日本経済新聞 8月31日朝刊 
スポートピア 荒川静香

「競技者か 芸術家か」

フィギュアスケート選手には大きく分けて2つタイプがあると、プロになって気づいた。勝負事、試合の緊張感が好きな"アスリート"タイプと、自分のスケートに没頭し表現することが好きな"アーティスト"だ。

私見だが、両方の性質をバランスよく備えた高橋大輔選手はまれな存在。浅田真央、安藤美姫ら日本の選手は試合が好きな"アスリート"が多い。「競技は好きではない」というステファン・ランビエール(スイス)や、私は"アーティスト"、金妍兒(キム・ヨナ、韓国)も同じで表現力を生かすために合理的な試合戦略をとるのだろう。

"アーティスト"にとって試合は時に窮屈だ。試合のプログラムは点がとれるように要素を入れることが最優先。ジャンプ、スピンなどが曲とあっていなくても、いれざるをえない。順位への重圧で表現に没頭できない時もある。その点、ショーでは曲に合わせて技を選ぶことができ、自分の表現したいようにできる。私は一つ一つ音を聞いて演技するようになった。

競うプレッシャーから開放されると、自分の限界に挑戦というか、純粋にスケートに打ち込める。プロになったランビエルが4回転ジャンプを跳ぶのはそれが理由だろうし、私も3回転-3回転の連続ジャンプなども楽しく練習できている。

「なんで試合にでないの。こんなにできるのに試合で使わなきゃもったいないよ」。今夏、ショーで共演することが多かったトリノ五輪金、バンクーバー五輪銀メダリストのエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)に言われた。彼はエンターテイナーだが、"アスリート"気質が強い。私が「ショーの世界が好きなの」と言うと不思議そうな顔をしていた。

プルシェンコは最近、国際スケート連盟(ISU)から選手資格を剥奪されてしまった。五輪に出たアマの選手なのに、所属連盟に無断でショーに出演したことが問題視されたのだが、同じ五輪競技でもサッカーやテニスでは起こらない問題だろう。

1992年、プロのアマ復帰が認められ、両者の差はほぼなくなった。中にはショーを優先して、グランプリシリーズを欠場する選手もおり、ISUも賞金や世界ランキングを導入して選手が試合に出るよう対策を講じ、一定の効果は出ていた。元来、競争があまり好きではない私だけれど、競技があるからこそ、ショーも人気で、ショーがあるから一年中フィギュアへの関心が続くと思う。

真相は知らないが、プルシェンコの一件はもアマとしてのけじめはつけなさい、というISUのメッセージかと感じる。剥奪直前まで日本に滞在し、満喫していた"アスリート"は「出たい」と言っていた2014年ソチ五輪も出場不可能になったことをどう受け止めるだろうか。


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フィギュアスケートにおける"プロ"と"アマ"の違いは
ISUの支配下にあるか否か、だけだと私は思っている。
(正確には、"アマ"とは言わず、"Olympic eligible"という。)

以前も書かせていただいたが、
"オリンピックに出れるかでれないか"ということが、
"プロ"と"アマ"を分け、ISUの権力を誇示することに使われる。


しかし、今の状況を考えると、"プロ"である荒川静香は、
十二分にISUの支配下にあるように思える。


この記事の意図は本当にわからない。

プルシェンコの件について、「真相は知らない」のであれば、
論説する資格も権利もない。

誰もが、ロシアスケート連盟の嫌がらせと知っているが、
フィギュア界にいる荒川静香が知らないとも思えない。

プルシェンコに試合に出ないことを責められたように感じて、
逆恨みしたものと考えるファンは少なくないだろう。


また、わざわざ金妍兒を称える一文を挟むことによって、
彼女は多くのファンを失っただろう。

五輪の後もキムを称えるコラムを日経に掲載したらしいが、
TVでの解説も含めて、
それは大人の事情であろう、彼女も生活もあろう、
と思っていたが、プルシェンコまで絡めてくると、
人格を疑ってしまう。


多くのファンはプルシェンコが五輪に参戦してくれたことによって、
男子は、まだまともなジャッジがなされたこと、
少しではあるが、フィギュアがまともな流れになってきたこと、
に感謝している。


