仏教とキリスト教(19) | 《太陽水素文明への道》

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19 密教への展開(1)

大乗仏教の興隆とともに仏教美術が発達し、理論や神話も発展した。特筆すべきは大乗の在家優位に対する出家者の深化である。

彼らは複雑荘厳な儀式を展開し、理論や行軌の一部を秘匿し始めた。実態としては、要するに仏教を呪術化したのである。これが密教=秘密仏教であり、大乗とも区別して、自らを金剛乗(Vajrayana)と呼んだ。

主な密教経典は8世紀に成立し、同世紀の終わりに中央アジアを経て東伝。平安時代の初めに、後に《弘法大師》と諡号されることになる真言宗の開祖・空海によって日本に請来された。

(1) 密教と顕教

密教は従来の仏教を《顕教》と呼ぶ。顕教が民衆に向かって広く教義を言葉や文字で説くのに対して、密教は教義と行軌を極めて神秘主義的・象徴主義的に、教団内部の師資相承によって伝持する。したがって、経典を読んで理解した気になることを禁止する。実際、このゆえに弘法大師空海と日本天台宗の開祖・伝教大師最澄が断交することとなったほどである。密教の根本経典の一つ『理趣経』の貸出しを空海が拒んだのだ。

なぜかと言えば、密教は、言語では表現しきれない「仏の覚り」、凡夫の理解を超えたものそれ自体を伝えるからだと密教者たちは言う。これは、ミトラ教、ディオニュソス教など西洋の秘儀(密儀)宗教にも共通する説明様式である。

密教と顕教を峻別する立場は空海によって明言されている。彼の詩文を集めた『性霊集』に「それ曼荼羅の深法、諸仏の秘印は、談説に時あり、流伝は機にとどまる。(先師・青龍寺の恵果)大師が、伝授の(方)法を説きたまえり。末葉に、伝うる者敢えて三昧耶(戒)に遺越(違反)してはならないと。与奪は我(空海)が(意)志に非ず、(密教の教えを)得るか否かはきみの情(こころ)にかかれり。ただ、手を握りて(印を結んで、誓いを立てて)契約し、口に伝えて、心に授けるのみ」とあるように、「阿字観」などの瞑想を重んじ、曼荼羅や法具類、灌頂の儀式を伴う「印信」や「三昧耶形」等の象徴的な教えを旨とし、それを授かった者以外には示してはならないとされた。

空海は、密教が顕教と異なる点を『弁顕密二教論』で次のように挙げている(密教三原則)。

①法身説法:法身は、自ら説法している。法身とは宇宙の本体そのものであり、密教では《大日如来》(mahavairocana tatagata)の名で象徴化する。それが発信する《法》を直接感得するのが密教の目的である。

②果分可説:仏道の結果である覚りは、説くことができる。ただし、この「説く」とは、言語的表現だけではない。非言語的・象徴的なものを含め、あらゆる意思疏通手段を駆使してのことになる。

③即身成仏:この身このままで、仏となることができる。


それまでの仏教(声聞・縁覚)が今生での成仏を否定して、せいぜい阿羅漢となるのが限度と説き(阿羅漢の矮小化)、さらには女人成仏を否定し、無数回生まれ変わって無限の時間(三阿僧祇劫)を費やすことによって初めて成仏すると説くのに対し、密教は、老若男女を問わず今世(この世)における「即身成仏」を説いたことによって、画期的な教えとして驚きをもって迎え入れられた。さらに、中期密教は出家成仏を建前とするのに対して、後期密教は仏智を得ることができれば出家や在家に関係なく成仏するとしている。空海がもたらしたのは、この段階の密教である。

師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、弟子に対して阿闍梨(教師)の称号と資格を与える。その教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶(しゃびょう)の如し」という。インド密教を継承したチベット密教がかつて一般に「ラマ教」と称されたのは、師資相承における個別の伝承である血脈を特に重んじ、自身の「根本ラマ」(師僧)に対して献身的に帰依するためである。

