元気を奪う宇宙観第7回目のテーマは「迷惑」です。

80年代の話ですが、アメリカ留学中に銃犯罪で脊椎損傷の重傷を負い、日本では学業も就職も不可能だったため、アメリカの友人や恩師達に相談し、単身アメリカに渡って、大学卒業・就職した人が居ました。この人が日本で学業を続けられなかった理由は、障がい者が学校に行こうとしたり、就職しようとしたりすると、「周りに迷惑がかかる」と考える時代だったからでした。(今はもう、そんなことはない、と思いたいですが、どうでしょうか。)

英語が母国語でない人が、車椅子に乗ってアメリカに渡り、アメリカの大学を卒業し、アメリカで就職することを、アメリカの人達は「迷惑」とは考えなかったわけでした。この違いは何だったのでしょう。

という例を挙げるのは、アメリカ礼賛したいからではなく、30年ほど前の日本では、「迷惑」という概念が、あらゆる街角に立ちはだかり、大変生きにくい国だったということを思い出したからです。

その頃の日本で、私は、駅員さん、郵便局員さんに怒鳴りつけられたことがあります。理由は、それぞれ、改札を間違えて道を聞いたこと、切手を間違えて貼っていたこと、でした。同じ駅員さんや郵便局員さんが、年長者や男性には丁寧に対応しているのを見て、20歳そこそこの若い女が頓珍漢な質問をしたり、小さなミスをして手間を増やすことは、「迷惑」なのだな、と思い知らされました。

「迷惑」という考えの裏には、様々な思い込みがあり、それに伴い様々な弊害が出ます。その幾つかを列挙してみます。

① まず、親切は本質的に「余計な手間」であるという思い込み。自分の益にならないことをすることは例外中の例外であるという考え。

この思い込みの弊害は、益にならない親切をしてあげることになった相手を見下したり恨んだりする癖と、親切を受ける立場になった時に、自分が数ランク下の人間になったと信じ、激しく自己卑下する癖です。

② 何かをしてもらったら同じ量のお返しをするまで借りになるという「恩返し」の考え。

この思い込みの弊害は、余程のことがない限り、人に頼みごとをせず、一旦、頼んだら何年でも恩義を感じて肩身の狭い思いをすることです。また、お返しをできない規模の頼み事をするのは悪いことだという考えから、事が重大になればなるほど助けを求めず、時には死に至ることもあります。(現代の日本で、なぜか、若年や壮年の餓死者が時々出ますよね。)

③ 「私のような者」という考え。何らかの理由で、生きている資格がない、あるいは、二級市民の資格しかないという扱いを受け続け、その考えを自分のうちに取り込んでいる人の場合、「価値のない自分のために何かしてもらうことはあってはならない」と思い続ける傾向があります。

この弊害は、何を為すにも人の手を借りずにやろうとして、すべてを困難で乗り越えられない課題にしてしまうことです。

また、この種の人達の中に、稀に、病的な環境保全に走る人が居ます。存在する資格がない自分が地球という惑星に迷惑をかけてはいけないと考えて、寒くても暖房を点けなかったり、充分に食事を摂らなかったり、不用品を再利用できるまで取っておこうとして、自宅をゴミ屋敷にしたりします。

このように様々な弊害を出し、生きることを難しくする「迷惑」の世界観から抜け出すために、どのように発想を転換したらいいでしょうか。思いつく範囲で、列挙してみましょう。

① 自と他の区別を取り払う。
自分の益のためにすることは価値があり、他人の益のためにすることは手間であるという考え方の裏には、自と他の意識的な区別があり、感謝の欠如(自分のものは自分のものだという勘違い)があります。

