新聞の連載エッセイの中で、三谷幸喜さんが実にうらやましい話を披露しています。



キョンキョン兄貴


五月に入ったある日、夜の十時頃だったろうか。朝から自宅で書いていた原稿がようやく脱稿し、疲れたので早めに寝ようかと思っていた矢先、携帯が鳴った。平野レミさんからだった。ご主人の和田さんと飲んでいるようだ。

「とにかく来て。今すぐ。いいから、早く!」と電話の向こうでレミさんは興奮状態。こんなことは今までなかったので、眠かったが慌てて着替え、指定されたお店に駆けつけた。そこには既にお酒の入ったレミさんと和田さん、そしてその横には小泉今日子さんがいた。和田さんご夫妻は、その日久々に小泉さんと食事をしたらしく、僕が長年来のファンであることを思い出して、声を掛けてくれたのだ。

あのキョンキョンが目の前にいる。とても現実とは思えなかった。生キョンキョンは、既にかなりいい感じで出来上がっていた。べろべろ一歩手前。

素顔の小泉さんは、アイドルのイメージとかけ離れていた。一言で言えば「姉御」。いやもう「兄貴」レベルかも知れない。煙草をふかす姿がやけに格好いい。まさに男前。かなりあけすけに自分の話をする。ざっくばらんすぎて、愕然となる瞬間が何度もあった。嫌いなものは嫌いとはっきり言い、許せないことに対しては、「それはクソだね」という表現でばっさり斬り捨てる。声質だけは、昔のアイドル時代から変わっていないので、そのギャップが凄い。見た目は鷹なのに鳴くとウグイスみたいな、そんな感じ。

めくるめくような夜。信じられないことだが、僕らはそれからカラオケに行った。小泉さんが松田聖子さんの「風立ちぬ」を歌い、目の前でそれを聴く、とんでもない幸せ。僕が「ロマンスの神様」をキーを下げて歌うと、小泉さんは「無難に歌うな」と一喝、強引にリモコンで原キーに戻された。さすが兄貴。

さらに信じられないことだが、カラオケの後、和田夫妻が帰られてから、僕は小泉さんに誘われ、三十分だけという約束で、新宿二丁目のバーへ行った。彼女行きつけのお店らしかった。

僕の方が年上なのに、そしてほとんど初対面に近いというのに、小泉さんは僕にとって人生経験豊富な「頼れる先輩」と化していた。僕は生きる上での様々なアドバイスを頂いた。話に夢中になりながら、たまに我に返って、夜中の三時過ぎにキョンキョンと二丁目のバーにいる不思議をしみじみ味わった。そしてきっかり三十分経った時、「じゃあ、もう帰っていいよ」と言われて、僕は彼女を残して店を出た。

あれは現実のことなのだろうか。翌朝、声がガラガラになっていたので、「ロマンスの神様」を原キーで歌ったことだけは、間違いなく事実のようである。

(朝日新聞2012.5.10)




小泉今日子とカラオケに行き、キョンキョンの歌う松田聖子を聴く。

夜中の三時に新宿二丁目のバーに小泉今日子と二人きりで飲みに行き、話をする。

それは夢に違いない。現実であるわけがない。三谷さん、あなたは夢を見たのです。そんな幸せなことが現実に起こってほしいという願望が、あなたに夢を見させたのです。その証拠に現実感がまるでないでしょ?

……なんて、三谷幸喜を羨む私であった。





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