1946年、二つの初ソロ | ジョン・コルトレーン John Coltrane

1946年、二つの初ソロ


目次 index(ここからすべての記事に行けます)


喪の作業、そして強迫的儀礼としての?〈61〉
コルトレーン、ヘロインを断つ その93

↓この続き物の目次はここ
コルトレーン、ヘロインを断つ 地獄の目次録


17歳のニューヨーク

ゲイ・ノーツ Gay Notes という曲を聴く。AABA= 32小節。
1946年1月21日、ニューヨークでの録音。

アップ・テンポでバップ風のテーマ。と言っても、ブルース、ブギウギ、ジャイヴ、スタンダードなんでもござれの雑食ジャンプ・バンドのこと、あくまで「風味」で実態はスウィング・ジャズ。

トランペット×5、トロンボーン×4、アルト×2、テナー×2、バリトン×1、ヴィブラホン×1、ピアノ×1、ギター×1、ベース×2、ドラムス×1 で、総勢20人の大所帯。それほど派手な曲でもないが、数が物を言ってなかなかに景気はいい。

テーマ提示の後はソロのコーラス。AA=16小節がバンド・リーダーのヴァイブ、B=8小節がトランペット。問題は最後のA=8小節を吹くテナー・サックス。

最初の4小節はメロディックなフレーズをゆったりと二度繰り返す。南西部テナー風のざらついた太い音だ。続く5小節目、僅か1拍ちょっとの間を空けた後、今度は一転してにわかに裏返ったような高音でけたたましい速吹き。ドン・バイアス張りの見事なダブル・タイム。

その慌てふためくような、スラップスティックな音の動きに思わず吹き出しそうになりながら、なるほどこれは確かにジョニー・グリフィンだ、と納得する。


1928年4月24日生まれのグリフィン、この時若干17歳。レコーディングで初めてソロをとったのがこの「ゲイ・ノーツ」だった。ライオネル・ハンプトン・オーケストラ、デッカ時代の1曲。

グリフィンだと予め告げられていれば、恐らくは誰もがちゃんとグリフィンだと認知できると思う。知らずに聴いてそれと気付く者もいることだろう。後年のユーモラスなハード・ブローの片鱗が早くも窺うことができる17歳の初ソロ。ジョニー・グリフィン、恐るべし。

もっとも、他の曲でのソロも聴いてみると(*)、同じようなパターンを使い回ししているし、所々覚束ない箇所もあって、やはりまだまだだな、とは思うものの、それでも取り敢えずは「様」になっているし、これだけ切れのある速吹きができるのには目を見張らされる。

(*)先にジョニー・ホッジスの記事 で紹介した The Lionel Hampton Story というコンピレーションで聴いているのだが、急速調の「エア・メイル・スペシャル・パート1」Air Mail Special, part1 (1946, 1/31) では1コーラスのソロ、「ゲイ・ノーツ」をテンポを落として演った「テンポズ・バースデイ」Tempo's Birthday (1946, 9/9) では8小節のソロが聴ける。他にもグリフィンがソロをとった曲があるのかどうか、は不明(ご存知の方、教えて下さい)。


19歳のハワイ

奇しくも同じ1946年、ジョン・コルトレーンも初レコーディングを経験した。8曲が演奏され、そのすべてでソロをとっている。コルトレーンのアルト・サックスに、トランペット、ピアノ、ベース、ドラムスというコンボ編成で、3曲だけヴォーカルが入る。

記念すべき第1曲目を聴いてみる(*)。

(*)CD "First Giant Steps" の収録順は実際のレコーディングとは異なっている。

イントロはアルトのブレイク。音が澄んでいるからだろうか、ベニー・カーターの名前を出す者(*)もいるが、カーターの闊達さも“しな”もない。明確な個性は感じられず、まだ何者かになる手前にいるといった感じ。

(*)Porter, p.45

曲はカイ・ウィンディングのスウィート・ミス Sweet Miss、AABA=32小節。幼稚園のお遊戯みたいな脳天気さが、どういうわけか不安で胸を掻き乱す。AAがアンサンブルで、Bはトランペットの1音に呼応する形でアルトが続く。これがコルトレーンだって? 山下清がアルト・サックスを吹いてるんじゃないのか?

