遅くなりました。

あけましておめでとうございます。


年末に飛び込んできた日韓協議のニュース。


テーブルに着く前からいろんな憶測が飛び

いわゆる保守層からでるのはほとんど批判。


どうもこの手の人達は韓国というワードにやたら反応するよね。

戦後体制からの脱却をはばむものは慰安婦問題ではないのに。

保守の定義がいかにばらばらでまとまりがないものかがわかります。


個人的にはあんな国ほっといてもいいくらい。

と思ってます。

でも隣やし、日米韓でやっていかなあかんし、で

仕方なし、ですよ。

安倍総理が気の毒ですわ。

ほんまやったら破たん寸前の国なんかどこも相手しませんよ。





協議の結果。

保守の意見は真っ二つに割れました。

案の定安倍総理のフェイスブックは大荒れ。


いつも思うんですけど。

いろんな意見があっていい。

でも汚い言葉など浅はかな言動はあかんでしょ。

右左関係なく人としてあかんでしょ。


保守の懇親会行くと、そんなんほんまに多い。

自分が一番正しいと思い、度を越えて主張する。

そうなると単なるマスターベーション。

人として最低限のマナーやらなんやらをすっ飛ばして愛国心とかなんとかばかでかいことがよく言えるなと。

自分がちゃんとしてないのに先人が、名誉が、とかぬかしよんねん。

まずおのれの足元固めるのが先やろ。

そんなマスターベーション見せられたら先人の皆さん引くわ。

ちゃんとせぇ、いうて逆にしかられるわ。

みながわれがわれが言うてる間は保守はまとまらずますますリベラル層が有利になるだけ。


あ。



脱線しました。



今回の日韓協議。

お見事。

この一言に尽きる。


韓国は戦後ずっとこれをカードに日本にたかり続けてきた。

それが今回の協議で

韓国と市民団体との対立となった。

つまりこれまで日本対韓国という国際問題から韓国の国内問題へと構図が変わったわけです。


これから朴政権はどのようにして市民団体を封じ込めるのか。

解決できないとなれば国際的信用はますます堕落。


知ってのとおりこの市民団体とやらは北朝鮮系。

要するに

いわゆる慰安婦問題は

北朝鮮とシナによる日米韓の分断工作が目的。


この日韓合意の裏にある真の目的はシナの封じ込めにある。

慰安婦という歴史問題を解決するということが対シナへの安全保障強化のためでもあったとなると安倍外交のしたたかさに驚くばかりである。



合意のニュースに想定内の

韓国、日本両国内から不満の嵐。


韓国国内からは金では解決できない、と意味不明なものや、

おそらく「合意」というワードが気に入らなかったのだろう、日本に屈したととらえた人が多いようだ。


日本国内での不満はまとめると二つ。

一つは約束を守らない国である相手にまた多額の税金を投入すること。どうせまた蒸し返される。

もう一つは岸田外務大臣の「軍の関与」という言葉に対して、であろう。

先人の名誉がまた汚された、と。


韓国の歴代大統領はみなそろって慰安婦問題を蒸し返す気はないと公言してきた。

しかし国内政治が行き詰まり国民に不満がたまるとガス抜きに反日政治をする、を繰り返してきた。

本来であれば1965年の日韓協定にてこの話は解決済み。

しかしたびたび歴代大統領は蒸し返しゆすりたかり。

それなのにまた払うのか?と。

しかし今回は賠償金ではない。

国際協力である。

慰安婦問題をを国際人権問題としてとらえ韓国政府が財団を設立する際日本も協力しますよ。ということだ。

しかもそこにソウル大使館前の慰安婦像の撤去が条件とされている。

つまりあとは韓国政府が人権団体と話をつけてくださいね、と。

なおかつ間にはアメリカが入り、この協議における合意は世界中の国が証人となった。

決して保守層のいうようなこれで慰安婦の強制連行を認めたことを世界中に発信してしまった、ということではないのが理解できる。

グローバルかつ普遍的視点で捉えたとき戦争によって女性も多くの苦痛を伴ったという事実に対してケアをしていく、そして二度と戦争というものがあってはならないという決意のもとである。