(2) 密教の成立と衰退

密教成立の背景には、後期においてヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫されたという社会情勢がある。

ガンダーラの歴史で述べたように、仏教はクシャーナ朝カニシカ王の時代を頂点に衰退し、ヒンドゥー教に圧迫された。ガンダーラだけでなく、実のところ、全インドにおいて。その原因は、実のところ、仏教それ自身にあった。

端的に言って、仏教は、初期から一貫して凡夫=頭の悪い人間のための宗教ではない。繰り返し述べてきたように、仏教はそもそも宗教でさえなく、本来、信仰すべき《神》など要らない。それは強靭で冷徹な哲学であり、それに基づく心身の科学なのだ。

しかし、近代西洋哲学がニーチェにおいてその高みに達しながらそれ以上になりえなかったように、それは《実存的不安》を抱える人間にとって極めて難しいことである。仏教は言わば《超人》になるための行法の体系であるが、別に神通力を得るわけでなくとも、《悟り》を得ることは決して容易でない。

大多数の人間は仏教を十分に理解し体得するだけの知性も精神の強さも持ち合わせていない──それは、釈尊が成道を果たしたときからの悲観的認識であった。このゆえに釈尊は伝教を一度は諦めかけたほどである。梵天勧進によって思い直し、八正道を行法体系としてある程度は誰でも実行できるように整理したものの、《正定》の難しさという最大の原理的問題が解決できたわけではない。

もちろん、易行道という言葉があるように、極めて簡単な言葉を《呪文》(真言 mantra)として唱えさせることによって、知的障害者でも《悟り》に導くことは不可能ではないかも知れない。例えば、十六羅漢の一人・周利槃特(Cuuda-pantaka)は、『阿弥陀経』によれば釈尊の弟子中もっとも頭の悪い人で、自分の名前さえ覚えられないほどであったが、釈尊は彼に一枚の布(あるいは一本の箒)を与え、東方に向かって、「塵や垢を除け」と唱えさせ、精舎(もしくは比丘衆の履物とも)を払浄せしめた。彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得て神通自在になったとされる。この説話は大乗経典によるものなので、かなりの脚色が疑われるが、教育の現実としては十分ありうることである。実はわたしにも経験がある。

しかし、いずれにしても、仏教の原初的性格は不変である。そこで現われたのが仏教の呪術化と言うべき密教である。英語ではしばしば Tantrism と呼ばれる。

(3) 仏教の呪術性

(a) 密教以前

パーリ仏典長部『梵網経』は、迷信的呪術や様々な世間的知識を「無益徒労の明」として否定する。初期仏教では比丘が呪術を行うことは禁じられていたと考えてよい。

しかし、一方、律蔵において、世俗や外道で唱えられていた「治歯呪」「治毒呪」などの護身呪文(護呪)は許容されていた。中でも比丘が遊行の折に毒蛇を避けるための防蛇呪は、後に初期密教の『孔雀王呪経』に発展した。

また、意味不明な呪文でなく、例えば森で修行するに当たって木霊など様々な障害を防ぐ慈経(Metta Sutta)、安産を願うアングリマーラ経(Angulimala Sutta)など、経典を読誦することによって祝福するという習慣が南伝上座部仏教にも存在する。「パリッタ」(paritta 護経、護呪)といい、現代のスリランカや東南アジアでも行われている。釈尊がこうした呪術的要素を完全に否定したわけではなかったと考えるべきである。

(b) 初期密教

呪術的な要素が仏教に意識して取り入れられた段階で形成されていった初期密教(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教のマントラに影響を受けて各仏尊の真言・陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。

当初は独立した「密教経典」があったわけでなく、大乗経典に咒や陀羅尼が説かれていたのに始まる。『般若心経』も《大神咒》で終わる。大乗仏教の代表的宗派である禅宗でも「大悲心陀羅尼」「消災妙吉祥陀羅尼」など数多くの陀羅尼を唱えることで知られるが、中でも最も長い陀羅尼として有名な「楞厳呪」(りょうごんしゅ)は大乗仏典の『大仏頂首楞厳経』に説かれる陀羅尼であり、これが密教に伝わり陀羅尼(ダーラニー)が女性名詞であるところから仏母となって「胎蔵界曼荼羅」にも描かれ、チベット密教では多面多臂の恐ろしい憤怒相の「大白傘蓋仏母」、寺院の守護者として祀られるようになった。

