FILA GRANT HILL 3 (WHT/NAVY/RED) -SOLE No.57 | メンズファッション大革命
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フィラ グラント・ヒル3 (白/ネイビー/赤)


・いまは2011年6月3日である。

 この時点で10代以下の若者にとって、このブランド名を耳にしたとき、
 まっ先にスニーカーを連想する人間はおそらくいないんじゃないかと思う。

 じっさいのところ、
 いま現在のフィラはスニーカーブランドとはおよそ言いがたい。

 しかし、もしあなたがいま現在20代中ば以上で、
 スニーカーカルチャーについて少なからぬ興味を持つ人物だとしたら、
 このブランドのかつての輝きを忘れたとは言わせない。

 と言うかどっちにしろこれからゆっくり話して聞かすから、
 だまってそこにお茶でも用意して座ってなさい。


・このイタリア発祥のスポーツメーカーは、
 もともとは1911年にフィラ兄弟によって創始された。

 当初はニット素材工場として発達し、
 のちにスポーツウェアの分野に進出していくことになる。

 それ以後は今も昔も、特にテニスの印象が強いブランドである。

 ここまで読んで「へぇ~、そうなんだ。初めて知ったよ」
 と思った方も多いと思う。

 なにしろぼくも初耳である。

 いまこの記事を書くためにささっとウィキペディアとサイトで調べたくらいで、
 このブランドの歴史にまつわる予備知識はほとんどゼロに等しい。

 しかしそれはぼくにとって瑣末な問題に過ぎないし、
 じっさいのところ大して興味もない。

 にも関わらず、ぼくがフィラに対して特別な感情を抱くのは、
 スニーカー文化が華やかりし90年代中期にリリースされた、
 いくつかの歴史的名作シューズたちの存在があってこそである。

 詳細な経緯はわかりかねるものの、
 それまでバスケットにはほとんど縁のなかったフィラが、
 90年代中期に突如としてスター選手や有望ルーキーと、
 次々にシグネチャー契約を結び始める。

 当時はNBAを頂点とするバスケットが世界的に注目を集めていて、
 バスケットカテゴリーに新規進出するブランドがあとを絶たなかったから、
 フィラも同様の流れを追ったとものと見て、
 だいたいのところ間違ってはいないと思われる。

 その中でも、おそらくフィラがその社運をかけて契約したであろう超大型新人が、
 1994年ドラフト1巡目3位指名でデトロイト・ピストンズに入団したグラント・ヒル、
 その人である。


・ルーキーイヤーから新人王の獲得、オールスターゲームでファン投票1位
 (新人でファン投票1位は、アメリカ4大スポーツにおいて初)
 という離れ業をやってのけたグラント・ヒルには、
 当然のようにキャリアの最初からシグネチャーモデルが与えられていた。

 彼をスポンサードしたのが他ならぬフィラであり、
 のちに故障で悩まされる幸薄な時期を迎えるまで毎年新作がリリースされた。

 ぼくの記憶にしっかりと残っているのはグラント・ヒル5までだが、
 2000年に足に大きなケガをして以降、
 それまでのスターの座からは大きく遠のいてしまったので、
 おそらくシューズも5で打ち切りになったものと思われる。

 しかし度重なる故障に見舞われながらも、
 なんと2011年の現在も彼は現役のNBAプレイヤーである。

 現在はフェニックス・サンズに所属して、
 かつての華々しさは失われたもののスターターとして活躍している。

 しかしながら、彼のプレイヤーとしての偉業は本稿の主題ではないので、
 いよいよ彼が着用していたその靴について言及したいと思う。

 
・この第3作目となるグラント・ヒル3は、1996年にリリースされた。

 この時代のフィラのバスケットシューズの特徴は、
 その独特のまるっこいボリューム感あふれるデザインである。

 同時代のスター選手、ジェリー・スタックハウスもフィラがスポンサードしていたが、
 彼のシグネチャーシューズ、スタックハウスMIDにもやはりその特徴が顕著である。

 直線的なラインで力強さを表現するのが主流の他ブランドと比べて、
 この放物線を描くような曲線を用いたデザインは優雅さを感じさせるものであり、
 スポーツシューズであるにも関わらず芸術的な趣を湛えている。

 これは当時、すでに早熟なスニーカーオタクの小学生だった筆者にとって、
 ほかのどのブランドとも異なる強烈なインパクトを残すのに十分だった。

 また当時は各ブランドがナイキのエアに対抗して
 ありとあらゆる種類の衝撃吸収システムを開発しており、
 フィラの主要シューズにもれなく搭載されていた2Aシステム
 (アウトソールから視認できる赤い円筒状の物体)は見た目にも美しく、
 イタリアのブランドらしい美的センスは他ブランドから突出していた。

 そんなわけで、このグラント・ヒル3はそのデザインだけを取っても
 十分にスニーカーの殿堂入りを果たして然るべき名品であることは間違いない。

 しかしながら、あるいはそれ以上に…
 ぼく個人の思い出の1ページとして、
 この靴はまた違う色の輝きを放つのであった。


・そのときぼくは恋をしていた。

 小学校5年か6年生、それくらいのときだ。

 ぼくは受験のために学校が終わってから塾に通っていて、
 お相手は塾の同じクラスの女の子だった。

 小学校に好きな子はいなかったから、
 勉強という大義名分がいささか億劫ではあったけれども、
 毎日の塾通いはぼくにとって、
 ささやかな楽しみを伴うものでもあった。

 彼女は男兄弟がいたためか、その可憐な容姿にそぐわずいささか強気な性格で、
 怒ったときの表情が最高にチャーミングだった。

 ぼくはそのとき塾内でもつねに上位の成績を修めていたから(注:ほんとだよ)、
 その容姿の偏差値の高さとは反比例してそれほど良い成績ではなかった彼女は、
 テストの結果が出るたびに、よくぼくにつっかかってきた。

 いまにして思えば、絵に描いたような見事なツンデレである。

 悪態をつきつつも内心ではこちらの実力を認めないわけにはいかず、
 その矛盾に葛藤する彼女が見せる少し小鼻をふくらませた小さな横顔は、
 ある種の男の子にとってたまらない魅力を秘めていた。

 ある種の男の子とは、もちろん11歳のぼくだった。

 ぼくはそんな彼女に文字通り夢中だった。

 そんな彼女があるとき、デニムのミニスカートに黒いニーハイソックスという、
 きわめて確信犯的ないでたちで塾に現れた。

 そしてその足元で、まるで黒人が二カッと笑ったときに見せる
 まっ白い歯のような輝きを放っていたのが、まさしくこのグラント・ヒル3だった。

 彼女のそのキュートないでたちに、この靴は実によく似合っていた。

 それ以来、ぼくの中で「女の子とスニーカー」という
 揺るぎがたい不文律ができあがったことは、言うまでもない。

 最高に優れたスニーカーは、女の子を最高のステージに引き上げてくれるのだ。


・それ以来、彼女とはとくになんの進展もなくそれぞれの志望校に進むことになった。

 彼女がどこでなにをしてるのかは、いまもまったくわからない。

 しかしながらぼくはいまだに、
 ふと電車の中でふくれっ面をしている女の子なんかを見かけるたびに、
 あのとき損なってしまった彼女の幻影のようなものを見出すのである。

 それはある意味では、終点のない幸せな恋の形である。

 だからぼくはこの恋を死ぬまで
 ―あのとき座ったミニスカートのすき間からはっきり目撃して脳裏を離れない
 まっ白なかわいらしいパンティの記憶とともに―
 誰にも口外しないで、大切に墓の下まで持っていこうと思っている。


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