雨宮拓のプロフィール
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M.A.S.H.=森順治・雨宮拓・大沼志朗+Emyu 於なってるハウス
のつづきです。
雨宮拓のプロフィール
googleで“雨宮拓”(あめみやひらく)と検索して出てくるテクニカル・コミュニケーター、或いはテクニカル・ライターの“雨宮拓”とフリー・ジャズのピアニスト“雨宮拓”は同一人物。
テクニカル・コミュニケーターは、手っ取り早く言うと、家電製品や事務機器のマニュアルを書く人。雨宮はパソコン、事務機器を中心に、情報機器のマニュアルを作成しているらしい。テクニカル・コミュニケーターとしての雨宮拓のプロフィールは「TCシンポジウム '97:分科会」
参照。
では、フリー・ジャズのピアニストとしてのプロフィールは? ということでご本人に少しだけお聞きしてきました(何点かネット上の検索結果によって補足)。
1955年3月10日、和歌山県生まれ。乳幼児期に静岡へ移り、7年ほど住んで1964年、東京オリンピックの年に東京へ。
ピアノを始めたのは6歳の頃だったが中断。14、5歳の頃に再開し、バイエルンやハノンを独学でやった。プロになることは全く考えていなかったという。ジャズとの出会いはニッポン放送で11時にやっていた「ナベサダとジャズ」を聴いていて。スタジオ公開録音に足繁く通い、生のジャズに触れる。渡辺貞夫、増尾好秋、鈴木良雄、渡辺文男の名前が挙げられた。高校の頃はリコーダーが得意だった。
フリー・ジャズをやるようになったきっかけは、ドン・チェリーとエド・ブラックウェルの『mu』(1969/08/22. BYG)。B面でドン・チェリーが弾くピアノを聴いて、「これならオレでもできる」となった。
たまたま持ってた。ただし、Art Ensemble of Chicago の
"A Jackson in Your House" と "Message to Our Folks" を
カップリングしたCDを購入したところ、中味が "mu" だった。(>_<)
昔LPで持っていて嫌いでなかったので返品せず、
AEOCは改めて購入し直しました。
ジャケットはネットで拾ってきてプリントアウトしたもの。
そこで自作楽器などを使ったバンドを仲間と組み、ジャンジャンの朝の部のオーディションを受けたら通ってしまった。それがプロとして演奏した最初だった。
やはり高校生の頃、学校へ行かずにプルチネラに頻繁に通う。カウンターには店員としてアルバイトする藤川義明や角張和敏がおり、そこでナウ・ミュージック・アンサンブルの面々と出会う。雨宮は16,7、藤川は22,23だった。
73年、アメリカに留学。帰国後の74年にニュージャズ・シンジケートに参加。副島輝人の『日本フリージャズ史』では庄田次郎
と原尞の「ニュージャズ・シンジケート」
参加ミュージシャンとして雨宮拓の名前が記されている。1979年、庄田次郎の電気バンド「エターナルナウ」にエレクトリック・ピアノで参加。
80年代初頭、伊豆下田のショッピング・センターで行われたという「ニュージャズ・シンジケート」のライヴで雨宮は大沼志朗と初共演。
また、富樫雅彦のニュージャズ・シンジケートとの共演をきっかけに、80年代は富樫の増上寺での自主コンサートに呼ばれ、梅津和時らと共演。
1998年から2001年にかけては富樫雅彦のグループへ参加し、大泉学園の in F(*)、PIT INN等にさがゆき、翠川敬基、井野信義等と共に出演。メンバーは最終的に雨宮、井野信義、富樫雅彦に広瀬淳二が加わるという布陣に落ち着く。
(*)「in F」でのライヴはマスターの佐藤浩秋氏(b)がニュージャズ・シンジケートに参加していた関係から、雨宮や富樫と繋がりがあったため。
2007年、藤川義明のフリー・ジャズ・ワークショップに参加。藤川との出会いは高校生の時だが、これが初共演となる。大沼志朗との共演が再開し、現在、SAU(Same Age Unit)、M.A.S.H. で活動を共にする。また自身のグループ雨宮拓トリオ(池上秀夫 b、田宮ガク perc)で高円寺グッドマン
に定期的に出演。
エミュのプロフィール
につづく
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