元ビートルズのジョージ・ハリスンは、1943年2月24日、リヴァプール市ウェイバートリー区アーノルド・グローヴ12番地で、当時バスの運転手をしていたハロルド・ハリスンと妻ルイーズの4人姉弟の末っ子として誕生しました。
12歳の姉ルイーズと7歳と3歳の兄、ハロルドとピーターがいました。次兄のピーターは、小学校の時、ジョン・レノンと同級生だったそうです。
誕生日に関しては、出生届が2月25日だったため、長らく25日とされてきましたが、「本当は、2月24日午後11時42分生まれ」と本人が1992年に明かしています。
末っ子として生まれたジョージは、ビートルズの中でも末っ子的存在でした。
ビートルズの中には、とんでもない兄が二人いました。
カリスマ的魅力をもつ長兄のジョン。
音楽的才能の固まりである次兄のポール。
ジョンとポールという二人の天才がいつもそばにいるという心理状態はどんなものだったのでしょうか。
ジョージ以外には誰にもわかりません。でも想像するに、相当なプレッシャーだったのではないかと想像されます。
ジョージは考えたはずです。二人に対抗する自分の持ち味は何か、と。
ジョージは残念ながら、天才的ギタリストというわけではありません。ヴォーカリストとしての実力も、ジョンとポールにはとてもかないません。線が細く、少々音程が不安定なのです。ソングライターとしても、まだまだ未熟です。
この“末っ子”の気持ちがわかりますか。
ビートルズの音楽の中に、自分の歌やギターをどう刻んでいくか。ジョージは必死に考えたに違いありません。インド音楽に走ったのも、多分ジョンとポールに対抗するためだったのではないでしょうか。
でもジョージには、ひとつの武器がありました。“耳の良さ”です。音感に対しては、ジョージは絶対の自信をもっていたらしい。
「レス・ポールのギターをギュンギュンいわせたり、ディストーションをかけまくったりするのは苦手なんだ。人生には“何をするか”よりも“何をしないか”が大事な時もある。ぼく個人としては、フラットとシャープの違いも聴き分けられない鈍感なギタリストが、ガチャガチャいろんな音を鳴らしているのより、シンプルなスリー・ノートの曲の方がずっと気持ちいい」
(ジョージ・ハリスン 1979.2 )
繊細さのかけらもないパンクを、ジョージが毛嫌いしていた話は有名です。あんな音感の悪いやつらにまともな音楽ができるわけない、と(もちろんパンクの側にはパンクの側の言い分があります)。
そう言えばビートルズのハーモニーの中でも、いちばん難しいパートを受け持つのはジョージでした。ジョンとポールの二人のハーモニーにジョージが加わると、そこに深い味わいが出ます。
ジョージの存在は、自身が考える以上に重要な存在だったのかもしれません。
ジョンとポールの二人のハーモニーの中に入っていけるのは、ジョージだけです。
そして、とかく過小評価されがちなジョージのギターを「素晴らしい」と評価する人がいます。はっぴいえんどのギタリストだった鈴木茂さんです。
「クラプトンの音は繊細さに欠けるところがあって、歪ませすぎるか、全然歪ませないかなんです。ジョージのように曲に合わせるということはあんまりしない人ですよね。ジョージほど、この曲にはどういう音がいいか考えるギタリストはいないんじゃないか」
「僕がジョージの一番すごいなと思う点というのは、音を作る能力で、それが普通じゃないというか。この人ほど一曲一曲微妙に楽器を変えたり、その楽器の音色を機材で変えたりといった作業をしてる人ってあんまりいないと思うんですよ」
「彼のギターのテクニックのすごいところはヴィブラートなんですよ。あの指の揺らし方は難しいんです。実はジェフ・ベックとかジミ・ヘンドリクスとかクラプトンとか、ああいう人たちのヴァイブレーションのかけ方は素人が真似しやすいんですけど、一番真似しにくいのがジョージ・ハリスンなんです」
(「レコード・コレクターズ増刊」2002.3 )
さすがに、プロのミュージシャンの見る所は違います。