テーマの後はトランペットのソロ=1コーラス。パーカーと演った初期のマイルスにそっくり。あのヘンテコさを模倣している。実際、このデックス・カルバートソンというトランペッター、まだ誰もマイルスに注目していなかった時期に熱心なフォロワーだったという(*)。変なやつ。

(*)Porter, p.43-44。この人、翌年の1947年4月21日にレコーディングされたビリー・エクスタインによる「プレリュード・トゥ・ア・キス」のアレンジを書いているという。

次にアルト・ソロ=1コーラス。音はきれいだが、しばしば不自然に途切れてなかなか一貫したラインが形成できない。ちらっとパーカー風フレーズも聴こえた。もつれる16分音符、3連符。もたついて鈍重。終わり近くでミストーン。これを聴くと、いかに初期マイルスがへんてこながらも、一応整って形になっているかということがよくわかる。

正直なところ、これがコルトレーンだと言われてもまったくそれと認知できない。もちろんテナーでなくアルトを吹いているということもあるが、片鱗すらもない。

頼りなげな音の表情に、いじらしいような切ないような、後年のごく限られた一側面がふと思い浮かんだり、自分の能力を超えたことに挑んで逸る心に指が追いつかない様には、8分の力でこじんまりと気の利いたまとめ方をするなどということは眼中になく、破綻を恐れず全力で即興する、というような態度を連想しないでもない、というのもコルトレーンと知ればこその作られた所懐に過ぎないだろう。

残る7曲(*)も出来は大同小異で、とてもじゃないがこれをプロの即興とは見なせない。いいとこセミプロ、悪く言うと、というか悪く言わなくてもそのままアマチュア・レベルの即興。僅かながらキラッとするところがないではないが、17歳のグリフィンに比べると、目を見張るような際立ちはなく総じて凡庸。作品としてまともに鑑賞の対象とするにはきついものがある。19歳のコルトレーンがこんな風な演奏をしていましたよ、という資料的な価値があるのみ。こうして極東の一リスナーがCDをお手軽に入手して耳にするというのも「ジョン・コルトレーン」の名声あってのこと(**)。

(*)ナット・キング・コールの演奏を参照したものが3曲、パーカー由来の曲が Koko, Now's the Time, Hot House, Ornithology の4曲。後者の選択はコルトレーンとマイルスかぶれの白人トランペッター、デクスター・カルバートソンが相談して決めたらしい。

(**)CD、"The First Giant Steps" は1954年6月のジョニー・ホッジス・コンボでのライヴも収録されており、こちらは充分鑑賞に耐えるので購入して損はない。


それもそのはず、そもそもこれはレコード会社による営利目的のレコーディングではなく、プライヴェートで行なわれたいわば趣味のセッション。場所はハワイのオアフ島。といっても遊びに行っていたわけではなく、兵役の赴任地で、つまり、徴兵という制約の中でのレコーディングだった。しかも徴兵に絡んで不利な条件は他にも色々あった。コルトレーンの鑑賞に耐えぬ初レコーディングを擁護する、とまでは行かぬとも、公平を期すために少し遡ってその辺の事情も記しておこう。

前年1945年の前半、ベニー・ゴルソンと初めて会った時、コルトレーンはジョニー・ホッジスそっくりに「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」を吹いていた(*)。漸くプロとしての仕事をポツポツし始めるという頃のことだ。ところが同年6月5日、フィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックで初めてパーカーの演奏に接し、強いショックを受け、たちまちその虜となってしまう。その時点で最早ホッジスもスウィング・ジャズも過去のものとなり、新たにパーカーをアイドルとして音楽的関心はひたすらにビバップへと集中された。

(*)「ジョニー・ホッジス」 参照。


しかしその僅か2ヵ月後の8月6日(ヒロシマ原爆投下!)に徴兵に取られ、ビバップの探求は水をさされてしまう。8日後の8月14日、日本のポツダム宣言受諾で戦争が終わったのは幸いだったが、約3ヶ月間ほど新兵訓練を受けた後、ハワイへ派遣され、ネイヴィー・バンドに所属し専らダンスのためのスウィングを演奏した。