これは安倍外交のかかげる積極的平和主義、未来的志向そのものではないか。

慰安婦が韓国の国内問題に変わった以上日本に難癖をつけることはアメリカをはじめ世界中からの孤立を指す。

自国内の問題もまともに解決できないのかと朴政権は非難されさらに評価を下げるだろう。

これからが見ものである。



二つ目の「軍の関与」について。

このいわゆる慰安婦問題とは、そもそもなにが問題なのか、ということにさかのぼる。

戦時下において慰安婦制度は公的に認められており職業でもあった。

なのでそれに関しての問題はない。

そこに湧き出てきたのが軍による強制連行。

強制性があったのか、なかったのか。

この点だけの話を飽きもせずに何十年もやってるわけである。


日本政府は一貫として強制性は無かった、としているが河野談話や村山談話や、慰安婦賠償をしてきた経緯が韓国に絶好の切り札を渡してしまった。

今回岸田外務大臣の述べた「軍の関与」であるが、慰安婦自体は軍の管理の下運営されたのは事実である。

慰安婦の健康衛生管理を怠れば病気が蔓延し、たちまち軍隊は消滅してしまうからだ。

岸田大臣は軍による強制連行があったという意味での「軍の関与」とは一言も述べてはいない。


安倍談話の中にあった

「未来の子供達に背負わさない」

この決意は今回の協議でもぶれていない。

総理が掲げる戦後レジームからの脱却、未来志向に向かってぶれることなく着実に。

命をかけ強い信念のもと素晴らしい手腕で、さすがほんまもんの政治家。

私の中の支持率はまた上がりました。




安倍総理は地球儀外交と称し精力的に世界各国の首脳と会談をしてきた。

アジアのリーダーとして日本が世界のために日本のためになにができるのか、

どうすればいいのか。

戦争のない未来、平和な未来のために。

日本らしいやり方で。


これこそ八紘一宇の精神、ではないだろうか。








久々のブログ。


安保法制の実現にともなって世間、というかいわゆるサヨクが騒がしい。


私はほんとに心の底からサヨクが嫌いだ。

あいつらの主張が理論破たんしていることははもちろんのことおそろしく他人事感にあふれているからだ。


70年間戦争になっていない?


竹島で殺されたのは?

北朝鮮による拉致は?


私は何度もここで書いてきた。


北朝鮮による拉致被害者を取り戻すまで日本は真の独立国家とは言えない、と。


安倍政権において最優先事項であると。


デビ夫人。

彼女は田母神氏の都知事立候補の際、彼の右腕となってマイクを握り熱弁していた。

そして現政権支持を訴えている。


ただ一点のみを除いて。



それは北朝鮮による拉致事件、である。


この件は以前から周知していたのでいまさら驚くべきことではない。


がしかし、彼女の最新のブログを読んで私はあごが外れた。


拉致被害者の家族の方々に伏してお願いしたい。

日本と北朝鮮両国のためにも諦めていただけないでしょうか。

(割愛)

この両国が永遠に解決しそうにない拉致事件のために国交正常化が実行されないのは日本にとって恥ずべきことです。

両国の友好と繁栄のために心を鬼にして諦めていただけないでしょうか

(割愛)



彼女は北朝鮮は日本のことを大好きで仲良くしたいと。

そして日本は先の大戦において北朝鮮の多大なる被害をもたらしたのだからこの拉致もしかたないと。

そして拉致被害者は北朝鮮で丁重に扱われ幸せだと。



これこそ私が先に述べた他人事感満載の不快きわまりない主張である。


もし、もしもそれがわが子であればどうだろうか?

そう思ったとき、口が裂けても諦めてくれなんて言える筈がないのである。

彼女の主張は国家同士の繁栄のためなら国民の命などたわいもないものだといっているのだ。


そもそも国民の生命をも守れない国家は国家として存在できない。


なぜ安保法制の必要性を説く人間がそんなことも理解できない?


