しびれなまずの説 | ジョン・コルトレーン John Coltrane

しびれなまずの説


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喪の作業、そして強迫的儀礼としての?〈59〉
コルトレーン、ヘロインを断つ その91


コルトレーンが少年時代に被った多重喪失は、音楽への取り組み、楽器の習得・練習に対して多大な強迫性をもたらした。

がしかし、その「強迫性」は必ずしも一義的なものではなかったのではないか、と推測し、しばしば「強迫性」の一語で括られるコルトレーンの音楽への過剰な執着、そこに窺われるいくつかの相について、あれこれ想像しています。

前々回は、死別の悲嘆に対する防衛としての強迫性を(*)、前回は愛着対象だったに違いない父への同一化(**)という側面について取り上げました。今回は残るもう一つの側面について考えます。

(*)「強迫的練習の意義と防衛の一時的破綻」
(**)「父への同一化という側面・自我理想の更新」


最後に、目前の多忙さに悲嘆を回避する防衛でもなく、故人への愛着の代償でもなく、音楽それ自体が持つ優れて積極的な意義について喚起しておこう。無論音楽とて歴史的・社会的に多様に規定されているから「音楽それ自体」などというものはないのだが、あくまでも仕事にせよ学問芸術にせよ、それらによって報酬や他者一般の承認を得るといった二次的な充足だけに汲々とする場合に対比してのことだ。

悲嘆に対する強迫的防衛が受動的な条件付けとでも言うべきものであったとすると、音楽にはまたより積極的・能動的な動機付けとしての快楽が存する。音楽に触れ、自ら音楽を始めることで自傷癖が自然と止んだエレーヌ・グリモーのケースが想起される(*)。コルトレーンもまた、音楽にこれまで味わったことのないようなものを見出し、ためらうことなく己を投入した(**)。

(*)「症例狼女=エレーヌ・グリモー」 参照。やはり音楽に対して特異的に反応する資質みたいなものがあるんですかね。
(**)Porter, p.33。"John Coltrane: Une Interview," by Francois Postiff, Jazz Hot, January 1962。植草甚一スクラップ・ブック15『マイルスとコルトレーンの日々』p.181


ここで復習も兼ね、久しぶりに脳科学的おとぎ話に興じてみましょう。音楽を聴いて感動すると、エンドルフィンが出ます。オピオイド(*)拮抗薬のナロキソンを投与すると逆にその感動が抑制される。拮抗薬はオピオイド受容体に結合してエンドルフィンをブロックし、生体反応が起こるのを阻害するの。そんなわけで音楽をいいと感じることにはエンドルフィンの関与が想定できる(**)。

(*)オピオイド Opioid はエンドルフィン、アヘン、モルヒネ、ヘロイン等、内因性、外因性問わず、オピオイド受容体に結合して効果を表す物質のこと。実際には、オピオイドで内因性のものを、オピエート opiate で外因性のものを、それぞれ指示させているようです。

(**)ジュディス・フーパー+ディック・テレシー『3ポンドの宇宙』p.99、林一訳、1989年刊、白揚社 / C.F.レヴィンソール『エンドルフィン』p.259-261、加藤珪・大久保精一訳、1992年刊、地人書館 / 高田明和『感情の生理学』1996年刊、日経サイエンス社 / ジョエル・デイビス『快楽物質エンドルフィン』 安田宏訳、1997年刊、青土社。どれもちょっと古いです。エンドルフィン関連の新しい本出ないですかね。


さて次に、別離の苦痛にエンドルフィンが及ぼす影響について。母親から隔離された子犬・モルモット・ひよこにモルヒネを投与すると、鳴くことが少なくなり、逆に拮抗薬のナロキソンを投与すると鳴く頻度が増加する(*)。

果たして親から引き離された子供の動物の反応を「別離の苦痛」、エンドルフィンの効果を「社会的安心」「母親の存在」と翻訳してよいものかどうか甚だ疑問だし、ましてこれを人間の死別に当て嵌めてよいものかどうかも心もとないが、確かアーヴィン・ウェルシュの『トレインスポッティング』(**)にも失恋の悲嘆が原因でヘロインに嵌り、果てはHIVに感染してしまったトミー・ローレンスというのがいたな。

