きる意味に人がとらわれ続ける限り、「オウム的なもの」は決してなくなることはありません。




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