彼女の北朝鮮のみを特別視するさまはもう異常であると言わざるをえない。

そんなに将軍様に忠誠を誓いたいならとっとと移住してくれ。


戦後70年を迎え、宿命のごとく安倍政権が誕生し、日本がまともになるラストチャンスのこの時期にどうか足を引っ張るのはやめてくれ。


そしてこの暴言を早く取り消し今も毎日帰りを待つ被害者の親御さんたちの心を踏みにじったことを謝罪してほしい。


今日の私は悔しさで涙が止まらない。

投票率の低い衆議院選挙が終わった。


政治に無関心である人達はある意味戦後教育の被害者である。


私は国家存続、繁栄においてもっとも重要なことは教育、である、とずっと思ってきた。


教育が人をつくり、人が国家を形成する。


国民の権利である投票権。

偏った教育を受けた人間が偏った政治家を選ぶ。

たかが一票が国の命運を握る。



なのにどの政治家もろくに教育改革に手をつけない。

なぜなら結果がすぐに出ないから。


教育は結果がでるのにだいたい30年かかるといわれている。



戦後生まれが左翼教育を受け、大人になり親になり子供を学校で、家庭で教育する。

恐ろしい負のスパイラル。


反日教育を受けた国民は反日国家を築き上げる。


国も自治体も、やれ少子化対策だの女性の社会進出だの声だかに唱えている。

役人は少子化を不景気のせいにしているが、私は違うと思う。

国に希望を見出せない若者を作り上げたのは教育だ。

国を愛せない、国の未来にも興味がない、そんな人間が結婚をし、家族を持ち、子供を教育し、社会に還元する、わけがない。


そんな中で選挙権の年齢引き下げなんてもってのほかだ。


家族や仲間、そして国を愛し、行動し、貢献する、そんな心を育てるには教育、これしかない。




戦後の復興の中で教育の重要さを見落とし後回しにしたツケは見事に今まわってきている。



小手先の、木を見て森を見ない政策ではなく本気で国の未来を考えた教育改革が急務である、と考える。



「一国はわたくし事である」

国の事柄、政治は公ではなく国民一人ひとりの問題である、

国家の命運は私達一人ひとりが握っている。


福沢諭吉の言葉が身にしみる総選挙だった。













幼児期になると男女の遊びに差がでてくるようになる。


同じ人形遊びやごっこ遊びでも

女の子は家庭や友達とのシーン。

男の子は戦いごっこ。


ブロックや絵。

女の子は家や人や動物。

男の子は戦闘機やロボット、怪獣。


砂場でいかに高い山をつくるかにこだわるのは男の子であって

ままごとごっこに精を出すのは女の子。


このように女の子の頭の中が非常に現実的なのに比べて男の子は空想的なのがわかる。


そして女の子が平面的思考で人間関係やコミュニケーションを重視するのに対して男の子は立体的思考で空間把握に優れているといわれている。

なので乗り物の運転や方向感覚、設計は男性のほうがより得意とされる。

女性は右脳と左脳を結ぶパイプが男性より太く、おしゃべりが好きで同時に二つのことをこなすのが得意とされる。


男の子は寄り道をする。

これは興味の対象を見つけたらもう家に帰るという目的は消えるから。

女の子はあれこれ視界に入れながらもおしゃべりをしながらきちんと帰ってくる。


わかりやすい例えとして。

うちの息子は小さいとき引き出しから下着を取ってまた引き出しを閉めるということができなかった。

これは下着を取るという目的を果たした瞬間引き出しそのものが彼の頭から消えるのである。

しかし娘は下着を取って引き出しを閉めるという一連の動作をセットと認識して無意識にやっていた。


これは男の子の脳の一部分のみが異常に活発に働いてるのに対し女の子は右脳左脳同時に動いている、ことを示す。

男の子のお母さんならみんな経験されていると思うが、彼らが一端何かに集中すると外野の声は全く耳に入らず、ご飯さえも食べることを忘れる。

女の子にはまずそのようなことはない。

いかに何かに集中していてもご飯を催促。

これはきっと生命力の強さ、のちに子孫を産み育てるための本能である、と思う。


日教組のジェンダーフリー推進の先生たちには発狂もんだろうがこれが男女のもともとの脳の違いなのである。


このような男女の違いを知っておくことはとても有効だと、私は思う。

娘はできるのに息子はできない、と比べることで男の子が変に劣等意識を持ってしまったらかわいそうだから。

男女は違ってて当たり前。

そう思えば腹も立ちません。

男の子はマイペースで甘えっこ、女の子は要領がよく世話焼き。

これはどこのお家でも大差ない事実だと思います。

比べることは無益。





また、この時期の子供達の想像力や空想力はとてもおもしろい。

そしておしゃべりができるようになってたくさんのことを伝えようとする。


もちろんへんちくりんなことやありえないことも言うし、いい間違いもする。


そのときいい間違いを正したり、大人が先読みしたり、話を否定したり、決して話のこしをおってはいけない。


そしてひたすら聞き役に徹し、共感してあげる。

これが信頼関係の基本である。

それに一生懸命つたない言葉で伝えようとする姿はとってもかわいいし、こっちも楽しくなってきます。

できれば大人がさらに想像力をかきたてるような受け答えをしてあげればなおおもしろい、と思います。










昨日に引き続き。



人生の中で一番最初にやってくるいわゆる反抗期は二歳前後。


自我が芽生え、自己主張が激しくなり、一筋縄ではいかなくなるのでお母さん達の間で魔の二歳児と呼ばれています。


こないだまで天使のようにかわいかったわが子が悪魔に見える。


今までお母さんにやってもらってたことを自分でやりたい!!と言い出します。

食事から着替え、すべて。

一見、自立の一歩やん!!と思うこの言動。

しかしふたを開ければお母さんの仕事が倍増するだけ。


ボタンをかける。

くつをはく。

些細なことですが、いきなりやりたいと言ったところでできるはずもなく。


結果、かんしゃくを起こしぶち切れ。

手伝おうもんならさらにぶち切れ。


とにかくなんでもかんでもいや!!の一点張りなのがこの時期。


とほうにくれるお母さん。


こんなときはやっぱり開き直るしかありません。

だってこれって成長してる証拠。

むしろ喜ぶべき。


捉え方を変えて期間限定の反抗期を楽しむつもりで。


例えば公園でのひとコマ。


もうお昼だから帰ろうよ、というママに

いや!!まだ遊ぶ!!