(*)『3ポンドの宇宙』p.94 / 『エンドルフィン』p.211-217
(**)第2章「復帰」第4話「股間の悩み―レントン」及び第6章「故郷へ」第8話「ウェストグラントンの冬―レントン」。
トレインスポッティングについては以下を参照して下さい。
トレインスポッティング(1)
トレインスポッティング(2)アーヴィン・ウェルシュが描いたヘロイン
トレインスポッティング(3)マーク・レントンの禁ヤク Kicking


当然、諸々の情動ストレスはエンドルフィン、或いはヘロインやモルヒネといったドラッグで鎮静されるだろう。しかしそれは別離に固有の心痛に効くということではなくて、単にストレス一般に対する鎮静効果があるということなのではないかと思う。


当時コルトレーンが聴いてコピーしたという「マージー」や「タキシード・ジャンクション」に耳を傾けてみよう(*)。そして何より、若きコルトレーンの崇拝の対象だったレスター・ヤングとジョニー・ホッジスを改めて聴いてみよう(**)。コルトレーンの悲嘆・憂鬱を和らげたに違いない強烈な快感・快楽が実感できるはずです。

(*)Porter, p.29-31。楽譜を買ったという Blue Orchids(青い蘭)は残念ながら手元にありませんでした。「マージー」と「タキシード・ジャンクション」については 「コルトレーン少年が耳にしたヒット曲」 参照。
(**)ジョニー・ホッジスとレスター・ヤングについては、コルトレーンが耳にしたであろう時期のレコーディングについておおよそのところを「お気楽CD日記」に書く予定。


ドラッグに比べればその効果はマイルドだから、嗜癖という言葉では強すぎるが、同様の機序が音楽への執着を強化するということは、改めて言うまでもなく、音楽ファンなら誰もが経験的に知っていますね。ところがその開始と同時に見せたコルトレーンの音楽への強い執着を「強迫」という言葉で指示すると、この快楽(嗜癖・依存)という側面が抜け落ちてしまいがちになる。なにも勤勉さだけが悲嘆を防衛したわけではない。そして何より、楽器を習得することには学習することの快楽も大きく関わってくる(*)。

(*)これについては「ジャイアント・ステップスの萌芽」 で既に述べた。


しかし音楽にはまた、逆に悲嘆を強く喚起する効果もあります。対象喪失以後、昔聴いていた音楽にふと接すると、強烈で生々しいメランコリーが誘発されたりすることがある。ヴァントゥイユのソナタの小楽節を耳にして激しい悲嘆に襲われたスワン、なんてのがマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』には出てきます(*)。

(*)『失われた時を求めてⅠ』「第一篇 スワン家のほうへ」「第二部 スワンの恋」ちくま文庫 p.581~参照。優れた音楽にはさらにその先があったります。読んだことない人、読んでみてちょ。

そしてさらに、他者との関わりのみならず政治や経済といった歴史的背景をも含めた全人的な音楽活動の総体が精神的健康と不健康に与える影響をたった一つの脳内物質に還元できるわけもない。

それでも敢えてレスター・ヤングやジョニー・ホッジスを聴いてしびれなまずになることをここでちょっとばかり強調してみたのは、あくまでも強迫的防衛とは異なる機序でもまた音楽に対する執着が生ずるというあまりに自明過ぎて生真面目な「聖者」コルトレーンの物語からは見逃されがちな側面を指摘したかったからに他なりません。コルトレーンだって当然、音楽を聴くことの、そして音楽することの歓びにどっぷり浸かっていたに違いない。


以上、コルトレーンが被ったいくつもの死別との関連において、音楽への並々ならぬ執着と、しばしば強迫的と称された練習について、いくつかの在り得たであろうその意義を挙げてみた。でもちょっと待てよ。なるほど音楽を巡って強迫性と嗜癖性が共存することは在り得るだろう。しかし悲嘆の防衛と対象備給の撤収は矛盾するんでないの? (つづく)


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