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コルトレーン、ヘロインを断つ 目次

「コルトレーン、ヘロインを断つ」早分かり ♪→ 「これまでのあらすじ」


音楽ジャンキーとしてのジョン・コルトレーンの肖像〈8〉
コルトレーン、ヘロインを断つ その107


薬物依存症に治癒はない。薬物への神経適応によって脳自体が変化してしまっているため、断薬後も渇望が生じて度々依存を再発させる。従って断薬は継続的な努力によって維持されなければならない。ヘロイン、アルコール、煙草を断った後、コルトレーンに生じていたに違いない渇望について想像を巡らせています。


1957年、コルトレーンはヘロインを断つと共に「霊的覚醒を経験し」、音楽によって人々に幸福をもたらす術と権利が与えられることを神に願い、その遂行を誓った。しかしその後、自身の優柔不断さによって音楽的使命から逸脱した時期へと入っていったことが『至上の愛』のライナー・ノーツには記されており、一見終始順調であったかのような印象を与える断薬後のコルトレーンの音楽活動が、少なくともコルトレーン本人にとっては決して平坦なものではなかったことが窺われる。

同じ経過を『至上の愛』のライナー・ノーツとは異なるニュアンスで語っているインタヴューが残されており(後述します)、そこでは様々な多くの事情・事態の発生が度々音楽的使命を忘れさせ、しばしばテクニカルな事柄で盲目的に自身を取り囲んだと語られている。

コルトレーンに優柔不断さを強いるようなストレスフルな事情・事態に(主として)練習による強迫的防衛(*)で応じたということなんだと思う。そしてストレス状況が渇望の誘発因子である以上(**)、このエピソードからは単にストレスに対する気散じだけではなく、断薬後の渇望の持続を読み取ることができる。コルトレーンは渇望から逃れるようにして練習に打ち込んだのに違いない。

(*)強迫的防衛、或いは躁的防衛は、対象喪失(失恋・死別)などのストレス状況で生じた無力感や不安・心痛を、仕事や勉強といった適応への努力によって回避する防衛機制。「強迫的練習の意義と防衛の一時的破綻」 参照。

(**)「渇望の誘発因子」及び「断薬前後の変化と渇望の誘因」参照。


ではコルトレーンに渇望を生じさせたストレス状況とは具体的には何だったのだろうか。マイルス・デイヴィス・バンド在籍時の58年から60年にかけて、なかなか脱退の機会をとらえることができず、自身のバンドを組めないフラストレーションを抱えていたこととか(*)、1957年と1961年のナイーマの2度の流産(**)などが相当するのかも知れない。きっとその度に渇望に見舞われていたのだろう。だがどちらも単独の出来事・事態だし、流産は重そうだがまた機会があると考えることもできるわけで、どちらも単独では左程深刻な影響は与えなかったと思う。

(*)「マイルス・デイヴィス・バンドの辞め際」 参照。

(**)『コルトレーンの生涯』p.301

評論家の批判はどうだろうか。確かに批判は絶えなかったが、他方で常にコルトレーン擁護も根強く、毀誉褒貶が相半ばするのはマイルス・デイヴィス・クインテットに加入以来の常態だったからきっと慣れっこになっていただろう。

しかし一度だけ(64年以前では)、従来の批判者のみならず擁護者からも攻撃されたことがあった。既に別の視点から言及した1961年末から1962年初めにかけての主にヴァンガード・セッションで展開された傾向に向けられた批判だ(*)。これをきっかけにコルトレーンは方向転換を余儀なくされ、強迫的な慎重さで「黄金のカルテット」最初のアルバム『コルトレーン』(Impulse)を仕上げた後、ボブ・シールが主導した企画物をこなす時期が暫く続いた。やはりこれが臭います。

(*)「相継ぐ批判と壊れたマウスピース―事の背景」 及び「1961年~1962年の批判とレコーディングの経過」 参照。


恐らく断薬以後、特定の時期にかかわらず、様々な誘因によって不可避的に生じる渇望に対して、テクニカルな事柄への没頭よる強迫的防衛でしばしば応じていたのだろう。しかし『至上の愛』のライナー・ノーツによれば、音楽的使命からの逸脱、或いは主観的な低迷は明らかにある時期から始まって『至上の愛』の作成に至って(或いはそれまでに)終息したこととして記されているのだから、64年から遡る一定の期間であることは紛いようがない。そしてさらに、類似した内容が語られた問題のインタヴューは『至上の愛』のレコーディングを遡る約1年前に行われたものだった。