そらそうやな。


帰ろう言われてはい。っていう二歳児逆に恐いわ。


でまた、なにでつろうが首を縦に振らない。

しばきたくなりますよね 笑




やっぱりお母さんってご飯も食べささなきゃ、とか家事をしなきゃ、とかどっかでせかされてるんですよね。


こんなとき私は逆にとことん付き合いました。

するとおもろいことに子供のほうから帰ろう、と言い出します。



砂場なんかでよくお母さんはよかれと思って指図します。

あーしたら、こーしたら、って。

これはこうするもんよ、あーするもんよ。

あれ子供心に腹立つんですよね。

私もそうだったからよくわかります。

遊び方くらい自由にさせろって。


子供の発想力は柔軟で豊かです。

できるだけ大人の色に染めたくはないもんです。


なので私はライバルとして遊んでました。

砂山を作るのも泥団子を作るのもこっちだって本気です。


親はよき遊び相手になるのも大切かな、と。

そしてときに子供を先生にしてしまう。

そうすると子供は得意になってあれこれ教えてくれようとします。

これって実は子供の脳内ではすごいことになってます。

教えると相手が喜ぶ、そのために自らが学ぼうとするんです。

そして結果どんどん詳しくなり、ほんまに先生になってしまう。


自分でやりたい!!という気持ちを大切にしてあげて、そして失敗しても責めない。

大人だって失敗の連続なんやから。


自分で出来たときの喜び、この記憶はとても後で重要になってきます。

やりたいこともなく無気力におちいる若者たちはこの経験値が低いような気がします。

自分の意思は尊重されず親のいうがまま、そして失敗すれば責められ、成功経験に乏しい。


言葉は時に特効薬にもなり毒にもなります。


けなされて育った子は自尊心を持つことができません。


この年頃の子は人見知りをします。

よその大人に初めは距離を置き様子伺いをします。

でも極端に人懐こかったり、言葉が暴力的だったりする子は愛情が足りてないのかな、と感じます。


嬉しいときは一緒に喜び

悲しいときは一緒に悲しむ。


共感は信頼関係をはぐくむのに不可欠な要素です。


言葉の持つ力をプラスに使えるように意識したいものです。






私はこう見えて(どう見えて?)チャイルドシッターの資格を持っています。

単純に子供が好きでおもしろいから。


子供って私達にたくさんのことを気づかせてくれます。

実は育ててもらってるのは大人のほうだったりも。


でも最近はお母さんたちの役に立ちたいなぁ、と思うようになってきました。

すでに気分は孫を持つおばあちゃん。



子供が幸せになるにはまずお母さんが幸せでないといけません。

心に余裕。

そしてプライド。


育児はこの世で一番責任のある一番すばらしい仕事である、と私は思ってます。


お母さんってすごい。

なんせ子供たちの人生しょってるんやから。


そしてその子達がやがて未来を担っていく。


だから若いお母さんには充実した子育てをしてほしい。


私個人は子供の基本的な人格は乳幼少期にほとんど決まると思っています。

三つ子の魂百まで、です。


この時期は基礎工事。

お家と同じで基礎工事で手を抜くと後でとんでもないしっぺ返しをくらうことになりかねません。


赤ちゃん時期はミルクとオムツ、一日の大半をこれに費やします。


昔、どこの国かは忘れましたがある乳児院で恐い実験がありました。

必要最低限の世話のみの乳児と、それに加え話しかけたりスキンシップを受けた乳児。

どのような差が出たか。

世話のみの乳児は免疫が下がり次々に病気になりました。


いかにスキンシップが重要であるかがわかります。



赤ちゃんはお乳を飲んでる間もお母さんの顔をじっと見ています。

なのにお母さんはテレビを見ながら携帯をいじりながら、だったらどうでしょうか?


基礎工事とは母と子の信頼関係の土台を築くことです。


お母さんは日々の家事に追われて忙しく余裕がないのかもしれません。


でもお乳をあげてるときくらいはわが子の顔を見つめて優しい声を聞かせてあげてください。

そしてオムツを替えてるときも話しかけてあげてください。


この小さな積み重ねが信頼を生み、後の子育てに大きく影響してくるのです。


赤ちゃんはめまぐるしく成長します。

一日一日が驚きの連続。

寝返りやつかまりだち、昨日できなかったことが今日出来てる。

どんなお母さんだって感動するはず。


赤ちゃんにとったら昨日見てる景色とまったくちがう世界。

行動範囲が広がりいろんなものを口に入れたり危ないことも増えてきます。




でも決して怒らないでください。

赤ちゃんにとって一番初めの冒険を危険のないように見守ってあげてください。



また卒乳しご飯へと移行しますが、この時期最もお母さん達をイライラさせるのが遊び食べです。

汚されるのが面倒だからと子供に手づかみで食べさせないお母さんは多いと思いますが、この時期最も発達する触覚を刺激するにはいいチャンスだと思ってある程度は手づかみもさせてあげましょう。

五感の刺激は脳の発達にとても重要です。

すべて必要な勉強だと思って開き直るのも楽です。

そして遊び食べを始めたらさっさと片付けます。

よく栄養が足りなくなると心配するお母さんがいますが、お腹がすけば嫌でも食べます。それくらいで死にはしません。



この時期は赤ちゃんとのコミュニケーションやスキンシップを大切に愛情のビーカーを一杯にすることに徹することが重要です。
















いわずと知れたマッカーサー元帥。


私は彼にとても興味があった。

なぜかはわからないがパイプをくわえ颯爽と日本の地を踏む写真をわざわざ撮らすという自己演出をする一人の軍人がどのように日本を占領、洗脳していったかを知りたい、そう思うようになった。


そしてある本に出会う。


そこにはマッカーサーがいかに巧妙に日本人の精神を破壊していったか、が詳細に記されている。


彼がもたらした民主主義とはなんだったのか。


「天皇と日本政府の統治権は、マッカーサーに隷属する。

その権力を思うとおりに行使できる」、という史上空前の全権をトルーマンより与えられたマッカーサー。


それは、当時補佐官だった国務省役人に「ものすごい権力だった。アメリカ史上一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られたことはなかった」、と言わしめたほどだった。



