どうしても死から顔を背けてしまう | ジョン・コルトレーン John Coltrane

どうしても死から顔を背けてしまう

喪の作業、そして強迫的儀礼としての?〈32〉


コルトレーン、ヘロインを断つ その64



「相継ぐ近親者の死」 で記した通り、コルトレーンは12歳の冬から14歳の秋までの2年間に祖父、祖母、父、伯父の4人の近親者を失った。一つ屋根の下に暮らしていた3家族計8人が女と子供だけを残す4人に半減してしまったのだ。この一連の対象喪失は強迫的な性格傾向を持った少年にどのような影響を及ぼしたか、を僅かに残っている事実から推測に妄想を重ねて穿鑿するのがこのパートの目的となります。



死について考えるのは気が重いです


そんなわけで近親者を死によって失った少年の気持ちを考えてみなくてはならないのですが、なかなかうまくチューンできない。頭で考えれば悲しいだろうとか、心細いだろうとか、不安だろうとか通り一遍の忖度はできるが、実感を伴った想像ができない。ほとんど像が結ばれない。身近な親しい者を失った経験がある人ならまた事情は違うのかもしれませんが……。



まずそもそも、他人の死にしろ自分の死にしろ、死についてはあまり考えたくならない。なんだか恐いし、不安だし、忌まわしい。いくら勇み立っても自然と思考の腰が引けてしまう。内角直球の後の外角の変化球みたいです。あるいはデッド・ボール後の次打席での外角球。気持では踏み込んでいても体は及び腰。死を前にすると「考える」「想像する」という営みがそんな具合に無意識裡に牽制されがちです。もちろん本能的な忌避というのもあるでしょう。が、どうもそれだけではなさそうです。死について考えても、本能が発動されるような実際的な危機に直面するわけではありませんし……。



もっとも、人間は憎悪に駆られている時、積極的に相手の死を思うってことはある。しかしそれは死について考える、想像するというのとはだいぶ違っていますね。お前なんか死んでしまえ! というのは思考ではなくて情動・衝動のなせるわざじゃないかと思う。


そんな場合、少なくとも自分の死はどっかに吹き飛んでしまっているような感じがする。というか自分の死(あるいは自分が否定されること)を認めまいとして人は憎悪するんだと思いますが(やばい。前置なのにむつかしくなってきた。だんだん手に負えなくなっていくぞ)。



無意識は死を知らない


無意識は死を知らないとフロイトは言った(*)。死には無意識的な対応が見いだせないと。意識レベルでは(新皮質レベルでは?)自分もいずれ死ぬということはわかっている。死という事実を知識としては持っている。しかし無意識レベルでは自分の死などこれっぽっちも信じておらず、あたかも不死であるかのように振舞っている。


特別な場合は別にして、ふだん仕事したり遊んでいる時に自分が死ぬこと意識している人っています? よくよく振り返ると、まさしくあたかも自分は死なないかのように存在してますよね。たぶんそれが自然で普通なことなんだと思います。どうも無意識は自分自身が死ぬということをほとんど表象できないというようにできているらしい。その影響をわたしたちは知らず知らずに強く受けている。


(*)『フロイト著作集5』「戦争と死に関する時評」(1915)p.409-410、p.416-417、p.419/『同3』「無気味なもの」(1919)p.347-348/『同6』「自我とエス」(1923)p.298、「制止・症状・不安」(1926)p.349



そういうものなんだとわかると、ちょっと気が楽になります。なかなか死に対して思考・想像の焦点が結ばない、というのは無理もないことなわけですから。そんな風に、死には不可能ってのが常についてまわる。


そしてよく考えれば(まあ、よく考えなくても)死って絶対自分じゃ体験できない。不可能です。死んでしまった時にはもう自分というものが無いわけだから、「体験」としては成立しない。


体験できるのはその直前まで。いわゆる臨死体験というやつだけ。その訪れは確実なものなのに、死はわたしたちの主観にとっては一かけらの確実性もない。体験不可能なんだから。死ぬのはいつも他人だけ、ってわけです。



死の恐怖?


その体験不可能なものに恐怖を抱いたり、不安に感じたり、忌まわしいと思ったりするのはだから本当は錯覚なのかもしれない。実際のところ、それは死そのものに対する恐怖や不安ではないのかもしれない。


別の角度から言うと、不安や恐怖を惹き起こす対象喪失や分離不安を始めとする諸々の外傷体験(*)が、欠如という在り方でわたしたちの心の奥底に巣食っている死にリンクする、ということになるのかもしれません。


(*)性的虐待といった特別なケースだけでなく、わたしたちは普通、出生外傷=出生時のストレスや離乳=乳房という対象の喪失等々という形で例外なく「ある種の」外傷体験を持っている、と考えてよいと思います。ある意味で成長に伴う新たな能力の獲得ごとに、確実に対象喪失を経験している。例えば、言語の習得は言語化不可能なものと引き換えに行なわれます……これ以上はむつかし過ぎるのでご勘弁。


そして逆に死が過去における諸々の外傷体験を呼び覚ますこともある。そのために「迷妄」としての不安や恐怖を生んだりする。死は虚の焦点として常にわたしたちの生を裏側から不可視かつ不可知な仕方で牽制し規定しているというわけです。そしてそれが昂じると時に人は精神を病みます。


近親者の死が引き金になって精神障害が生じる、というのもその辺のことになんらかの関係があるんじゃないかと思います。例えば、フロイトが残した症例の中から取り挙げますと、強迫神経症(強迫性障害)の「ねずみ男」は父親の死をきっかけにその病状を急激に悪化させましたし(*)、ヒステリーの症例中3例が近親者の死をきっかけに発病するか、症状を悪化させています(**)。しかし近親者の死と、わたしたちの中に「何も無い」という在らぬところの在り方で(なんか実存主義みたいですが)巣食っている死がどう関係して病理を産み出すのか、は難しくてわたくし(あれ、「おれ」じゃないのかい)の手には余るのでここでは触れません。


(*)『フロイト著作集9』、「強迫神経症の一症例に関する考察」p.236、p.272


(**)『フロイト著作集7』「ヒステリー研究」エミー・フォン・N夫人:p.24-25, p.61、エリーザベト・フォン・R嬢:p.113, p.128-129、アンナ・O嬢:p.154-155。なお、フロイトがヒステリーとして記述した症状は、現在では身体表現性障害の下位区分として身体化障害、転換性障害と呼ばれている。



けれども、どういう精神+心の原理、仕組みでそうなるかは解からぬが、「喪の作業」の失敗が病理を生む、という現象面だけならアホなコルトレーン・ファンにも追うことができますし、そこから弱冠の知恵のパンくずをついばむこともできそうです。


また、死について考えることの困難さや、父親を失った少年の気持ちにうまくチューンできないといった不能にもかかわらず、現象面だけならきっと追うことが可能です。それでは一体、「喪の作業」とは具体的には何であるのか。それが次回のトピックになります(マジやばい。前置きだけで一回分喰っちゃった)。


(つづく)



あんちょこ


吉本隆明『新・死の位相学』春秋社。1997年刊。
モーリス・ブランショ『文学空間』現代思潮社。1983年刊(原著は1955年)。




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