(c) 中期密教

新興のヒンドゥー教に対抗できるように密教が体系化された結果、中期密教が確立した。中期密教では、世尊=釈尊が説法する形式をとる大乗経典とは異なり、大日如来=大毘盧遮那仏が説法する形をとる密教経典が編纂されていった。『大日経』『初会金剛頂経』やその註釈書が成立すると、多様な仏尊を擁する密教の世界観を示す曼荼羅が誕生し、一切如来からあらゆる諸尊が生み出されるという形で、密教における仏尊の階層化・体系化が進んだ。

中期密教は僧侶向けに複雑精緻化した体系となったため(純密)、難しすぎてインドの大衆層に普及・浸透できず、日常祭祀や民間信仰に重点を置いた大衆重視のヒンドゥー教の隆盛・拡大という潮流を変えられなかった。そのため、シヴァを倒す降三世明王やガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)をはじめとして、仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊が登場した。

(d) 後期密教

専門家向きの複雑な理論体系と化した中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した《無上瑜伽タントラ》経典類を中心とする後期密教が登場した。これはヒンドゥー教シャークタ派のタントラ(tantra:「縦糸」を意味する経書スートラに対する語で、「横糸」を意味する緯書)やシャクティ(性力:人体に内在するとされる性的エネルギー)信仰から影響を受け、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)の合一を目指すもので、行法の中心は瑜伽(ヨーガ)である。男尊として表される方便と、女尊として表される智慧が《交わる》ことによって生じる不二智を象徴的に表わす「歓喜仏」も多数登場した。

しかし、これは重大な逆作用をもたらした。行者の密教修行がしばしば女性信者との実際の性行為になってしまうのである。もちろん、タントラに書かれていることは譬喩であるとするのが《正統》密教の立場であるが、後にその影響下に中国で発達した仙道に《房中術》があるように、タントラ派の行法には性行為を積極的に(悟りに至る道ではなく)超能力開発に活用する姿勢が確かにある(左道密教)。

これは、在家者が正規の配偶者を相手にして行うなら別段問題とするに当たらない。しかし、出家者の場合、完全な破戒行為として厳しく非難されなければならない。情けないことに、男性僧侶が在家女性信者に「我が身を捧げる無上の供養」としてそれを強要することもあった(破戒坊主やエロ教祖のやることはいつも同じである)。当然ながら、決定的な密教のイメージダウンに繋がった。

この結果、仏教徒の間では密教を離れて戒律を重視する部派仏教(上座部仏教)や大乗仏教への回帰傾向が強くなった。それゆえ、正統派(右道)密教僧は、象徴を旨とする生理的瑜伽行(クンダリニー・ヨーガ)による瞑想へと移行した。それはヒンドゥー教に取り入れられ、今も行法としてヨーガの体系の中に生き続けている。

(4) インド仏教の滅亡

総括すれば、ヒンドゥー教の要素を仏教に取り込むことでインド仏教の再興を図ったのが密教である。しかし、結果として、密教はやはり難しすぎ複雑すぎて専門家(修行者)と一般大衆の乖離が大きく、日常性の高い土俗的なヒンドゥー教の隆盛を押し止めることができなかった。一部は左道として堕落した。

さらに、西アジアで勃興したイスラム勢力が北インドに侵攻。仏教勢力はイスラム教政権デリー・スルタン朝とインド南部のヒンドゥー教政権との挟撃に遭い、イスラム教徒から偶像崇拝や呪術性を理由として武力弾圧を受け、インド密教最後の砦であったヴィクラマシーラ大僧院が12世紀に炎上したことにより、消滅に追い込まれた。密教は中国を通じて東伝した日本と、チベットだけに残ることとなったのである。