日本を民主主義に導こうとしていた人間は完全なる独裁者だった。

まさに彼自身が法であり、ルールブックだった。


アメリカだけが日本を支配するという確信は日章旗を下げ星条旗を掲げることから始まった。

そして他の連合国に邪魔されないように日本政府が結ぶ条約はすべてGHQを通すよう命令。

ソ連の脅威に備えるためにどうしても日本占領が不可欠だった。

戦争は終わったはずなのに新たな火種はくすぶり続けていた。

アメリカ対ソ連の核をめぐる戦いの始まりだった。




焼け野原で食うに困る状況で政治に関心を持つ余裕のある日本人はいなかった。空っぽになった日本人の心にまるで夢のようなキラキラした魔法の言葉「民主主義」を詰め込んだ。

そして日本の学校教育を思い通りに操った。



あの厚木基地に降り立った写真が示すように彼は征服者というイメージを保ち続けることに執着したように思う。

彼が天皇陛下、首相、外相、以外の日本人と会うことはなかった。

雲の上の人を演じたのは

そのほうがより効果的に統治できると判断したからだ。


彼は日本人を完全に理解していると自負していた。

それが以下の言葉に表れている。

「もしアングロサクソンが、科学、芸術、神学、文化の分野において45歳だとすると、ドイツ人は我我同様充分成熟している。しかし、日本人は歴史の長さにかかわらずまだまだ勉強中で12歳の子供のようだ。

勉強中は誰でもそうだが、新しい手本を身につけ易い。思想を植えつけることもできる。我我がどうにでも好きなように教育ができる」


占領独占の意思の表れである。


確かにそれはある意味的を得ている。

事実彼は日本洗脳に成功し、その名残で今も日本は苦しんでいる。


しかし、45歳の大人が12歳の子供に喧嘩を売ったのか?45歳の大人が12歳の子供をなぜすぐに負かすことができない?そう思ったときこの表現は全く適切ではないともいえる。