インタヴューは評論家のラルフ・J・グリーソン(*)によるもので、当該箇所は "More Lasting Than Bronze" というアルバム(**)のライナー・ノーツで使用された。ライターによってはこのインタヴューの時期を1961年或いは1962年として引用していることもあるが、1963年11月26日から12月8日まで、ロサンジェルスのジャズ・ワークショップに出演した際に行われたものである可能性が大きい(***)。なお、インタヴューは1964年6月にリリースされた『コルトレーンズ・サウンド』(Atlantic)のライナー・ノーツにも一部使用されている。

(*)ローリング・ストーン誌の創刊者兼編集者で、モンタレー・ジャズ・フェスティヴァルの共同創設者。コルトレーンのアルバムのライナー・ノーツもいくつか書いている。

(**)"Lush Life" と "Coltrane"(Prestige) を2枚組LPに纏めたもの。

(***)Doug Ramsey, "John Coltrane: In The Fifties". "John Coltrane The Prestige Recordings", booklet, p.12 では1961年、『ジョン・コルトレーン「至上の愛」の真実』p.64 では1962年としている。1963年である理由は煩瑣になるので省きます。Porter, p.318-n.30 及び "Johnn Coltrane Reference", p.292、参照。


したがって、1963年末の時点で、音楽的使命からの逸脱は明らかに自覚され、回顧の対象になりつつあった。「なりつつあった」というのは、「人々を幸福にするような音楽を演奏する」ことと、「テクニカルな事柄で自分を取り囲む」ことを両立できず、解決の道が見出されていないこともまた吐露されているからだ。未だ軌道修正の途上にあったということなのではないかと思われる。


(以下印まで忙しい人は読まずに飛ばして可。)

しかしなぜ「テクニカルな事柄」への没頭と音楽的使命が両立できないのだろうか。なるほど本来の自発的な目論見が阻まれるような事情の元で、目的(或いは感興)を欠いたままテクニカルな事柄に執着することが往々にして貧しい結果しかもたらさないだろうことはなんとなく想像できる。だがそうであるなら、元々の事情が改善され、本来の目的に立ち戻ることができれば問題はないのではないか。「何ごとかが立ち現れようとしている時」(*)にこそ練習の意欲は猛烈に掻き立てられるのだとすれば。

(*)『コルトレーンの世界』p.147、フランク・コフスキーによる1966年8月18日のインタヴュー。

もしかすると「テクニカルな事柄で自分を取り囲む」ことには強迫的な練習だけではなく、ある種の制止によって優柔不断な態度を結果する別の側面もまた含まれているのかも知れない。それについては追い追い触れていくとして、ではコルトレーンが考えていた「人々を幸福にする音楽」とは一体どのような音楽なのか。実を言うと正直よく分からない。なんとなく分かっているようだが改めて問い直すとよく分かっていないことが分かる。分からないのである意味こうしてあれこれ穿鑿しているのだが、そもそもコルトレーン本人が明確に把握していたわけではなかったことを前回触れた1962年のインタヴューで告白している(*)。だからこそ聖人の奇跡のようなイメージが呼び込まれたりもするわけだ。

(*)11月17日、パリでのインタヴュー。“Entretien avec John Coltrane,” by Jean Clouzet and Michel Delorme, Les Cahiers du Jazz, No.8, 1963, pp.1-14. /Porter, p.211、『ジョン・コルトレーン「至上の愛」の真実』p.305 の引用による。

それでも、『至上の愛』のライナー・ノーツによれば、57年以降、主観的な低迷期に入るまで、「音楽によって人々を幸福にする」という願いは神の恩寵によって叶えられたとコルトレーンは感じていた。それが何であるかをはっきりと理解していたわけではないが、ともかくも「感じて」はいた。とすると、その間の音楽活動の傾向は大まかなところ、音楽的使命に十全なかたちで一致するものではなかったとしても、少なくとも背くものではなかったということだろうか。