とかくギターのテクニックというと、超絶技巧的な派手な所に目がいきがちです。どうだ、上手いだろう、というやつです。
でもジョージに限らず、ビートルズのメンバーはそういうタイプのミュージシャンではありません。まず曲ありき、歌ありきなのです。歌をいかに輝かせるか、そのためのテクニックです。
そう考えるとジョージの“耳の良さ”は、ビートルズにとっても大きな武器だったに違いありません。彼の存在なくして、ビートルズはあり得なかったのです。
もう1つジョージのエラい所は、ソングライターとしても自力で成長していったことです。
ジョンとポールは、互いに助けあって曲作りをしていました。しかし、ジョージにはパートナーはいません。自分ひとりで曲を作るしかなかったのです。
そんなジョージのソングライターとしての才能が全面開花しはじめたのが、『ホワイト・アルバム』(1968)です。
このアルバムに入っているジョージの曲は、どれも素晴らしい。特に「While My Guitar Gently Weeps」のメロディは、ビートルズの曲の中にあってもピカいちでしょう。心が切なくなるようなメロディです。
そして、ビートルズのラスト・アルバム『アビイ・ロード』(1969)において、とうとうジョージは実力でジョンとポールの曲を超えてみせました。
その2曲が、「Something」「Here Comes The Sun」です。
ジョンとポールも認めています、『アビイ・ロード』における最高の曲はジョージの曲だ、と。
“末っ子”のジョージが、二人の天才の兄に自分を認めさせた瞬間です。
そんなジョージを見ていると、本当に大切なのは才能ではなく、“意志”なのではないか、と思えてきます。
決してくじけない“意志”。
でもその意志を持ってしても、病には勝てませんでした。
ジョージは2001年11月29日に、ガンのためこの世を去ります。58歳でした。もし生きていれば、今日が70歳の誕生日だったことになります。
ジョージはこの世界から去っていきましたが、彼の音楽は遺されました。
ジョージに学ぶべきことは、まだまだたくさんあるように思います。
ホントにエラい人でした。
12歳の姉ルイーズと7歳と3歳の兄、ハロルドとピーターがいました。次兄のピーターは、小学校の時、ジョン・レノンと同級生だったそうです。
誕生日に関しては、出生届が2月25日だったため、長らく25日とされてきましたが、「本当は、2月24日午後11時42分生まれ」と本人が1992年に明かしています。
末っ子として生まれたジョージは、ビートルズの中でも末っ子的存在でした。
ビートルズの中には、とんでもない兄が二人いました。
カリスマ的魅力をもつ長兄のジョン。
音楽的才能の固まりである次兄のポール。
ジョンとポールという二人の天才がいつもそばにいるという心理状態はどんなものだったのでしょうか。
ジョージ以外には誰にもわかりません。でも想像するに、相当なプレッシャーだったのではないかと想像されます。
ジョージは考えたはずです。二人に対抗する自分の持ち味は何か、と。
ジョージは残念ながら、天才的ギタリストというわけではありません。ヴォーカリストとしての実力も、ジョンとポールにはとてもかないません。線が細く、少々音程が不安定なのです。ソングライターとしても、まだまだ未熟です。
この“末っ子”の気持ちがわかりますか。
ビートルズの音楽の中に、自分の歌やギターをどう刻んでいくか。ジョージは必死に考えたに違いありません。インド音楽に走ったのも、多分ジョンとポールに対抗するためだったのではないでしょうか。
でもジョージには、ひとつの武器がありました。“耳の良さ”です。音感に対しては、ジョージは絶対の自信をもっていたらしい。
「レス・ポールのギターをギュンギュンいわせたり、ディストーションをかけまくったりするのは苦手なんだ。人生には“何をするか”よりも“何をしないか”が大事な時もある。ぼく個人としては、フラットとシャープの違いも聴き分けられない鈍感なギタリストが、ガチャガチャいろんな音を鳴らしているのより、シンプルなスリー・ノートの曲の方がずっと気持ちいい」