彼は独裁者ゆえに傍若無人に振舞うアメリカ兵たちのことも

GHQの司令部たちの横暴も知らされることはなかった。

これがアメリカ流民主主義の実態である。


これがのちに共産主義の侵食を招くこととなる。


つづく。












書道を習っていて思う。


心がもろに出る。


これに限らず、道とつくものはそのときの精神が表れる。


縁あって昨年からスペイン語を習い始めた。

先生はチリから日本に嫁いで40年近くなる。


それでもいまだに日本文化の特異性と日本人の精神性に首をかしげることしばしばだそうだ。

また男尊女卑の国だとも言った。

しかしそこは強く否定した。

なんたって日本の神は女性である。

わかりやすいたとえとしてお給料の話をした。

日本ではだんなさんが稼いできたお給料を妻に渡す。

この光景に男尊女卑を感じますか?と。

それは決して女性を卑下しているわけではなく、昔から男女の役割分担が明確だったことを示しているのだと。

一方男女は同等だといわんばかりの欧米。

これは一見先進的に見える。

しかし裏を返せばそういう既成事実を作らなければこの方程式が成立しえないことを意味している。

自然と役割分担の意識があり、お互いの違いを認め合い尊重する日本の文化意識はとても自然でおおらかであると思う。



特有の回りくどい表現。

本音と建前の文化。



先生同様、若い頃の私はそれがとても無駄でめんどくさいと感じた。


なんでも白黒はっきりしてる私に玉虫色やグレーなんて意味がわからなかった。


でも答えはすべて歴史の中にあった。

日本人の気質の起源、これはまさに縄文時代にさかのぼる。

和を大事にし、こつこつと一つのことを追求する勤勉さと職人気質。

八百万の神の国は懐が広い。



日本文化も日本人の気質もいってみれば無駄のかたまり、である。

だから合理的を追求する、単一神の国には到底理解もマネも不可能。


その最たるものが茶道である、と私は思う。

10年茶道をやってきてそう思う。

そして茶道こそ究極のおもてなしであると。


もてなすために家人は何週間もかけて用意をする。

それは掛け軸から始まり、花器、生花、茶道具、お菓子、お手前の所作、作法すべてにおいて。

これにはすべて意味がありストーリーがある。


その粋なもてなしと空間で武士、平民身分関係なくお茶を楽しむ。


一見無駄であると思うところに趣の美学を見出す。

それはすべてお客様のためだけに。


私はよその国が簡単に理解、マネできるような秋葉発の文化ではなく日本人の精神そのものを象徴するこういった文化こそクールジャパンとして世界に発信してほしいと、思う。


日本文化の美学は世界が理解できるようなレベルではないからこそ余計にそう思う。










1952年の今日は日本が連合国の支配占領から脱し国家主権を取り戻した日。


一応は。


現実はアメリカ様におんぶに抱っこ。



GHQがつくったインスタント憲法のもと自国の安全保障さえままならない。

なにが独立国家だ。

情けないことこの上ない。



だから


「尖閣諸島だって守ってやってもいいぜ。(寿司食べながら)」



ってアメリカ大統領に言ってもらうことに必死にならなきゃいけない始末。

しかもそんな口約束、到底信じることなんてできない。

外交は脅し、だましあいの世界である。

国は自国の利益でしか動かない。