金を払って買った「自分のもの」でも、金を払った以外にそのものの製造に貢献したことがありますか?貨幣経済の中に住む私達は、金を出して所有者になることに、何の疑問も感じませんが、1000円持っていたら1000円の服を買えるのは、あなた一人の手柄ではありません。億単位の金をかけて繊維工場や洋服工場を建てようと思った人が居て、その工場で働いた人達が居て、その工場の製品を運搬したり販売した人達が居たから可能になったことです。その人達が居なかったら、1000円札はただの紙です。定価1000円出したから、「自分のものだ、誰の恩恵も受けていない」と思うのは、貨幣経済の幻惑です。1000円のものを買ったことにより、何万人もの他人の恩恵を受け、同時に、その何万人もの他人の雇用維持に自分が貢献したのです。貨幣経済の中で物を購入するという一つの行為は、何万人もの他人と自分を、恩恵のやり取りで結びつける行為です。このことに気づくと、自他の間に実はあまりはっきりした境界がないことがわかるでしょう。

すべてを数字に換算する貨幣経済の世界でさえ、自分のためにやることは、巡り巡って他者を助け、他者のためにやることは、巡り巡って自分に必ず返ってくるのです。このように考えると、買い物をするのと同じくらいの軽い感覚で、親切をしたり受け取ったりできませんか。

② 恩返しの裾野を広げる。
自分に親切にしてくれた人との「一対一の関係」で返すと考えず、自分の次に困った人に親切を回すと考えたらどうでしょう。この種の「恩返し」の発想は、別に私が思いついたわけでなく、多くの人が既にやっていることです。母校に恩返しをするとか、若い頃にお世話になった国や街などに恩返しをする人は、よく居ます。こういう人達は、自分に親切をしてくれた個人に返すのではなく、その人と所縁のある国や地域に返すと言って、何十年も後に返しますが、その何十年間、ずっと肩身の狭い思いをしていたわけではありません。いつか、あの学校・国・街に返すということが生き甲斐になり、生き生きと生きて、やがて恩を返せる日が来るのです。

金は天下の回りもの、という表現があるのですから、親切も天下の回りもの、と考えることができて当然のように思います。今たまたま困っている人を助けたら、自分が困った時には、全く別の人が助けてくれる、と考え、今自分が誰かに助けられたら、自分が次に出会う困った人を助けてあげればいい、と考えるのです。

そうすると、親切や援助のやり取りに関する神経症的な緊張や不安が解け、楽な気持ちで親切をあげたり受け取ったりできませんか。そして、親切をまだ返せない数年~数十年間、肩身の狭い思いをするのではなく、生き生きと生きられませんか。

日本語に、とても素晴らしい表現がありますよね。「持ちつ持たれつ」です。

③ 存在の価値は今すぐ役に立つかどうかで決まると考えるのをやめる。
存在の価値は、今すぐ役に立つかどうかで決まると考える場合、今すぐ役に立たない障がい者や若者や若い女が人に助けてもらうことは、迷惑であることになり、援助を請うことを禁止されてしまいます。また、現在大役を果たしている年輩者や重役でも、退職・失職した瞬間に、役に立つ人から迷惑をかける人に再分類され、この突然の地位転落に耐えられなくて、自殺に追いやられたりします。

役に立つことによって存在する権利が生じるという考え方は、日本の旧弊です。(と私は個人的に思いますが、役に立たなくても存在してよいというメッセージを、日本で受け取り続けた人も、もしかしたら居るかもしれません。)

冒頭の、銃犯罪で重傷を負った後、結局アメリカに移住して就職した日本人は、正に、当時の日本で一般的だったこの思い込みを乗り越えることができた人でした。そして、この人を助けたアメリカ人達は、この思い込みを一足お先に乗り越えていた人達だったわけです。こうして、日本に居る限り、役に立たないと決め付けられ、助けてもらえなかったこの人は、ちゃんと就職して税金も払いアメリカ経済に貢献する人になりました。日本は惜しい人材を取り逃がしましたね。

というわけで、今日は、「迷惑」という考え方による生きにくさと、そこから抜け出すための発想の転換法を考えてみましたが、皆様の人生に、何か当てはまる部分がありましたか?

それでは、皆様、本日も、人の迷惑にならないように生きるのではなく、人に迷惑をかけられないように生きるのでもなく、困ったら助けてもらおう、困っている人がいたら助けてあげよう、そして何もしなくても持ちつ持たれつで常に助け合っている、と思って、力を抜いて、楽に、生き生きと生きてください。

本日もお立ち寄りいただき、ありがとうございました。