(ジョージ・ハリスン 1979.2 )
繊細さのかけらもないパンクを、ジョージが毛嫌いしていた話は有名です。あんな音感の悪いやつらにまともな音楽ができるわけない、と(もちろんパンクの側にはパンクの側の言い分があります)。
そう言えばビートルズのハーモニーの中でも、いちばん難しいパートを受け持つのはジョージでした。ジョンとポールの二人のハーモニーにジョージが加わると、そこに深い味わいが出ます。
ジョージの存在は、自身が考える以上に重要な存在だったのかもしれません。
ジョンとポールの二人のハーモニーの中に入っていけるのは、ジョージだけです。
そして、とかく過小評価されがちなジョージのギターを「素晴らしい」と評価する人がいます。はっぴいえんどのギタリストだった鈴木茂さんです。
「クラプトンの音は繊細さに欠けるところがあって、歪ませすぎるか、全然歪ませないかなんです。ジョージのように曲に合わせるということはあんまりしない人ですよね。ジョージほど、この曲にはどういう音がいいか考えるギタリストはいないんじゃないか」
「僕がジョージの一番すごいなと思う点というのは、音を作る能力で、それが普通じゃないというか。この人ほど一曲一曲微妙に楽器を変えたり、その楽器の音色を機材で変えたりといった作業をしてる人ってあんまりいないと思うんですよ」
「彼のギターのテクニックのすごいところはヴィブラートなんですよ。あの指の揺らし方は難しいんです。実はジェフ・ベックとかジミ・ヘンドリクスとかクラプトンとか、ああいう人たちのヴァイブレーションのかけ方は素人が真似しやすいんですけど、一番真似しにくいのがジョージ・ハリスンなんです」
(「レコード・コレクターズ増刊」2002.3 )
さすがに、プロのミュージシャンの見る所は違います。
とかくギターのテクニックというと、超絶技巧的な派手な所に目がいきがちです。どうだ、上手いだろう、というやつです。
でもジョージに限らず、ビートルズのメンバーはそういうタイプのミュージシャンではありません。まず曲ありき、歌ありきなのです。歌をいかに輝かせるか、そのためのテクニックです。
そう考えるとジョージの“耳の良さ”は、ビートルズにとっても大きな武器だったに違いありません。彼の存在なくして、ビートルズはあり得なかったのです。
もう1つジョージのエラい所は、ソングライターとしても自力で成長していったことです。
ジョンとポールは、互いに助けあって曲作りをしていました。しかし、ジョージにはパートナーはいません。自分ひとりで曲を作るしかなかったのです。
そんなジョージのソングライターとしての才能が全面開花しはじめたのが、『ホワイト・アルバム』(1968)です。
このアルバムに入っているジョージの曲は、どれも素晴らしい。特に「While My Guitar Gently Weeps」のメロディは、ビートルズの曲の中にあってもピカいちでしょう。心が切なくなるようなメロディです。
そして、ビートルズのラスト・アルバム『アビイ・ロード』(1969)において、とうとうジョージは実力でジョンとポールの曲を超えてみせました。
その2曲が、「Something」「Here Comes The Sun」です。
ジョンとポールも認めています、『アビイ・ロード』における最高の曲はジョージの曲だ、と。
“末っ子”のジョージが、二人の天才の兄に自分を認めさせた瞬間です。
そんなジョージを見ていると、本当に大切なのは才能ではなく、“意志”なのではないか、と思えてきます。
決してくじけない“意志”。
でもその意志を持ってしても、病には勝てませんでした。
ジョージは2001年11月29日に、ガンのためこの世を去ります。58歳でした。もし生きていれば、今日が70歳の誕生日だったことになります。
ジョージはこの世界から去っていきましたが、彼の音楽は遺されました。
ジョージに学ぶべきことは、まだまだたくさんあるように思います。
ホントにエラい人でした。