天国からのラブレター | ☆I am That I am☆

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愛を叫ぶならどこ? ブログネタ:愛を叫ぶならどこ? 参加中
本文はここから
愛情って物は 感情のひとつなのでしょうか、

 解りかねます。

タイトルの「天国からのラブレター」

光市 母子殺害事件(99年)の残された遺族

旦那さんが書いた本で 映画にもなってます。

批判もされてますが 

ほとんどが 感情的な面での批判です

愛 という物を 正面から問いかけたら

ああいう 本になった という見方もできる。

一時の感情なら 俺には

愛なんて 薄っぺらなものとしか感じられません、

司法のあり方についても

被告弁護団も

批判するマスコミも

ほとんど 感情論ばかりである

本当の 心情という物は何処にあるのだろう

今日の 毎日新聞夕刊に

「橋下知事に 賠償命令」の見出し

「懲戒」扇動は違法

そのとおりである

あの弁護団は 確かに問題はあるが

公的に影響力がある人間が

感情に訴えるような批判と

懲戒請求をかけてもらいたいというのは

行き過ぎだった。

あの弁護団だけでなく

刑事事件被告の弁護という存在を

危うくするという 部分がネックですね

ただし 俺の 感情としては

あの弁護団は 粛清されて当然とは

思っているのだが

なぜなら

本村洋さんは あの裁判が続いてる間

(弁護団しだいでまだ 続くかもしれない)

愛を叫び続けて来たと言って過言でない

あの 弁護団は その愛を 否定してきたのである。

という事で、

この社会で 愛を叫ぶならば

何処が良いかと いえば

誰にも否定されず 批判の対象にもならない場所

それは「天国」である

「天国の真ん中で愛を叫ぶ」

これこそが 世界の真ん中で

叫けぶ と言えるかもしれないな

そして

人間 愛された事が無い人間は

人を愛せないという

だからと言って

被告のような人間を 可哀想というのは

ナンセンスである

人間は やり直しはできない

更生などという物は

事務的な部分でのみ可能で

子供の頃から やり直すという事は

不可能である

人間は ひとりひとり

違った生き方しかできないのであるから

哀れみというのは かけるべきではない

というのが 俺の持論である

生きるのは本人で

誰かが代われるものではない。

余談だが

刑事事件などの場合

本人が 必死に弁護して欲しい

と願う人間以外 事務的な弁護で十分

という 結論になる。

意思の問題であり

他人がどうこうする問題では無いと

思うのです。

100%責任が負える他人は存在しないのだから。


善悪の問題もある

悪人が助かろうとする

という物も 意思があるから

助けようとするわけで

善人は 甘んじて結果を受けてしまい易い

これも 本人の意思が 

強いか弱いかという事で

弱い善人は 強い悪人には負けるのが常である

善人が意思を強く持たないのが悪い、

と思っている。

冤罪の泣き寝入りなども含まれますね、

アメリカは 日本ほどひどくは無い

アメリカでは 救急病院に 弁護士が

救急車を待っている

事故などの場合

支払い能力が無い 低所得者でも

事故の相手から 成功報酬込みで

損害賠償や慰謝料請求の訴訟請負を

進んで やってくれる。

悪い言い方をすれば

「金ふんだくってやるから 俺を雇え」

という 弁護士が居るのである

日本も 今後 訴訟社会が進むと

そういう弁護士が 増える

と考えられる。