しかし例えば、シーツ・オブ・サウンドの時期、コードを完全にマスターし、専ら和声にのみ基づいて演奏することは自分にとっては大きな歓びだが、リスナーにとっては必ずしもそうではないないだろうとふと漏らしている(*)。これをリスナー不在のナルシスティックな歓びに浸ってひたすら音の洪水を撒き散らしていた、というような言い方もできるわけで、実際そういう批判もあった(**)。

(*)Porter, p.133。“Coltrane Par Coltrane,” Jazz Hot 265 ( October 1970 ), 9. ソースは1960年3月22日の Bjorn Fremer によるインタヴューだろうと推測されている。

(**)Porter, p.139。ジョン・タイナンの批判。Down Beat August 6, 1959, p.32。評者自身のの心理が投影されてコルトレーンの「歓び」を捉え損っているが。コルトレーン批判によくあるパターンですね。そらコルトレーンのことじゃなくて、あんた自身のことなんでないの? みたいな。認めたくない自分、否認したいネガティヴな自分でもってコルトレーンの演奏を説明してしまうという、好きでないものに言及する際に(つまり批評めかして好き嫌いをいう時に)ありがちな錯誤。ちなみに、1961年、ドルフィーを加えたジョン・コルトレーン・クインテットの演奏を批判したのもこのタイナンさんでした。自分が理解できないことについて黙っていることがなかなかできない。評論家というのは因果なお仕事です。評論家だけじゃないかこれは。

それは必ずしも「人々を幸福にする音楽」ではなかった? だが音楽を消費の対象とのみ心得るようなリスナーの「幸福」とは何か?(あ~。差別でっか。おとろしなあ。)

或いはこれを別の視点から眺めてみることもできる。「神の恩寵による霊的覚醒」というのは単に依存症の克服だけにかかわるものではなく、和声探求へとコルトレーンを強く動機付けた音楽的なインスピレーションをもまた指示しているのではないか。むしろそのことが依存症を克服させたのではないか。とするなら、スウィーピング・サウンドを実現するための練習への没頭、和声へのオブセッシヴな取り組みは神の意に添うものでもあったのではないか。そしてそれは結果として、スウィーピング・サウンドのドロッピングという、それまで誰も耳にしたことがなかったようなテナーによる音の風景をリスナーにもたらしたとも言えるのではないか。「霊的覚醒」という言葉は音楽的なインスピレーションの、信仰を持った人間によって解釈されたその表現でもある、というわけです。

コルトレーンの内発的な動機・必然によって展開される音楽と、神との関わりに於けるそう在りたいと願う理想像と使命、即興の衝動と表現欲求、コルトレーンが想定するリスナーと現実のリスナー、ジャズ・ジャーナリズムの敵味方。それら様々な要素が時に円満に一致し、時に鋭く対立して葛藤を生み、微妙に入り混じりまた斥けあいながら時々に変化する「人々を幸福にする音楽」と「そうではない音楽」。極めて卑近で具体的なことから、コルトレーンのみならず誰もまだ知らない未知の領域にまで至る幅を持っていて(*)、どうにも明瞭に割り切ることができそうにない音楽の力・可能性。う~ん、むつかし過ぎる。あたまわり~自分がつくづく悲しい。これらのことどもを審らかにすることは今後の課題にするとして、今は分かることから手をつけていくことにしましょう。でないと先へ進めまへん。

(*)アシュリー・カーン『ジョン・コルトレーン「至上の愛」の真実』p.305


ありゃりゃ、もう終わりじゃん。(>_<)

煩瑣な詳細は括弧に入れて、ここは取り敢えずコルトレーンの主観的低迷と渇望状況の関わりに主眼をおいて大まかに捉えておく。63年後半には既に音楽的使命への軌道修正の途上にあったとして、63年以前である纏った作品傾向が続いたというと、やはり企画物を措いて他にない。『バラード』『デューク・エリントン・アンド・ジョン・コルトレーン』『ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン』の3枚だ。これらが「人々を幸福にする音楽」ではないのかどうかは問わないでおこう。ただ、この企画物に携わっていた時期のコルトレーンは、後に自身によって優柔不断であったと振り返られており、様々なストレス状況の中で渇望に見舞われていたのかも知れない。そう仮定して、61年末~62年の批判を起点にして今一度、事の経過を簡単に辿ってみよう。 (つづく)


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