だからこそこのままおんぶに抱っこでいいわけないと思わなければいけないはずが、いまだに改憲に反対の声。

そして無関心の国民。


とっても不思議。

なんでなん?

誰かおせーて。




改憲こそが真の独立国家、主権回復のスタート地点である。

至極あったりまえな話である。

だいたいよその国の人間らに自分とこの憲法つくってもろてる国ありまっか?

その時点で独立してへんがな。

自分の会社の規定をいきなりなんも知らん他人が来て、今日からこれねー、守ってねーって決められる。

ってどうなん?


でもこれは単なるきっかけに過ぎない。

結局半世紀以上も放置してきた私達日本人の責任である。



にせもんの平和、上っ面の主権。

これにあぐらをかいてきた結果、今日本を囲む無法国家たちはやりたい放題。


もう9条9条ってアホみたいに言うてるのも限界やと思うけど。





憲法改正に反対する人達、彼らは言い換えればただ9条を守りたいだけ。ただそれだけ。

本音は憲法なんてどうでもいいのだ。9条さえ残れば。

そして自分達の主張を通すためには人が死んでもいいと考える。

これが平和団体と名乗るのだから片腹痛い。


米軍撤退を要求しながら平和憲法だと絶賛しメイドインアメリカの憲法を守る。



このとんでもなく気色悪い二枚舌がどうか一刻も早くちぎれて地獄に落ちますように。(この中に息子の元担任もおるけどな)














うちには4匹の犬がいる。


その家族のボスはおかんである。

カカア天下は犬の世界にも存在するらしい。


その気だけは強いおかんが入院して二週間目に亡くなった。

なんやむずかしい説明を病院の先生がしてたけど、

はしょればたんぱく質が駄々漏れ、ということみたいだ。





私は意外と死というものに対してドライだと思う。

冷たい人間なのだとも思う。

子供の頃からあらゆる生き物を飼い、死というものに直面する機会は多かったのがそうなった理由なのかもしれない。


生き物を飼う、命を預かるということはとても大変な労力を要する。

かわいいという気持ちだけではとても無理だ。

それを子供に経験させるために動物を飼う親御さんもいると思う。


ただ私が犬を飼った理由はそれだけではない。


生死を子供に体験させるためだ。

これまたドライな考えだといわれるだろうが。


生きる、ということがあまりにも当たり前になると人はそのことに鈍感になる。


昔はおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなっていく様を通して子供達はそこから死を感じることができたが、今は核家族化でそういうことを身近に感じることは少なくなった。


おかん犬は4匹の赤ちゃんを産んでくれた。

そして必死で息子達を育て上げたおかんはもういない。


新しい命が生まれ、一方で消えていく命。

命のリレー。


私が子供に伝えたかったのはこのことであり、

どちらか一つでは意味がないと思ったから、

家族という形で犬を飼うことを決めた。



おかん犬にはほんとに感謝してる。

たくさんのことを教えてくれたから。


人間はいろんな命、たくさんの命を犠牲にして生きている。

それはなにも衣食住のような物理的なものだけではなく、

精神的にも同じことが言えるのだと思った。


命は生まれたその瞬間から死に向かって歩いている。



子供達はそのことを感じてくれるだろうか。