とはいえ、終戦後の軍の急速な縮小で兵隊の多くは除隊になり、演奏する機会も減っていたため、白人たちの場合はその余暇を自由にリハーサルやセッションに費やせたが、人種差別のため黒人たちには他の任務が課されて音楽専任というわけにはいかなかった。レコーディングの頃にはコルトレーンは厨房の仕事に就いていたらしい。そんな限られた時間の中で、コルトレーンは取り寄せられたパーカーの新譜を聴き、「彼がやっていたことを理解するために狂ったようにコピーしていた。」のだ(*)。

(*)Porter, p. 44。レコーディングに参加した白人トランペッター、デクスター・カルバートソンは、サヴォイや他のスモール・レーベルで78回転盤の新譜が出ると、すぐに郵便で注文し取り寄せていたという。コルトレーンが彼から借りていたのか、或いは自身で取り寄せていたのかは不明だが、セッションに参加したメンバーのうち、カルバートソンは唯一、セッション以外でもコルトレーンと接触があったらしいので、借りていたと考えてよいだろう。

そうしたビバップを未消化だったというハンディに加え、軍の施設を使用したためだろうか、レコーディング自体が時間を制約された慌ただしいものだった。しかも海軍は人種隔離が為されていたため、事前に白人たちとリハーサルすることもままならなかった模様。1946年7月13日土曜日、1時30分から2時30分までの1時間で全8曲を一発録りで済ませた。1曲に平均するとかけられた時間は7分30秒だ。

以上の如き事情を踏まえると、幾分コルトレーンに同情したい気持ちも起こる。それにもかかわらずここまでやった、と好意的に取りたくならないでもない。また改めて耳傾ければ、作品としての鑑賞とはまた別の感慨も起こる。全てを一挙にガラッと変えてしまうようなショックを与えたその当の対象を、いまだ自分自身であることすらできない19歳の若者が、理論的な理解もままならぬ状態で何とか触知せんと不器用ながらも懸命に模倣する様は感動的ですらある、と思わないでもない。


だからオアフ・レコーディングのコルトレーンを、若干17歳のジョニー・グリフィンの目覚しさと単純に比較することはできないのではないかと幾分歯止めもかかる。だが他方で、片や人気バンドで金の取れるソロをとり、片やいまだ二軍選手でよれよれのビバップもどき、というその違いに、正直なところやはり感嘆せずにもいられない。

確かにやっている音楽も違うし(*)、徴兵というハンディがあるものの、この後もコルトレーンが40年代中はレコーディングでソロイストとして起用されることはなかったことを考えると、徴兵に取られることなくビバップに専心していたとしても、果たしてどれ程の成果が得られただろうかと訝らずにはいられない。

(*)また或いは自身所有の楽器を手に入れるのがやや遅かったということもあるのかも知れぬが。母親にアルトを買って貰ったのは初レコーディングの約3年前だった。

ここへ至るまでにジョニー・グリフィンは一体どんな練習をしたのだろうか。二つの初レコーディングをこうして並べてみると、どうしてもコルトレーンの強迫的練習なるものの効率が疑われてくる。そのパーカーを模倣する手際の悪さ、不器用さが何とはなしに気にかかる。

だが、幸か不幸か、コルトレーンは小器用で屈託ないパーカーのエピゴーネンとして、あっけらかんと世に出ることはなかった。 (つづく)


目次 index(ここからすべての記事に行けます)



| ・人気blogランキング | o(^▽^)o | ・にほんブログ村 音楽ブログ | \(゜□゜)/ | ・ranQ |
| ・音楽ブログ ジャズ・フュージョン | (゚_゚;) | ・くつろぐ ブログランキング | (*^o^*) | ・Blog Freak |
| ・有名ブログランキング | m(u_u)m | ・ブログ王 | (*^o^)乂(^-^*) | ・テクノラティプロフィール |