荒川静香ご本人も、アマの人気があって、アイスショーが成り立っていることを
ご理解されているようだから、
もっとプルシェンコや浅田真央に敬意を払うべきだ。

昨年までスカスカだった彼女が出演しているプリンスアイスワールドが
今年は満席になったのは、この2人のお陰なのだから。


彼女が試合が好きではないのは理解している。
トリノ金という大逆転があったものの、
世界選手権で優勝したあとのシーズンと、五輪シーズンはどん底であったからだ。
「競うプレッシャーから開放されると・・・」
ということ、彼女がそういう考え方をすることは理解できる。


しかし、このコラムに書かれてる内容については、おかしなことばかりだ。


ランビエールが"アーティスト"であることに対しては異存はないが、
自分を"アーティスト"という姿勢には多くが反感を覚えるだろう。

強いて言えば、
ストリート、アーティストに加えて、
「とにかく点をとりに行く」派というのを上げるべきではないだろうか。


「とにかく点をとりに行く」派が
荒川静香、キム・ヨナ、ライサチェク
であると思う。

勝つための戦略として、それは間違いではないし、否定する気はない。
(ただ、あまりにもダークなキムはその限りではない。)



トリノのトゥーランドットは素晴らしかった。
歴史に残る演技だったと思う。

それは彼女の集大成ではあったが、
「競技から離れて自由になった」彼女がプロになってから見せたプログラムに
トゥーランドットを超えるものはない。

浅田、安藤、鈴木選手がどんどん表現の幅を広げていっているのと比較して、
彼女はいつまでたっても同じ個性である。

本人もそれに気づいているから、
五輪後に浅田選手の「仮面舞踏会」と「鐘」の見事なまでの表現に違いに対抗したかのような、
「カルミナブルーナ」+「アベマリア」のプログラムを作ったのではないだろうか。

しかし、残念なことに、それは浅田選手には全く及ばなかったと私は思う。

ウィルソン振付と思われるセクシー路線のプロに挑戦していたことも
彼女の試みの一つであるとは思う。

プロになっても高い技術を保ち続け、
挑戦する姿勢は素晴らしいと思うが・・・・・・、

このコラムが台無しにしている。



「ジャンプ、スピンなどが曲とあっていなくても、いれざるをえない。」
これは間違い。
今はかのインマン氏の影響で「音楽との調和」が何よりも大事にされているのをご存じない?
全ての要素を曲にあわせないといけないのだ。
スピンの回転速度まであわせないといけないのに、何をおっしゃっているのやら。

「(ショーでは)私は一つ一つ音を聞いて演技するようになった。」
これも何をおっしゃっているのやら。
誰もが細かく音を拾っている。
特にライサチェクと浅田選手の音の拾い方は見事だと思う。

ジャンプの種類だけ言っていればいい解説だとしても、
自身の程度の低さを露呈しているようで哀しくなった。


私は、フィギュア選手は表現の上で「アクター」と「アクトするもの」があるとは思うが、
"アスリート"と"アーティスト"という分類には共感はできない。
だれもが、"アスリート"であり、"アーティスト"でもある。

例えば、芸術性が低いと言われているケビン・ヴァン・デル・ペレン。
世界選手権での彼の4-3-3は私は芸術であると思った。

一流の"アスリート"は"アーティスト"である。
研ぎ澄まされた動きは美しい。

私はイチロー選手のバッティングは非常に美しいと思う。
バットが体の一部となって、
無駄な動きが一切ない。
それは"舞"にも似ており、"芸術"だと思う。


浅田、安藤選手は"アスリート"とのことだが、
彼女の分類に従えば、
安藤選手は気質的には"アーティスト"に近いのではなかろうか。
最近の彼女は勝敗よりも(その考えるようになった過程を考えると辛いが・・)
演技を観客の心に届けることを努力しているように見える。


そして、浅田選手は"アスリート"だ。
(これは荒川静香の分類の上ではない)
もちろん、すばらしい"アーティスト"でもあるが、
彼女は何よりも"アスリート"である。

荒川静香の意図は不明であるが、
浅田選手自身は"アスリート"の称号について不服を唱えることはないであろう。



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考えようと思えば、いろんなことが考えられる。
日本に滞在しているプルシェンコがフレンズオンアイスには出場しなかった。
金メダリストとして、異常なほど、ライサチェクをヨイショしたフレンズオンアイス・・・。

あぁ、荒川さん。
私はあなたのファンなのです。
トリノシーズンは、一生懸命、あなたを応援していたのです。
どうか嫌いにさせないで下さい。